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2024年GW 三陸ブラックツーリング

戦跡、災害被災地などを訪問する旅行を、ダークツーリズム、ブラックツーリズム、グリーフツーリズムなどと呼ぶらしい。
近現代で激しい戦闘や虐殺があった場所は政治的な意図もあって世界中で記念館がたてられているし、チェルノブイリ原発だっていまや観光名所になっているようである。日本では広島の原爆ドームがあまりにも有名だが、東日本大震災以降は津波被害のあった地方を訪れるのだって、代表的なブラックツーリズムの旅行先に相当する。
今年の正月には能登半島で大地震があったから、復興が進めばいずれはこのような旅行の訪問先となるのだろう。

私は東日本大震災のあった翌々年の2013年から、毎年、バイクで東北地方を訪れるのが習慣のようになっていた。
最初の2013年は、夏休みに東北自動車道をまっすぐ北上して、八戸より北まで行ったのだが、仙台以北の東北自動車道は舗装がひび割れた箇所が多く、舗装工事で一車線規制の入っている区間も多数あった。小川原湖が夏とは思えないほど寒かったのが印象的だった。
その後少し間が空いたが、2016年にはようやく津波の被害が大きかった三陸地方を観光で訪れるのも憚られない雰囲気となったので、陸前高田にある小学校の廃校舎を宿泊施設に転用した二又復興交流センターという宿に泊まり、当時はまだ三陸道もほとんどできていなかったので、国道45号線を延々と走って八戸を越え、勢い余って本州最北端の大間まで北上したのが、私の三陸ツーリングの始まりだった。
この時は、夕方に陸前高田に到着したのだが、何もない陸前高田の街に、一軒だけプレハブのコンビニ兼土産物屋だけあるのが印象的だった。震災からすでに5年が経過していた。
それから後は、コロナで旅行が憚られた2020年と2021年には三陸ツーリングを決行しなかったのだが、それ以外の年はGWか夏にバイクで三陸の海岸沿いに北東北までツーリングをして、復興具合を確認するのが習慣となっていた。

いわば、ブラックツーリズムとツーリングを合わせた、ブラックツーリングである。

2016年当時の国道45号は、三陸道や防潮堤建設の目的と思われる大型ダンプが大量に行き交っていて、バイクで走るのは辛い状況だったが、それも年を追うごとに減っていき、それとは反対に三陸道の完成区間が増えたので、毎年時間が進むごとに三陸のドライブやツーリングは便利になった。
バイクというのはまっすぐ走るより、曲がるのが楽しい乗りものであるから、ワインディングの多い国道45号を走るのは楽しいし、時間がなくなれば三陸道をワープのように使って一気に距離を稼げるから、旅行もしやすい。
三陸地方の宿も、震災直後は工事関係者やボランティア向けだったと思われるプレハブ造りの最低限の設備しか備えない宿が多かったが、それも次第に数を減らして、今は旅行者向けのホテルが再開されたり新しく建設されるようになった。
宿泊地も魅力的になったのだ。

各地には震災記念館のような記念館も建設されているし、浄土ヶ浜や龍泉洞といった昔からの観光地もあるから、三陸地方は今が最も旅行のしがいがある場所ではないかと思われる。

今年もこのような三陸の「ブラックツーリング」を、GWの休みを利用して決行することにした。

常磐自動車道

2024年4月27日の行程

2024年4月27日の土曜日、午前2時20分にバイクで自宅を出発した。

こんな早朝に出発をするのは、連休初日の高速道の渋滞を避けたかったのもあるが、本日の行きたい場所を全て訪れ、かつ本日宿泊するホテルの夕食に間に合わせるには、逆算するとどうしてもこの時間に出発しないといけなかったからだ。

2時40分過ぎに三郷ジャンクションを通って常磐道に入る。
連休の初日であるから、こんな深夜でもそれなりの混雑を覚悟していたが、実際の常磐道はガラガラであった。
真っ暗で車のいない常磐道をひたすら北上する。
守屋SAを過ぎた頃から、花粉の季節は終わったはずだが、目から花粉起因と思われる涙が出始める。
バイクなので、涙をぬぐうこともできず放置していると、涙が流れては乾きを繰り返すうちに、まぶたが目ヤニで張り付くようになり、大変不快になる。

友部SA

3時40分、友部SAで一度目の休憩。
トイレに入った後、食堂をみたらフードコード内の蕎麦とうどんを提供する店だけ営業をしていた。
友部SAを発ってもまだ空は暗い。
暗闇の常磐道を走っていると、日立市近辺の長いトンネルがありがたい。トンネルの中の方が明るいので視界が効く。暗くても遠くまで見えることは見えるが、やはり明るい方が運転をしていてストレスは少ない。

中郷SA

4時20分、中郷SAに到着。
真っ暗だった空が白み始めている。
トイレを済ませた後、まだ余裕はあるがここで一度目の給油をする。高速のガソリンスタンドは高いので、なるべく高速内での給油量を減らすためのささやかな工夫である。

中郷SAを過ぎるといわき市を抜けて、福島第一原発の横を通る区間に入る。

常磐道が全通したのは2015年の3月で、私は早速その年に常磐道を全線走り通した。
その頃は、いわき市を越えたあたりから南相馬までのほとんどが帰宅困難地域で、農村であるのに住宅には人が住んでいる気配はなく、田畑は放置され雑草が生い茂っていた。
「しゅうまい」と揶揄される除染をした土壌を詰めた真っ黒のナイロン袋があちらこちらに積み重なっており、道路はどこも封鎖されていて警備員らしき人が侵入者が入らないように見張っていたものだった。

ならはPA
ここから常磐道の一車線区間が始まる

そのような風景が何10kmも続いていたのだが、今はそのような帰宅困難地域も大分狭まり、常磐道沿いの農村は息を吹き返している。
福島第一原発に最も近い大熊インター近辺は相変わらずだが、その周辺数キロ以外は、少なくとも常磐道から眺めた限りでは、かなり回復をしているように見える。当然、実際には震災前よりまだまだ厳しい状況なのであろうけれど、通過するだけとはいえ、訪問する旅にこうした変化を感じられるのは嬉しくもあり、一方で何も変われない自分の自責の念も芽生えるように感じる。

南相馬鹿島SA

5時40分、南相馬鹿島SAに到着。
こちらは店の営業が8時からとなっていてトイレくらいしか利用できる施設は無かったが、GW向けと思われるジャンクフードの屋台が営業していた。
チョコバナナや焼きそばのような、まさに屋台の食べ物がそろっていた。
3時間以上バイクを走らせて小腹が減ったので、アメリカンドッグを買い食いした。

このアメリカンドッグを食べたのがいけなかった。
そもそも、本日は仕事明けで2時間も寝ていない状態でバイクを走らせている。南相馬鹿島SAを出ると、ここにきて一気に眠気が襲って来た。
たまらず、止まる予定のなかった鳥の海PAに泊まり、建物内のベンチに座って仮眠をとる。

鳥の海PA

仮眠と言っても実際に眠れるわけもないが、目をつむって座っているだけでも多少はマシになった。20分ほど休んで鳥の海PAを出発した。

その後、常磐道から仙台西道路を抜けて三陸道に入り、春日PA、道の駅三滝堂とこまめに止まって休憩を取り、8時30分に志津川インターを降りた。
丁度、バイクの給油サインが出始めていたので、インターを降りてすぐのガソリンスタンドで給油を済ませ、まもなく、最初の目的地である南三陸さんさん商店街に到着した。

南三陸さんさん商店街

南三陸さんさん商店街

南三陸さんさん商店街は、東日本大震災後の復興の象徴のような場所だ。
震災後、まもなく再開された商店街で、木造の簡易な建物が、いかにも震災後の復興の風景にマッチしていて、テレビでも何度も放映された。

三陸地方をバイクのツーリングで訪れる際には、必ず南三陸さんさん商店街に寄るようにしているが、大抵は何も買わずに立ち去ってしまっていた。
というのも、三陸地方を北上するツーリングでは、一泊目を石巻や女川あたりにすると南三陸さんさん商店街を訪れるのは朝食を食べて間もない時間になるし、気仙沼あたりを一泊目とすると間もなく宿の夕食となる時間に訪れることとなる。
バイクだから運べる荷物には限界があり、まだまだ先の行程は長いのに、ここでお土産を買うわけにはいかない。
昼にここで海鮮丼を食べるようにしたいのだが、そのような旅程とするには、釜石から宮古辺りを宿泊地とすれば丁度よいのだが、なかなかそのような旅程で三陸を訪問する機会はなかった。

山内鮮魚店のバイキング形式海鮮丼

今回、本日の宿泊地は宮古よりさらに北で、到着も9時前となった。GWは環境客でにぎわうはずだが、この時間ではまだ観光客の姿はまばらだ。
幸い、この時間でも海鮮丼を提供している山内鮮魚店という魚屋さんがあるので早速入る。
ここで、バイキング形式で海鮮丼に乗せる具を選んで、海鮮丼とみそ汁を食べた。小さい発泡スチロールの皿に乗っていた刺身は、あまり旨そうには見えなかったが、食べてみると旨かった。

昨年訪れた際の三陸311メモリアル内の展示

南三陸さんさん商店街の裏手には、一昨年の2022年の10月にオープンした南三陸311メモリアルという震災記念館がある。
これは昨年すでに訪れているので、今回の訪問はパスをした。

陸前高田 奇跡の一本松

南三陸さんさん商店街を発つと、南三陸海岸インターで三陸道に戻り、三陸道を北上する。

三陸地方の観光において、三陸道は大変便利であるのに違いはないが、震災後に建設が進んだ道路であるためか、なるべく内陸の低山をまっすぐ貫くように建設されている。
したがって、せっかくの三陸地方であるのに景色を楽しむことはほとんどできない。
であるから、バイクのツーリングにおいてはなるべく三陸道は使わずに国道45号を使いたいのだが、市街地にはいると多数の信号に阻まれるので、今度は逆に三陸道で一気に市街地をバイパスしたくなる。
三陸地方のツーリングにおいては、どこを三陸道で走り、どこを国道45号で走るかが、ツーリングを楽しめるかどうかの肝であるように思える。
今回は、南三陸から陸前高田まで三陸道で一気に通り過ぎてしまう。
この区間の国道45号も、海岸沿いの景色は素晴らしいのだが、気仙沼のような市街地以外でも比較的信号が多く通過に時間がかかるからだ。

東日本大震災津波伝承館
道の駅でもあるので、土産物屋と食堂を併設している

気仙沼市街を巨大な気仙沼湾横断橋から見下ろした後、陸前高田長部インターで三陸道を降りて、9時40分、東日本大震災津波伝承館に到着した。
今回は奇跡の一本松だけ眺めることにする。

2016年、初めて陸前高田を訪れた際は、このような立派な施設はなく、津波で溢れた廃材が取り除かれただけの淋しい場所であった。

奇跡の一本松

陸前高田の横を流れる気仙川には、国道45号の橋の他に、工事用の土砂を運搬するためだけの巨大な橋が架けられていた。
現在の陸前高田は、この工事のおかげであると思われるが、内陸の人工的に造られた高台の上に新しい街ができている。

魹ヶ埼灯台と本州最東端の碑

東日本大震災津波伝承館の駐車場を出ると、国道45号から再度、通岡インターで三陸道に復帰する。
できれば退屈な三陸道は使わずに国道45号を走りたいところなのだが、この先の大船渡はちょうど国道45号沿いに長く街が形成されていて、ここを国道45号で通過するには信号が多く一部の道は狭いため、三陸道でバイパスをした。
大船渡を過ぎたのち、三陸インターで三陸道を降りた。

ここからは国道45号を流すように走る。交通量も少なく快適な道だ。
しかし、釜石の市街地に差し掛かったあたりで、睡魔が再度襲ってくる。止まって休むほどではなかったので、あくびをしたり、首を振って誤魔化しながら走る。
これほど眠いのであれば、この先の訪問地をスキップして、三陸道で一気に宿まで行ってしまおうかと思い始める。三陸道を使えば2時間もかからずに宿に着くはずだが、そうするとチェックイン時間前の到着となってしまう。宿の周辺には何もないから、ロビーのソファーで休むか等と考えながら走る。

11時30分、産直ひろばふれあいパークやまだという、道の駅ではないドライブインに到着。
三陸ツーリングでは必ず立ち寄る場所であったが、今年は施設が工事中で、隅のプレハブ小屋でわずかに営業しているだけだった。
この駐車場から見える穏やかな海と船越半島を眺めていたら、やはり、当初行くつもりであった場所には行こうと思い直すようになった。
ここで、昼飯替わりのヨモギ大福を購入した。手作りらしく値札の横に生産者の氏名も書かれている。
こういう情報を見ると、手作り感が増して3割増しくらいに旨いものではないかと思えるようになる。やはり、ラーメン発見伝のラーメンはげが言うように,消費者というのは情報を食っている。

ここから、国道45号をそれて県道41号に入り、バイクで走るのにも辛く厳しいつづら折りのカーブが続く道を進む。
ここを通るのは三回目だが、よくもまあ、毎度事故を起こさず無事に通り過ぎれたものだと思う。

姉吉キャンプ場

姉吉というバス停にある三叉路を曲がり県道を逸れて東に進むと、12時10分、姉吉キャンプ場に到着した。
この姉吉キャンプ場は、元々デイキャンプ専用のキャンプ場で宿泊は不可であったのだが、今年から宿泊も可能になったようで、すでに5~6張のテントが張られている。

ここでのキャンプは魅力的だが、今回もここではキャンプをせず、ここから徒歩で3.8kmの遊歩道を歩いた魹ヶ崎灯台を目指す。
魹ヶ埼灯台は2016年の初めての三陸ツーリングの際にも訪れたが、今回は久しぶりの再訪となる。魹ヶ崎灯台自体、一度訪れれば十分で、何度も訪れるような場所ではないのだろうけれども、眠気をおしてでも、どうしても再訪をしたかったのだから仕方がない。
魹ヶ崎へ向かう遊歩道に入ると、早速の登り道。一気に標高110mまで上がると小さい標識があり、そこからは徐々に高度を下げながら魹ヶ崎灯台に至る。
徒歩にて1時間ほど、距離は3.8km。
道は急な坂道以外は舗装されていないが、崩れている箇所もほとんどなく、決して交通の便が良いとは思えない僻地にもかかわらず、しっかり整備がされていると思われる。
登山装備は必要ないが、街灯のようなものはないし、魹ヶ崎灯台に至ってしまえば、どうしたって1時間は歩いて遊歩道の入口まで戻らないといけないのだから、天気や時間には十分な配慮をして、不安であれば水分や食料だけでなくヘッドライトや雨具類も携帯して歩きたい場所だ。

魹ヶ埼灯台の看板
魹ヶ埼灯台

すれ違う歩行者も多い。GWでもこんなところまでやってくる観光客は多いのだ。
13時10分、魹ヶ埼灯台に到着した。
灯台の中に入れるわけではないので、外から写真を一枚だけ撮って、本州最東端の碑に向かう。灯台から岩場の道を少し空いたところに碑がある。

本州最東端の碑

碑の横にあった、座るのにちょうど良い岩に腰かけて、さきほどの産直ひろばふれあいパークやまだで購入したよもぎ大福を食べる。
粒あんに塩味が効いていて、関東では食べられない味である。運動した後というのもあり、大変美味しいものであるように感じた。

14時10分に姉吉キャンプ場に戻った。
あとは、本日の宿泊地に向かうだけである。

ホテル羅賀荘

本日の宿泊は、岩手県の北端に近い田野畑村にあるホテル羅賀荘という宿である。

ホテル羅賀荘

このホテル羅賀荘については、毎年泊まりたいと思ってはいたのだが、値段が一泊2万円以上と高価であるし、GW期間は比較的早く満室になってしまうため、ずっと泊まれずにいた。
しかし、今のバイクを購入して9年が経ち、そろそろ廃車を考えねばならず、また新しいバイクを購入する気力も無ければ、バイクを購入した販売店では250cc以上のバイクを買えなくなってしまったのもあり、今年が最後の三陸ツーリングになってしまうかもしれないという思いもあり、今回はホテル羅賀荘の宿泊を決めた。

なぜ、そこまでしてホテル羅賀荘に泊まりたかったかというと、中学時代の修学旅行で、このホテル羅賀荘に二泊もしていたからだ。
その修学旅行の旅程は、記憶が曖昧な部分が多いので確実ではないのだが、記憶の断片や状況を合わせると、以下のような旅程だったはずである。

三陸鉄道 田野畑駅

1日目:上野駅から東北新幹線で盛岡駅、盛岡駅から山田線で宮古駅、宮古駅から三陸鉄道北リアス線で鳥越駅、鳥越駅から鵜の巣断崖まで徒歩で往復、鳥越駅から再度三陸鉄道北リアス線で田野畑駅、田野畑駅からホテル羅賀荘まで徒歩で到着。
2日目:ホテル羅賀荘から北山崎まで遊歩道を徒歩、北山崎で昼食後にわらじ作り体験、わらじ作り体験後は車道を徒歩で歩いてホテル羅賀荘に帰着。
3日目:ホテル羅賀荘から観光バスで北山崎遊覧船に乗船、北山崎遊覧船後はバスで龍泉洞、蕪島神社を訪問後、現在は星野リゾート青森屋となっている三沢の古牧温泉に宿泊。
4日目:古牧温泉からバスで奥入瀬渓流、奥入瀬渓流の遊歩道全行程14kmを歩いた後に、十和田湖遊覧船で中山半島に渡り、十和田湖畔の旅館に宿泊。
5日目:十和田湖畔の旅館からバスで小岩井農場、小岩井農場で観光、ジンギスカンの昼食を食べた後に盛岡駅から東北新幹線で上野駅。

この中学校は新設の私立学校で1学年80名のみの男子校だったのもあり、このような奇抜というか奇特な旅程の修学旅行になったと思われる。
初日の修学旅行で山田線やら三陸鉄道やらのローカル線に乗るのは、生徒総数たった80人のみの修学旅行だからこそ可能であった旅程だろう。たしか、山田線と三陸鉄道では、この修学旅行のために車両一両を増結してもらい、一車両を丸ごと貸し切りにしたはずである。
それ以上にこの修学旅行の旅程が奇特なのは、北東北を旅行するのに国宝第一号を有する中尊寺を無視したのもあるが、特に2日目のホテル羅賀荘と北山崎を徒歩で往復するだけというもので、少しでも多くの史跡や景勝地を訪れようと頭を悩ます先生方をあざ笑うかのような贅沢な時間の使い方だ。

私がこの旅程を添削するとしたら、初日は東北新幹線を途中下車して中尊寺訪問を組み入れて盛岡に宿泊し、2日目に山田線と三陸鉄道を乗り継いで田野畑へ行くだろう。当然、一日かけての北山崎への徒歩での往復は中止して、3日目は実際と同じように遊覧船、龍泉洞、蕪島の訪問とする。
そして、4日目の奥入瀬渓流14kmの徒歩もせいぜい1~2km程度の距離にとどめて、八甲田山雪中行軍記念館や八甲田ロープウェイを旅程に入れるだろう。
このように妄想してみるが、当時の先生方だってそのような旅程案も考えたはずで、それでもこんな旅程になったのは、余程生徒を歩かせたかったかららしい。

道の駅たのはた

姉吉キャンプ場を出た私は、宮古市街を三陸道でバイパスしたのちに田老南インターから国道45号を北上し、道の駅たのはたに立ち寄って土産物を購入した。
ホテル羅賀荘には、16時20分に到着した。
34年ぶりの再会となるホテル羅賀荘は、修学旅行当時のまま時間が止まっているように思えた。
リアス式海岸の岸壁にへばりつくように建てられた真っ白な直方体の建物が、美しさと寂しさを感じさせると言えば、大袈裟だろうか。
ホテル羅賀荘のように海岸沿いの白い鉄筋造りホテルは、今でも日本に沢山あるのだろうけど、このホテル羅賀荘に関しては、田野畑村という極端にアクセスの悪い場所にあるのが、何か崇高なものを感じてしまう。

ホテル羅賀荘の正面入口

バイクで訪れた私を、正門に待機している誘導係の方たちが丁寧に駐車場所へ誘導していただき、フロントに入ってチェックインをした。
チックインの手続きが大方終わった後に、フロントのお姉さんに「30年以上前に修学旅行でこのホテルに泊まったのですが、記録とかありますかね」と問うてみた。
すると、そのお姉さんはこれまでのビジネス調だった口調が少し砕け、私の後ろで立っていた年配のお姉さんなら知っているかもと声をかけてくれたが、そちらのお姉さんからは「当時は修学旅行が多かったのでわかりませんね」と言われた。
今日はGW初日でフロント業務も忙しいだろうし、これ以上聞いても何もないだろうから、私は「じゃあ、いいです」とだけ言って、そそくさとエレベータに乗って部屋に向かったのだった。

部屋に入ると、浴衣に着替えた後にお茶を飲んで一服した。
部屋から外を眺めると、クラブツーリズムの団体バスが一台やってきていた。やはりGWは混むのだろう。
夕食前に大浴場で久々の広い湯舟に浸かり、気持ちの良い気分で風呂を出ると、大浴場横のロビーのような場所で、クラブツーリズムの添乗員と思われる二人が仕事着のスーツの格好で話し合っている。一人は私と同じくらいの年齢と思われる中年女性、もう一人は20代の男性の二人だったが、女性の添乗員が男性の添乗員に仕事の教育をしているような姿が見られた。
旅先でこのような「仕事」を見せられると興ざめするが、この添乗員たちは部屋も別々だろうし、こうしたパブリックスペースで会議をするしかないのだろう。

ホテル羅賀荘の夕食

夕食はスタンダートプランを予約していたのだが、刺身はもちろん、鴨のローストにアワビや豚のすき焼きもあり、量も質も十分に満足できるものだった。
生酒を付けたが、これはさっぱりとした辛口で先付の塩辛によく合った。
これが、伊豆の旅館でいわゆる「スタンダードプラン」なんかを選ぶと、非常に寂しい夕食となってしまい後悔する羽目になることも良くあるのだが、物価の違いからか、リピート客を大切にしているからなのか、北東北の宿ではそのような事態になる可能性は低いように思う。

隣の席にいた外国人の夫婦は、アワビや刺身を食べれず、日本語も全く喋れず、対応していたホテルの従業員の方が対応に苦慮していた。

夕食を終えて部屋に戻ると、今日は朝の2時から走り回ったせいか、強い眠気に襲われた。本当は19時から営業をするというホテル内のスナックにも行ってみたかったのだが、ここにきて睡魔には勝てなかった。20時前には眠りについていた。

北山崎

2024年4月28日の行程

2024年4月28日の日曜日、ホテル羅賀荘に宿泊している私は、朝の6時前に目が覚めた。それまでも、何度か目が覚めてトイレに行ったのだが。

羅賀荘前の堤防

大浴場で朝風呂に入り、風呂を上がっても朝食まではまだ時間があったので、ホテル前の駐車場を越えて防波堤へ行ってみる。
駐車場に止めてある車のナンバーを見ると、ほとんどが盛岡や仙台や青森の東北地方からの車ばかりだったが、一台だけ横浜ナンバーの車があった。横浜から一日でここまで来たのだとしたら、車でも大変であっただろう。私と同じような奇特な人もいたもんだと関心をしてしまう。
防波堤の先まで行くと、夫婦の観光客とクラブツーリズムの女性添乗員が何か話をしていた。夫婦の方はクラブツーリズムのツアー客というわけではないらしく、ツアーの旅程を聞いていたようだった。
防波堤に着くと、添乗員の方が夫婦を残してホテルへ戻っていった。

朝食の開始は6時40分からであったが、ほとんどの客が開始時間と同時に朝食会場に押し寄せたのではないかと思えるほど、朝食会場は混み合っていた。
私の横にはクラブツーリズムに参加している夫婦が相席した。年齢は50台後半だろうか。夫の定年はまだ先だが、子育てを終えて夫婦だけの休暇を楽しんでいるのだろう。
でっぷり太った妻は楽しそうだったが、夫の方は疲れた顔をしていた。

羅賀荘堤防から南方を眺める

朝食を済ませた後、部屋に戻って少しの間、窓際の椅子に腰かけて外を眺める。
外を眺めていると、ここは素直にいい宿だなと思えた。
時間とお金に余裕があれば、鉄道でここを訪れて一週間くらい泊まり、景色だけボウと眺める只々無為な時間を過ごしたいと思えた。
これまで、色々と旅をして様々な宿に泊まったが、このように思えたのは初めてだった。
とはいえ、今回の旅行ではあまりのんびりもしていられない。

8時00分、チェックアウトをするためにフロントで並んでいると、前の宿泊客が北山崎遊覧船のことをフロント係のお姉さんに聞いていた。
実はこのあと、北山崎遊覧船に乗るか、北山崎の公園のどちらかに行くつもりであったが、どちらに行くのかを決めていなかった。両方行けば良いようにも思えるが、今日は13時に三沢で待ち合わせがあるので、両方に行っていると三沢の到着が際どくなってしまう。
どちらかと言えば遊覧船に乗るつもりでいたのだが、前の客も遊覧船に乗るのだとすると、他にも遊覧船に乗る客は当然いるだろう。
さらに例のクラブツーリズムの団体も遊覧船に乗るとすると、決して大きくはない遊覧船は満員に近くなるのではないか。そう思うと、遊覧船に乗る気は萎えて、北山崎の公園へ行くことにした。

ホテル羅賀荘を後にすると、修学旅行で訪れた当時の私がホテル羅賀荘を離れる際、二度とここには来れないだろうなと思っていたことを思い出した。
中学生当時の私でも、この場所がそう簡単に観光で訪れるようなことはない、僻地だとわかっていた。
しかし、実際には毎年三陸地方をバイクで走り回っていたのだから、わからないものである。

北山崎遊歩道の看板

8時30分、北山崎の駐車場に到着した。
北山崎の駐車場はゆうに200台以上は駐車できる大きなものであるが、GW三連休の中日だというのに、駐車している車は20台にも満たなかった。
これから時間が経てばもう少しは観光客も訪れるのだろうけれど、空いているのはありがたいが、閑散としているのは淋しい。
北山崎の中に入ると、レストハウスや土産物屋が何軒か連なっているが、やる気も無いのか、中に店員さんがいる様子もない。

第二展望台手前

とりあえず、北山崎の先にある第二展望台を目指して、階段を降りる。看板によれば300段以上の階段があるとのことだが、昨日は魹ヶ崎を歩いたのだし、それに比べれば大したこともないし、あまり驚きもしない。
第二展望台の手前まで来ると、ふもとの波打ち際まで降りる階段との分岐があった。とりあえずそれは無視して第二展望台へ行く。
展望台の眺めは確かに良かった。が、あまりに壮大過ぎて手に余り、かえって矮小に見えてしまうように思えた。
私にはホテル羅賀荘の窓から眺める景色くらいがちょうど良いのかもしれない。

第二展望台からの眺め

展望台を引き返し、波打ち際まで降りてみることにする。
階段は急で高低差も大きい。あとから国土地理院の地図を確かめたら、標高差は150mほどあるようである。降りるということはこの後登らなければならないが、ためらわずに降りた。

北山崎の波打ち際

階段を下り切った先の波打ち際は立ち入り禁止になっていた。
修学旅行で歩いた遊歩道は波打ち際のすぐ上で交差しているので、修学旅行でもここを訪れているはずだが、その時も立ち入り禁止だったのだろうか。どうにも思い出せない。

波打ち際に降る階段

階段を登って引き返す。
中学生当時、私は肥満児で運動神経も悪く、その学年の生徒の中でも一番体力がなかった。その当時の自分がこの階段を登り切ったのがどうにも信じられないが、誰かに助けられた記憶もないので、おそらく自力で登り切ったのだろう。
今の私はといえば、疲れは大したことは無かったが、汗が吹き出してしまい難儀した。

北山崎レストハウス前の原っぱ

登りきると、先に登り切ってベンチで休んでいたおじさんが「疲れたでしょう」という目で挨拶をしてきたので、挨拶をし返した。
ベンチに座って汗が引くのを待っていると、ベンチの正面の原っぱでは、修学旅行の時に昼食のシーフードカレーという名の、イカがたくさん入ったカレーを食べたのを思い出した。

蕪島神社

北山崎を出て、岩手県道44号線を北上して国道45号線に向けて走る。
ここはバイクで走るのに、とても気持ちの良い道であった。
程よくカーブがあり、直線は見通しが良い。交通量も少なく、走っていて気持ち良い。
こういう体験をしてしまうと、またバイクを手放すのが惜しくなる。バイクを引っ張り出してツーリングに出かけるまでは、どうにも億劫で仕方ないのだが。

県道47号沿いの海岸

国道45号に出ると道沿いを淡々と走り、久慈市街地の手前で給油サインが出たので、久慈市街の大型店舗が連なる中にあったガソリンスタンで給油をした。
ついでに、電気店でUSBケーブルと充電器、ホームセンターでバイクやヘルメット前面の虫をふき取るためのウェットシートを買って、再び国道45号に戻り北上を続ける。

久慈市国道45号沿いの大型店舗街

岩手県というのは、盛岡や宮古より北になると途端に淋しい地域になる。道路によっては道路沿いのコンビニやガソリンスタンドも極端に少なくなるので、事前に給油や休息を済ませておきたい。
きちんとした資料がないので主観的ではあるが、さらに北にある青森県より岩手県北の過疎ぶりは上ではないかと思う。
それは、この国道45号沿いでも例外ではなく、宮古の北の田老から久慈の南の普代までは、本当に何もない。ついでに、普代と久慈の間もそれなりの距離があるのだが、ここもやはり何もない。
それでも、久慈を過ぎると沿道には土産物屋やコンビニが散見されるようになり、多少は賑やかな雰囲気になる。このあたりは岩手県とはいえ八戸の経済圏に入るのかもしれないし、三陸鉄道が昭和末期に開通したのに対し、久慈より北は八戸線がそれより前に開業していたことも影響しているのかもしれない。

青森県に入ると、国道45号を離れて海沿いの青森県道1号に入る。
ここまでずっと海沿いを走った国道45号は内陸を走るようになり、海沿いの道は県道1号にバトンタッチをする。
県道1号は一部中央線も無い狭い道もあるが、大方は綺麗な舗装路であった。県道1号沿いには種差海岸や蕪島神社といったこの近辺の主要な観光地が集まっている。
種差海岸にも寄ろうかと思ったが、実際に種差海岸に着くと観光客が多く、駐車場も満杯、バイクをちょっと置けるスペースもなさそうなので、そのまま通り過ぎてしまった。

蕪嶋神社の遠景

県道1号はその先も海岸沿いを走るのだが、県道1号沿いを走るには信号のない交差点を右折しないとならない。私はその交差点を通り過ぎてしまったようで、その先の信号を右折して八戸線の踏切を越えて、11時30分、蕪島神社に到着した。

蕪嶋神社の鳥居

蕪島神社も修学旅行で訪れた場所であるが、東日本大震災の後に何度も訪れたので、今更の感慨はない。
火災で焼失した後に新しく建てられた本殿だって、昨年も一昨年も見たから、今年も無事にやってきましたと、本殿で拝んで報告するだけだ。

蕪嶋神社から八戸市街地方面を見下ろす

ただ、今年は特にうみねこのフンの臭いが強いな、という感想だけがあった。
その後、海岸を眺めたりソフトクリームを食べたりして時間を潰し、12時15分に蕪島神社を出発した。
三沢13時の待ち合わせには丁度良い時間であった。

八戸自動車道

2024年4月29日の行程

2024年4月29日の月曜日、今日はまっすぐ東北自動車道を南下して帰宅するだけである。
行きはあちこちを寄り道しながら北上するが、帰りはまっすぐ帰宅するのが、私の三陸ブラックツーリングの習わしの様になっていたし、今年もその習わしに従うつもりだ。

朝の5時に目が覚めて外に出ると想像以上に寒かった。予報の最低気温は7℃となっていたが、実際の気温もそれに近かったはずである。
そういえば、東北のGWの朝はいつもこんな寒さだったなと思い出す。

GWの東北のツーリングは気温との戦いでもある。
喜多方ラーメンを食べるために会津盆地を通れば30℃近い気温に晒されて茹で上がることもあれば、一方で雪に振られることもあり、雪ではなくても北東北で雨に降られると、いくら服を着こんでも震えが止まらないほど体温が下がることもあった。
今年は3日とも天気が良かったので幸いであった。
今日だって、朝こそ気温は低いが、8時を過ぎれば途端に気温が上がるだろう。

6時30分頃に宿泊先を出発をして、上北道、百石道路を経て、八戸自動車道に入る。八戸の市街地の横を7時30分頃に通過した。

八戸自動車道は、八戸を過ぎると間もなく岩手県に入る。
先にも書いた通り岩手県の県北は寂しいのだが、これは八戸自動車道沿いにおいても例外ではないというか、八戸自動車道を走れば、岩手県北というのはやっぱり何もないところだな、という感想を今年も改めて抱いた。
GWの八戸自動車道を走れば、去年までは遠くに見える山はもちろん、自動車道沿いにも残雪が見られたものだったが、今年はやはり暖冬だったのか、雪は全く見られなかった。

東北自動車道と合流して、正面に安比のスキー場が見えるようになると、ゲレンデに集められた雪がゲレンデの上の方にだけ残っていた。
安比高原を過ぎると竜ヶ森トンネルに入る。このトンネルを抜けると、正面に岩手山が見える。

ここから見える岩手山が、私はとても好きだ。

中尊寺

本来であれば、このままどこにも立ち寄らずに、東北自動車道をまっすぐ南下して帰宅するのが習慣となっていたのだが、今回は最後のツーリングになるかもしれないので、これまで通り過ぎてばかりいた中尊寺に立ち寄ることにした。
三連休最終日だから、関東の渋滞を考えるとできる限り早く東北自動車道を通り抜けたいのだが、今回を逃すと二度と中尊寺を訪れる機会を失くすかもと思えば、それくらいは惜しくない。

中尊寺の入口

平泉前沢インターを降りると、丁度給油サインが出たのでインター近くのガソリンスタンドで給油を済ませ、9時20分、中尊寺の駐車場に到着した。

中尊寺本堂

駐車場に駐車をしてから駐車料金50円を支払い、中尊寺の中に入る。
参道の月見坂を登り、本堂をお参りした後、本命の金色堂に向かう。
中尊寺を歩いていると、みるみる気温が上がるのが体感できた。駐車場に戻る頃には真夏のような暑さに感じた。
金色堂は入館料1000円がかかるが、一度きりかもしれないので、素直に支払う。
それにしても、これまで何度か中尊寺金色堂の写真を見たが、あんな変哲のない堂宇の何がすごいのかと思っていたが、金色堂とされていてよく見る写真は金色堂を囲む覆堂と呼ばれるもので、金色堂の本体はその中にあるのだった。

中尊寺金色堂

それすら私は知らないまま、中尊寺を訪れたのだから、無知とは罪深いものだと思い知らされる。

覆堂の中に入ると、金色堂はこじんまりとしているが全面を金箔で覆われた豪華なものだった。これが、平安時代の京からはるか離れた奥州の地で作られたことが、にわかには信じられない。
これだけの建築物を建てられたのだから、平安時代というのもあながち見くびれないなと思う。
いくら権力者が横暴だと言っても、民を飢えさせたままこんな建築物を建てられるとは思えない。やはり、社会全体に一定以上の財力、生産力の余剰が無ければ、このような事業はできたものではないだろう。
すると、やはり平安時代というのは思っているより豊かな時代だったのではないかと、思い直してしまう。
また、中尊寺には本堂や金色堂以外の堂宇も多い。かつてはもっとあったようだが、現存しているものも多い。
これらも、単純に奥州藤原氏の横暴や熱狂的な信仰心のみで建てたものではなく、各地へ派遣する大工のOJTを兼ねていたと考えてみたらどうだろう。平安時代当時、東北地方はまだまだ縄文時代から続く竪穴式住居に住む民を多かったようである。そのような土地で、きちんとした家屋を立てられる大工を育成していたのだとしたら、奥州藤原氏もあながち捨てたものではない治世をしていたのではないかと思えた。

東北自動車道

10時10分、中尊寺を出ると平泉スマートインターから東北自動車道に復帰し、本当にあとは帰宅するだけとなった。

しかし、ここからが本当につらいのである。
バイクに乗りっぱなしというのは、身体中の節々がいたくなる。
高速道路を走り続ければ、集中力だって途切れてくる。
おまけに、本日は中尊寺を出発してから特に、真夏のように暑い。実際の気温は24℃前後なのだが、日差しの強さが気温以上の暑さを感じさせる。
それらを耐えて、どうにか無事に帰宅せねばならない。
そんな無理をしないで、途中のどこかで一泊すればよいとも思うが、大して面白くも無い場所で無為に一泊するのも悔しいし、そうであればむしろ早く帰宅してしまいたいという気持ちは、より一層強くなってしまう。

東北自動車道は仙台に近づくにつれて交通量が多くなり、仙台では渋滞とはならずとも前の車に合わせたペースで走るしかないくらいに交通量が増えた。
しかし、仙台を過ぎるとまた交通量は減り、福島市街地を見下ろす国見SA付近ではまた交通量は少なくなり快適に走れるようになった。
福島市街地の横を抜け、福島トンネルを過ぎて二本松インターを越えると、安達太良SAに止まって給油と昼食休憩を取る。

安達太良SA

安達太良SAは、三陸というか東北ツーリングの帰りには必ず立ち寄る場所にしている。
まず、ここで給油をしておくと、私のバイクでは自宅まで戻る頃にちょうど燃料が1~2Lを残すのみとなるから、高速道路内での高価な給油を最低限にできる。
また、ここで交通情報を確認してこれから先の東北道で渋滞があれば、磐越道を通って常磐道へ逃げることができる。
常磐道への退避は、この先の北関東道と圏央道でも可能だが、これらを利用するとかなりの遠回りになるので、常磐道への退避はここで決断してしまいたい。

今年もそのような慣例に基づいて、安達太良SAに入ると給油を済ませ、二輪置き場にバイクを駐車する。12時10分着。
昼食はフードコートで豚汁定食を食べた。前回もここで豚汁定食を食べたような気がする。シンプルな納豆ご飯がやたら旨いように感じる。
食事を終えて外に出ると、正面にそびえる安達太良山の眺めが良いのはいいのだが、とにかく暑い。まだ4月の東北地方とは思えない。気温は28℃くらいはあったのではなかろうか。
とはいえ、本日は三連休の最終日。時間を遅らせれば遅らせるほど、渋滞に巻き込まれる可能性が高くなる。
休息もそこそこに、12時30分、安達太良SAを出発した。

この後、郡山を過ぎて常磐道へは退避せず東北道を南下し続けた。

那須高原を過ぎた上がりからまた交通量が増え始め、那須塩原を過ぎた頃にはまた前の車のペースに合わせて走るしかなくなった。
東北道を南下する場合、毎度のことだが、那須高原から宇都宮の区間が、精神的に最もつらい。
帰宅まではまだ距離があるし、景色も平凡なものになる。交通量は明らかに増えるし、疲労もたまっている。
しかも、このような休日で交通量が多いと、ペースも一定ではないから非常に気を使う。100km/h以上で走り出したかと思うと、突然60km/h以下に落ちてしまうこともある。このような前を走る車のペースに合わせなければならないし、横から突然の車線変更で割り込んでくる車も多い。
すでに7時間近くバイクに乗り続けているから疲労もピークに達している。
蓮田SAで最後の休憩を取るつもりだったが、SAの入口で渋滞ができていたため、やむなく通過してそのまま帰宅することにした。

川口の料金所を過ぎて東北道が終わり、外環道に入った。
三郷ジャンクションは15時ちょうどに通り過ぎた。

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