短編小説 「12月26日深夜」
愛する、という行為は私にとって日常的なものではない。けれど、それをさせてくれる君と出会えた。私は長いあいだ人を愛するということを忘れていた。
いや、最初から知らなかったと言った方が正しい。
201X年
仕事も年度末になり、私たち総務は、経理も含め多忙を極めていました。親会社にへりくだりながらも、業務を仕上げていかなくてはなりませんでした。その年の冬、東京は大雪だったので、君が4月に管理栄養士として入社してきたことをよく覚えています。
私たちの会社は、親会社である大手重工業会社の社員食堂を運営するという小さな役割の会社でした。
少し横暴な部長や、荒っぽい男性社員に動揺しながらも、君はメモをとりながら自分の仕事を丁寧に覚えていきました。言葉使いもとても丁寧で、社内のうわさ話にも関心をもたず、時折、目を閉じて自分の胸に手を当て、少し頷くようにしていました。 まるで自分の気持ちを確かめるように。
君の持つ、その育ちの良さがとてもよく感じられる仕草でした。
「ピアノを習っていました。特にショパンのエチュードが好きです」。君にそう言われたとき、私は自分の視界が音もなく広がった気がしました。
新緑の季節はいつもあわただしく通り過ぎました。君は、ゆっくりだけど正確に仕事を覚えていきました。栄養方針を決める会議でも、声のトーンはいつも変わらず、話し過ぎることも沈黙することもなく、つねに落ち着いていました。
私が初めて君に、一緒に映画でも行きませんか、と言ったとき、君は少しおびえたように見えました。映画は毎年決まったものを母と観に行くんです、そう言われて私は少し驚きました。友人と行ったり、一人で行くならともかく、そうではなかったからです。
でも、一緒に仕事をしながら少しずつ君の事が分かってきました。君が家族をとても大切にしていること。体が病弱なこと。子供のころ、6年間も水泳を習っていたこと。そしてそれをやめざるを得なかったこと。
あるとき君が事務所で卒倒して、驚いた私たちが介抱した後、気を取り直した君は、少しだけ私をにらみました。
後で知ったのは、君にはいつも家族がいて、当たり前の愛情を当たり前のように受けて育ち、何かあった時、両親以外の誰かに優しくされることを君が嫌っていたことです。
君は、裕福で恵まれた家庭環境を「快適です」と言いつつも、自分の病弱な体を恐れてか、時折「いつどうなるか分からないもの」と口にしました。
そして、フューチャーフォンを使い、紙の本ばかり読む自分を「古風だよね」と、少し誇らしく、そして健気に笑って言いました。そのとき私は、君が、自分のことを大切にできる健全なこころを持つ女性だと知りました。
私たちは交際はしませんでしたが、それなりに色々な話をし、お互いを意識していました。
そして私たちはどこかへ一緒に出掛けることはありませんでした。
君は南大沢の桜も見たいし、淵野辺のアジサイも見たいと言いました。けれど、最後まで言うにとどまりました。
飲み会や社員旅行をするだけの余裕のある会社ではなく、事務所や駅までの会社のバスで二人になった時、個人的な話ができただけでした。
そして君は、自分の人生に誰かが入ってくることにおびえていました。
いえ、君は生きることそのものにおびえているようでした。
「昔、悲しい本ばかり読んでいたから」。そう言う君に、私は、人生へ向かう意志と、死へと向かう陰影を感じていました。
でも君は、管理栄養士らしく、自分の食べるものには気を遣っていました。5月にはイチゴを食べ、9月には巨峰と梨を食べ、1月にはリンゴとみかんを食べるのだと。「季節の果物を食べるのが我が家のルールなの」
でもいつだったか、君が、料理は自分ではせず全て母親がするのだと言った時、私はおかしくて吹き出しそうになりました。
けれど、君は肌がとてもデリケートで荒れやすく、メディカルハンドクリームを手放さないということを知ってから、私は反省しました。
調理師ではなく管理栄養士を職業として選んだ理由を聞いた時、君は「その方がお金になるから」と言いましたが、理由はお金だけじゃないのだと思いました。なぜなら、君の家は裕福でしたから。
ピアノを習い、水泳を習い、私立女学校を卒業したわけだから。
そして君は、やはりタフではありませんでした。弱さの方が目立ちました。仕事量も自分でセーブしているのが分かりました。決してアクティブな方ではなかった。君の病欠の度に、部長は「やれやれ」という顔をしたけど、管理栄養士としての献立の方針は、栄養士たちにしっかりと伝達されていたので何の問題もありませんでした。部長は単に、親会社への体裁を気にしていただけでした。君の書く文章は皆が読みやすかった。
君は私に「どうしてここで働いているの」と聞きました。私は、自分にできることが多くないことと、自宅で本を読む時間と音楽を聴く時間があればそれで良かったのだと話しました。
君はそういったことについてはそれ以上質問してきませんでした。
私はこれまで、本を読み、音楽を聴いてきました。
君はこれまで、本を読み、ピアノを弾いてきました。
君は本が部屋に100冊くらいあると言い、私は正直に、本を数えた事はない、と言いました。
君は、都会の暮らしもいいけど、子供の頃に家族で行った群馬の星空が好きだと。ずっと先、30年後くらいに、そんな自然の中で暮らすのもいいかもしれないと言いました。
そんなに先のことを考える君を、私は不思議に思っていました。
私は冬のオリオン座が好きでした。昔、田舎での学生時代のころ、ランニングの後、よく道路に寝転び星空を見上げていました。
私は学生時代、自分はもう終わりだと思っていました。
人に疎まれやすい人間でした。友人が離れていく中で、次第に沈黙を深めていきました。そんなふうに後にも先にも進めないとき、自宅から中学の校舎へ走りました。繰り返し何度も何度も。
その度に、道路に仰向けになって冬の夜空のオリオン座を見つめました。激しい呼吸と白い息だけが、生きている確証でした。
君の場合はもっとゆったりと育ちました。水泳は断念したものの、賢く、豊かに育ちました。
ショパンの「雨だれのプレリュード」や「幻想即興曲」も弾けるようになっていきました。「両親は私がそこまでピアノに夢中になるとは思っていなかったらしいの。私はずっとそのつもりだったんだけどね」
そして学校の図書室でたくさんの本を読みました。「一日に200ページも読んだのよ」
そして君は、高校2年の春に、倒れて記憶の一部を失いました。
それからはピアノもやめ、あまり無理をせず生きてきたと。
君は、うつむきながらそれを話してくれました。
私は、話してくれたことへの謝意を伝え、君に敬意を払いました。
君は「もう昔のことよ」と、割り切ったように言いましたが、私は黙っていました。
ショパンは、私が小学生の頃に初めて買ったクラシックのCDだと言うと、君も黙っていました。そしてあの、少しだけ頷くような仕草をしました。
いつか弾いて聴かせてくれたら嬉しい。私はそう口にしそうになってやめました。
君は、私の想像力の至らなさを、いつも許してくれていたように思います。君の声が小さい時、何度も聞き返す私のことも許してくれました。
現代では音楽CDを買う人は少なくなり、インターネットで定額制で聴いたり、アナログレコードで聴く人が増えました。
そしてお金が本当に重要な時代になりました。
君がこの会社に来て最初で最後の秋。
イチョウの季節の終わるころ。
君は帰宅時の会社のバスの中で、最近の体調がすぐれないことを気に病んでいました。
私は「君のように自分の人生を大切にできる人は多くないよ」と伝えました。そして「自分の人生を大切にする方法を知らない人もいると思う」と。
君は黙っていたけど、前の座席のシートを見つめ、真剣に何かを考えていました。
12月になりクリスマスが近くなると、日々の事務業務と調理業務にプラスして、ケータリングの注文が増え、部長や同僚と各所へ出向きました。そして生ビールが飛ぶように売れる。行楽・パーティシーズンはいつもそうです。
そして君の言うように、本当に街はクリスマス一色になっていきました。
しかしその年の12月は、私の父が咽頭癌だと分かり、放射線療法に苦しむ父を見舞わねばなりませんでした。父と確執があった私に、母は見舞いを強要しませんでした。しかし私は、仕事熱心で勉強家だった父を誇りに思う年齢には達していたのです。
そんな時期は、本など読めず、オーディオで音楽も聴けませんでした。いつも頭にめぐらせていた君のことも忘れがちになっていました。
そして25日のクリスマスの朝。
例年通り、その日も社外でパーティーの仕事がありました。一度会社に立ち寄ると、私のデスクの上に綺麗にラッピングされたプレゼントが置かれていました。すぐに君からだと分かりました。しかし急いでいたので飛ぶように会社を後にしました。
翌日26日の朝、部長から、12月25日付けで君が退職したと話がありました。病状が良くないとのことでした。
繁忙期の君の休暇に、面白くない顔をする社員もいましたが、その休暇は結果として正しかったのです。
私は帰宅後、急いで、25日のクリスマスに開封しなかった君からのプレゼントを確認しました。手紙と共に一枚のCDが入っていました。ラッピングは自前でCDも新品ではありませんでした。
マウリツィオ・ポリーニが弾いたショパンのエチュードでした。
そして手紙にはこう書かれていました。
「以前から両親に仕事を辞めるように言われていました。それから、私の家は決して裕福なんかではなく、自宅の車は中古の軽自動車です。私の医療費にもお金がかかり、母もスーパーでパートをしています。こんな私に少しでも良い思いをと考えて、両親は私にいい暮らしをさせてくれました。このCDは幼い頃に母が私にくれたものです。よかったらもらって下さい。私と話をしてくれてありがとう。私の体がもっと強かったらと思います」
私は、介入してはならない君の人生には立ち入らなかった。君に対して取るべき距離を、私は維持した。
そのつもりだった。
でも私は、その距離を維持したことが正しかったのかどうか、いまだに分からない。相手の人生に加わることを恐れていたのは、本当は私だったのではないかと。
愛することを恐れていたのは、自分だったのではないかと。
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ショパンのエチュードには、作品25−5ホ短調という不協和音から始まる曲があった。私が所有していたショパンのCDはあくまでベスト盤だったので、ショパンの全ての曲を知っていたわけではなかった。
12月26日の深夜、私はそのCDを聴きながら、なぜショパンがこの曲に不協和音を使ったのか、その理由をずっと考えていた。
脳みそが冷え切るまでずっと。
何も見えなくなっていった。
ウィスキーのせいではなかった。
目を閉じているせいでもなかった。
ポリーニのピアノを憎悪した。
それは激しい憎悪だった。
私が憎悪の中心であり、その全てだった。
私の気がおかしくなり始めたころ、君は失われてしまうのだと、やっと気が付いた。
そして私も失われるのだと。
二人は失い合うのだと。
私たちは世界から奪われるのだと。
異様に冴え切った頭でウイスキーを飲み続けた。
二人が消え入る最期の瞬間、胸に手を当て頷くあの姿が、二人の世界ではじけて飛んだ。
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