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【連載小説】第三部 #8「あっとほーむ ~幸せに続く道~」再び、生きる意味を探して……

前回のお話(#7)はこちら

#8に繋がる「番外編」はこちら

前回のお話:

 めぐが妊娠した。それを嬉しく思う悠斗は彼女の体調を誰よりも気にしている。そんな悠斗はオバアの病院通いの付き添いと、家での介護に追われていた。家族は彼が疲労していると見抜いていたが、本人に自覚はなく「休め」と言われて立腹した。その瞬間、心臓が悲鳴を上げ、倒れた。

死の淵をさまよう悠斗。そこに現れたのは、めぐの胎内に宿ったはずの愛菜だった。愛菜は悠斗に生きて欲しいと願い、自ら命を絶った。悠斗が意識を取り戻したとき、めぐは流産していた。悠斗は申し訳なさを抱えながらめぐの元を訪れ、詫びる。しかしめぐは、悠斗が助かったことを喜んだ。そして悠斗を生かしてくれた愛菜や、見守ってくれているであろう神に感謝した。

※今回は2エピソードあるので、ちょい長めです🥰

<めぐ>

「ま、とにかく食べな。全部、木乃香ちゃん自慢の逸品だからね。おかわりもあるから遠慮はいらないよ」

「うん。ありがとう。……でも、こんなにたくさんは食べられないから、一種類ずつにしようかな」

 洋菓子店「かみさまの樹」のカフェテーブルに十種類ほどの焼き菓子が数個ずつ並んでいる。私はその中のフルーツタルトに手を伸ばして頬張った。優しい甘さが口いっぱいに広がる。「かみさまの樹」の味を木乃香も再現できるようになったと知って嬉しくなる。

 彼女は現在、料理学校の二年生。まだ学生とはいえ、これほどの出来映えの菓子が作れるのだから、本来ならば相応の代金を支払うのが筋というものだろう。けれども今日は全部タダ。二週間前に流産してしまったわたしを元気づけるため、冬休みを利用して彼女が焼いてくれたのだった。それもわたしの好きな菓子ばかりを。

 本当は、次の妊娠を望むならきちんと体調管理をしなさいと言われている。上白糖を使ったお菓子も出来るだけ控えた方がいいそうだ。けれど「我慢もよくないよ!」と木乃香は言い「今日のお菓子はめぐ用にアレンジしてあるから大丈夫」と付け加えた。

「お菓子で出来ている私でもちゃんと妊娠できたんだもの、一日くらい余分に食べても大丈夫よ」

 そばでそう言ったのは木乃香のお母さんだ。確か若い頃から、隣に住んでいた今の旦那さん(この店の主人で木乃香のお父さん)が焼いた菓子を食べて育ったと聞いたことがある。甘いものの食べ過ぎは病気の原因になる、と健康診断を受けるたびに言われたそうだが、妊活せずに木乃香を授かったし、大病もしたことがないという。

「だいたい、日夜新作の研究をしている主人は毎日甘いものを口にしてるけど健康そのもの。時々洋菓子店のケーキを食べる程度の人がそれで病気になる訳ないじゃない。悪者はケーキじゃなくて生活習慣の乱れの方。勘違いしている人のなんと多いことか……」

 確かにそうかも……と内心で呟き、木乃香のお母さんは我慢せず好きなものを食べているから、五十代でも肌が綺麗で病気知らずなのかもしれない、などと考える。

「それにしても……」
 と木乃香のお母さんが続ける。

「未だに信じられないんだけど、それが真実なんでしょうね。めぐちゃんのお腹に宿った赤ちゃんが、命の危機に瀕していた『元お父さん』を救ったという話……。あっちの人が現実世界の命を操れるはずがないと思っていたけど、生と死の狭間ではそういうことも可能なのね……。私もまだまだ勉強不足だと思い知ったわ。実は今度、鈴宮さんから直接お話を伺いたいと思ってるんだけど」

「そういうことなら悠くんに伝えておきます」

「ありがとう。会えるという話になったときにはこっちから出向くわね。病後の方に無理をさせるわけにはいかないもの」

「はい、そうしていただけると有り難いです」
 わたしたちは互いにうなずき合った。

 悠くんとわたしの入院が、各々の働き方や祖母の介護について考えるきっかけとなったのは言うまでもない。祖母についてはさっそくデイサービス通いが決定し、今日も施設の世話になっている。家族の負担が少なくて済むよう送迎も頼んでいるから、日中は仕事なり身体を休めるなりに時間を使える。もちろんお金はかかるけど、家族の命には替えられない。

 悠くんは最後まで渋ったが、最終的には祖母自身が説得した。

「あなたがわたしに元気でいて欲しいと言ったように、悠斗君にも長生きして欲しいのよ。生きていれば毎日おしゃべりできる。わたしはそのためにちょっとお出かけして帰ってくる。悪い話じゃないと思うんだけど?」
 そう言われた悠くんは首を縦に振るしかなかった。

 食べきれなかったお菓子は持ち帰り、家族にも食べてもらうことにした。焼き菓子だから日持ちするし、翼くんや悠くんにもぜひ味わってもらいたかった。

 その前に祖母が帰宅する。送迎バスの停留所まで迎えに行ってくれたパパと祖母を玄関先で出迎える。

「おかえりなさい。あれ? おばあちゃん、お化粧してるの? いつもより顔色がいいね!」
 ほんのりと香水らしき匂いもする。祖母は恥ずかしそうに笑う。

「今日は、地元の美容学校の生徒さんが訪ねてきてね。おばあちゃんたちにお化粧をしてくださったのよ。彼女たちは『見習いだから下手だけど』って謙遜してたけど、こっちの気持ちを若返らせてくれたんだもの。百点満点よね」

「ちょっと値は張るけど、思いきって通所を決めて正解だったよ。まだ通い始めて間もないのに、以前より元気になったように見えない? やっぱり同年代の話し相手がいるって言うのは大きいみたいだ。こんな笑顔が見られるなんて僕も嬉しい。仕事を早く終えて迎えに来た甲斐もあったというものだよ」
 パパが祖母を居間のローチェアに腰掛けさせながら言った。

「……悠には、おばあちゃんが楽しく過ごしてきたことを話しておいて欲しい。一応承諾してくれたけど、完全に納得したわけじゃなさそうだからね」

「わかった」

「ただいまー」
 その時、翼くんが帰ってきた。園は相変わらず人手不足だというが、わたしの体調を気遣う彼は最近定時で仕事を終え、どこにも寄らずに帰ってくる。

 玄関の靴を見たのだろう、彼は「アキ兄、来てるの?」と言いながら居間に入ってきた。

「おばあちゃんを連れてきたところだよ。……翼くんが帰ってきてくれたなら僕は失礼しようかな。あとのことは任せてもいい?」

「うん、大丈夫」

「よろしく。……だけど、くれぐれも無理はしないように。ちょっとでも疲れを感じたら休んでいいから」

「分かってる。……っていうかその台詞、めぐちゃんにも悠斗にも毎日言われて耳にたこができてるよ」

「彼女らは入院したことで、健康がいかに大事か身をもって知ったばかりだからね。しばらくは聞き流したくもなるだろうけど、こうして元気な姿で戻ってきためぐたちの言葉をどうか受け容れて欲しい」

「そうそう!」
 わたしは激しく同意し、翼くんの腕にしがみついた。彼は嬉しそうに微笑み、空いている方の手でわたしの頭を撫でた。

 それじゃあ……と背を向けたパパが、長居は無用とばかりにすぐさま玄関に足を向けた。わたしは慌てて引き留める。

「木乃香にもらった焼き菓子があるの。せっかくだからパパもここで食べて行きなよ。ママはまだ帰ってこないでしょう? 家に帰ってもひとりなら、ね?」

 わたしは袋を逆さまにし、こたつテーブルの上に焼き菓子を広げた。その数が想像以上だったのだろう。パパは「じゃあ、食べながらめぐのおしゃべりに付き合おうか」といってショルダーバッグを降ろし、こたつの前に腰を下ろしたのだった。

 親子の団らんを終え、パパが帰宅した後はゆっくりと夕食の支度を始める。最近は健康のことを考えて和食が多い。この日のメニューも焼き魚や煮物中心だ。身体に気遣う前のわたしはハンバーグやピザなど洋食ばかりを好んでいたが、流産を経験後、身体を温める食材や食べ方があると知り、翼くんや祖母から積極的に和食の作り方を習っている。

 食卓に料理が出そろった頃には悠くんも帰ってきた。彼も身体のことを第一に考えて勤務時間を短縮している。収入が減ることに不安や葛藤もあるようだが、また倒れるわけにもいかないというのは本人が一番分かっているので、今はそういう働き方を受け容れているらしかった。

 皆が食卓に着き、「いただきます」をする。ご飯を口に頬張るより先にわたしは今日の出来事を話し始める。

「今日、『かみさまの樹』に行ったんだけど、木乃香のお母さんが悠くんと話したいって。どうやら臨死体験の詳細を聞きたいみたい。会いに行くから都合のいい日を教えてって言ってたよ」

「……つっても、大したことは話せないけど、まぁ、会いたいって言うなら了解。基本、昼間ならいつでも大丈夫って伝えておいてくれ」

「わかった」

 わたしは悠くんの了解が取れるなりスマホを取り出した。と、思いがけず一通のメールが届いていることに気づく。時々お店に来るクミさんからだった。何の気なしに開く。

――めぐちゃん、お腹の赤ちゃんは順調? 実はあたしも二人目を妊娠したっぽいの! 同じ学年になるかもね、楽しみ♡ 近々、またお店に遊びに行くね――

 血の気が引いた。彼女にはまだ流産したことを伝えていない。次にお店で会ったときに言おうと思っていたが、まさかこういう展開になるとは……。

 この、言い知れぬ焦燥感は何だろう? この、胸のざわめきは何だろう? 呼吸が乱れる。

「めぐ……? 急にどうした?」
 スマホを見たあと顔色を変えたわたしに気づいた悠くんが画面を覗きこむ。文面を見、押し黙る。そして何ごとかと不安げな翼くんにスマホを渡す。彼もまたメールを読み、言葉を失った。

「……みんな、どうしたの? 急にお通夜みたいな顔しちゃって」
 ひとり事情を知らされていない祖母がいった。

「めぐちゃんの身体のことで、ちょっと……」
 翼くんは曖昧に答えたあとでわたしの肩をそっと抱いた。
「もしかして、申し訳ないって思ってる? 赤ちゃんに対して。それから……俺に対して」

 わたしは答えなかった。翼くんはため息をつく。

「そのことについては、ここにいる全員が残念に思ってる。だけど、誰にも罪がないことも全員が知ってる。……避けようがなかった。誰も介入できない、生と死の狭間でのやりとりだったなら尚更だ」

「分かってるよ、そんなこと……」
 言いながらも、今感じていること、口にしたいのはそうじゃない、との思いが込み上げる。

「……違う。わたしはただ、ねたんでるだけ。妊娠したら必ず元気な赤ちゃんが生まれると信じて疑わない彼女を。実際そうして生まれてくるであろう赤ちゃんのことを」

「…………」

「もう一度頑張ればいいって話じゃない。命が一つ失われたことに変わりはないんだもの。……だけど、悠くんが助かったのはその命が失われたおかげなのも事実。……分かってる。けど、いまだに受け容れられないわたしがここにいるの……」

「めぐ……」
 悠くんは何かを言いかけたが、唇を噛んで再び黙った。

「いま、わたしたちに出来ることは何だと思う?」
 静まりかえった室内で、祖母がぽつりと言った。誰も返事をしないと分かると答えを言う。
「こうして生きている奇跡に感謝すること。それしかない。……そうでしょう、悠斗君?」

「そのとおりです。……おれたちは確かに生かされている。そこにどんな意味があるかは分からないけど、それを探しながら生きていくしかないし、それが人生だっておれは思います」

 彼は力強くうなずき、今度ははっきりとわたしの顔を見て言う。

「オジイが亡くなったときも悲しかったと思うけど、自分の身体の一部を失った今はより深い悲しみがめぐを襲っていると思う。それでも、乗り越えなきゃいけない。前を見つめるなら、その悲しみを糧にしなきゃいけない。おれがそうしてきたように……」

 ハッとする。そうだ。彼は娘を、母を、父を、そして家族だと言ってくれたわたしの祖父を看取った。そのたびに悲しみに暮れてきたはずだが、それでもこうして生きている。生まれ変わろうとしていた娘の命が再び失われてもなお、彼は生き続けている……。

 本当はどう思っているかなんて分からない、それでも「生かされてしまった」彼がどんな気持ちでここにいるのか、その意味をわたしなりに考えなければならない。おそらくそれが、わたしにとって生きるヒントになるはずだから。

「すぐには難しいかもしれない。だけどわたし、やってみる。……そのための力を貸してください。お願いします……」

 わたしは三人を見回して深々と頭を下げた。翼くんがわたしの冷え切った手を握る。

「俺はいつだってそばにいるよ。めぐちゃんの苦しみは俺が半分背負う。喜びは二倍……いや、悠斗と一緒に三倍、四倍にする。だからこの先も一緒に生きていこう」

「ありがとう、翼くん」
 礼を言うと、悠くんと祖母も静かにうなずく。

 気持ちが少し落ち着いたところで思う。わたしの人生とは何のためにあるのか。自分だけが幸せならいいのか。それ以前に、毎日笑って暮らすことが幸せなのか、と……。

 年老いた者から順に死んでいくことは理解出来るし、祖父の死に際しては最終的に受け容れることも出来た。しかし、胎内の命があっさりと消え去ったとき、自分が生きていることが実は特別な、奇跡的なことのように思えてならなかった。悠くんが「生かされた命」に感謝する様子をそばで見て、その思いは一層強くなった。

 明日は今日の延長で平凡な一日。考えるまでもなく、そんな「明日」は必ずやってくると信じていたけれど、違った。普段は感じないだけで、本当は死とは常に隣り合わせなのだと今回のことで思い知った。

(もっと、生きている今に感謝しよう……)

 それは自分のためであり、わたしを慕ってくれる人のためでもある……。

(そうだ。笑顔笑顔……!)
 トレードマークであるそれを無理やり作る。わたしが元気であることを伝えるにはこれが一番だ。

「せっかくのご飯が冷めちゃう……! さ、食べよ食べよ!」
 湯気の消えた白米を口に押し込む。冷めたそれは、ちょっぴり塩の味がした。

「……馬鹿だな、めぐは。泣き笑いしながら食うやつがあるか。無理すんな」
 悠くんに言われて泣いていることに気づく。彼がそっと涙を拭ってくれる。

「大丈夫さ。愛菜にはまた会える。おれだって今度こそこの腕で抱くんだ。っていうか、抱かずに死ねるか。……ゆっくりでいい。その分おれも長生きすっから」

「……うん」
 悠くんの穏やかな声が胸に染み入り、愛おしく感じられた。

◇◇◇

 それから三ヶ月あまりが経った。一日一日を大切にする、と言っても日々はこれまで同様穏やかに過ぎていく。そんな中、ひょんなことからオーナーの理人さんと伯父の所属していた高校の野球部で集まりたいという話になり、伯父の声かけで急遽、ワライバを貸し切っての飲み会が行われることとなった。

 幼少の頃から、甲子園に行ったことがあるという話は聞いていたものの、メンバーのことや当時の詳しいエピソードについては聞いたことがなかった。

「おれが二年の時に主将だった永江孝太郎って人はすごいんだ。十年くらい前まで東京ブルースカイのキャッチャーだった人。めぐちゃんもテレビで一度くらいは見たことがあるだろ?」

「うそ! あの人と知り合い?! っていうか、その人を呼ぶの?! 伯父さん、すっごーい!」

「だろ?」

「なら、理人さんに頼んでその日は仕事を入れてもらいます。ぜひ会ってみたいですもん」

「滅多にないことだもんな。それがいいよ」

 四月某日。こうしてわたしは永江孝太郎さんとはじめて対面した。

 その顔立ちは集まった誰よりも若かった。シワのない年齢不相応の顔。それはかつての悠くんを――過去にとらわれていた頃の彼を――彷彿とさせた。しかし、終始笑顔の永江さんを見る限り、暗い過去を持っているとは思えなかった。わたしが個別のサインを求めたときも嬉しそうにはにかんでいた。

(こんなに笑顔の素敵なおじさまが後ろ向きに生きてるわけ、ないよね……)

 饒舌に野球のことを語る彼はむしろ活き活きとしてさえいた。まったく興味がなかったわたしに一瞬でも「野球って面白いな」と思わせたのだからすごい。どうやら彼には、野球への情熱もさることながら話術も備わっているようだ。熱い話に引き込まれる。少しも退屈しなかった。

 話に夢中になっていたとき、貸し切りのはずの店のドアが開いた。
「こんばんは……」
 翼くんだった。彼はずかずかとやってきて椅子に座るわたしを見下ろした。

「閉店時間はとっくに過ぎてるんじゃないの?」

 ハッとして立ち上がり、店の時計を見る。退勤時間から一時間近くが経っている。あんまり帰りが遅いので迎えに来たのだ。わたしは慌てて帰る支度をはじめた。彼らには申し訳ないが、体調を気遣う夫の気持ちを無碍むげにはできない。

「それでは、失礼します……」
 わたしは名残惜しさと申し訳なさを感じながら翼くんと共に店を出た。

「無理は厳禁! 分かってるよね?」
 帰りのバイクに乗るや、真っ先に叱られた。

「ごめんなさい……。でも、オジさんたちの話が楽しかったんだもん。それでつい時間を忘れてしまって……」

「……まぁ、楽しかったんならいいけど」

 いいながらも納得していない様子の彼に「足が出た代わりに、明日は一日休みをもらえることになったんだから許して!」と告げる。

「……そういうことなら、明日はしっかり休むこと!」
 彼が念を押したところで我が家に着いた。

「待ってよぉ、めぐちゃーん。チューしよ、チュー……」
 翌朝、いつもの調子で起き出そうとしたら翼くんに引き留められた。

(そう言えば今日は休みをもらったんだった……)
 もう一度ベッドに横たわり、彼の腕に抱かれる。

「今日はしっかり休みなって言ったじゃん……」

「習慣でつい……」

「まったく、真面目なんだから……。休みが重なった日の朝くらい、イチャイチャさせてよ……」

「もう、翼くんったら……」

 ベッドの上でのんびりと夫婦の時間を過ごす。流産して間もないこともあり、互いに身体を求め合うことはしない。それでも温もりを感じるうち、彼の優しい気持ちが伝わってきて幸せな気持ちになる。

「大丈夫。また自然に愛し合えるようになるよ」

「うん……」
 見つめ合い、キスを繰り返す。気分が高まってきたその時、階下で電話のベルが鳴った。

「めぐー。ニイニイから電話だ。……出れるか?」
 ドアの向こうで、電話を受けてくれたらしい悠くんの声がした。

「え、伯父さんから? 何だろう?」

「無視しちゃえよ」

「でも……」
 妙な胸騒ぎを覚えたわたしは翼くんの腕からするりと抜け出し、電話を受けにいく。

「もしもし……」

『ああ、めぐちゃん。単刀直入に言うよ。……永江さんを助けてやってくれないか』

「えっ?!」
 急な頼み事に動揺を隠せない。

「助けてって……。一体、どういうことですか……?」

 詳しく話を聞いてみると、わたしが帰宅したあとで永江さんと一悶着あったらしい。その彼を説得するにはどうしてもわたしの力が必要なのだという。

 電話を切ったわたしはすぐに翼くんと悠くんに事情を話した。

「……嫌な予感がする。俺も同席するよ」
 翼くんは眉をひそめた。
「まず、父さんの頼みってのがあり得ない。野球部でのもめ事は当人たちで解決すればいいものを、よりによってめぐちゃんを頼るなんて」

「うーん……。だけど永江さんを救えるのはわたししかいない、って言われたら一肌脱ぐしかないよね」

「脱ぐぅ……!?」
 二人の時間を邪魔されて苛立っている翼くんはますます憤慨した。そんな彼をなだめるように悠くんが一つの案を提示する。

「めぐ。仕事の一環としてその人の相手をするのはいいだろう。だけど、ちょっとでも問題があったらおれに連絡すると約束してくれ。おれなら、平日だろうがいつだろうがすぐに迎えに行ける。……な? 翼の気持ちも分かってやってくれ」

 二人からこうも心配されたのでは仕方がない。
「……わかった。万が一の時は必ず連絡して仕事を上がらせてもらうよ」

◇◇◇

 永江さんと会う日はすぐに決まった。本人の意志、というよりは周囲が強引に推し進めたようだったが、飲み会の日から一週間と経たないうちにそれは実現した。

「……やぁ」

 詩乃さんに連れられてやってきた永江さんは少し緊張しているようだった。白のワイシャツに水色のジャケットを羽織った彼は、他のお客さんを気にしつつも、理人さんと対面する形でカウンター席に座った。詩乃さんは座らずに少し離れたところから彼を見守っている。

 彼はまず、手持ちの袋をカウンターに置いた。
「大津クン、例のユニフォームだ。好きに扱ってくれて構わない」

「あざぁっす! ……ほら、めぐっち受け取って」

「え、わたしが?」
 目の前の理人さんが受け取ればいいのに、と思っていたら小突かれる。

「今日は、永江センパイの相手はめぐちゃんに任せることにしてるの。だから、よろしく!」
 少し背中を押され、カウンター越しに永江さんの前に立たされる。

(なんか、様子がおかしい。聞いてた話と違うんだけど……!)
 喧嘩の仲裁役を任されたのだと勝手に思い込んでいたが、どうやら別の理由から呼ばれたらしいと分かる。

 向こうがユニフォームの入った袋を差し出したので、受け取ろうと手を伸ばす。ほんのちょっと指が触れる。永江さんはそれだけで驚いたように手を引っ込め、うつむいてしまった。

 その様子を見て、さすがにピンときた。
「永江さん、もしかして今日はわたしに会いに……?」

 思ったことをそのまま口にすると、彼は否定しようとして失敗し、口ごもった。一歩下がった理人さんが口元を抑えて笑いを堪えている。詩乃さんも呆れた様子で見ている。その詩乃さんを振り返りながら永江さんは立ち上がる。

「……野球以外に何を話せばいいと言うんだ? 僕にそんな引き出しがある訳ないじゃないか……! やはりこれ以上は間が持たない。帰ろう」

「ダメです! みんなに頼まれてるんですから。今日はひと言でも二言でも彼女と話して帰ってもらいます。……めぐさん、大丈夫よね?」
 詩乃さんが「お願い!」というように顔の前で手を合わせる。

「もちろんですよ! えぇと……長くなりそうだから、窓際の二人席に行きましょう。そこでコーヒーでも飲みながらゆっくりお話ししませんか?」

 わたしが提案すると、永江さんは「……で、出来れば食事を。慌てていたもので、朝食を取り損ねてしまって」と呟き、やはり恥ずかしそうにうつむいた。

 ワライバで提供する料理は日によってバラバラだからメニュー表がない。ドリンクだけのお客さんが大多数であることに加え、理人さんと隼人さんが気まぐれだから料理を提供出来ない日もある。

 幸い今日は、前日に隼人さんが買ってきてくれた食材が冷蔵庫内にあった。出されたものは何でも食べると言うので、冷蔵庫にある材料を使い、覚えたての生姜焼きを作る。すりおろし生姜をたっぷり利かせ、千切りキャベツもたっぷり添える。ご飯も山盛りサービスだ。

「お待たせしました。生姜焼き定食です。……味噌汁の具は余り物で申し訳ないですが、お口に合うと嬉しいです」

 お盆を置くと、永江さんは出されたそれをじいっと見つめたまま動かなくなった。あまりにも長いことそうしているので心配になる。

「……あのぉ、お気に召しませんでしたか?」

「いや、逆だよ……。僕が一番好きな料理なんだ。それが出てきたもんだから驚いてしまって……。とてもおいしそうだ。いただきます……」

 彼は丁寧に手を合わせ、真っ先に生姜焼きに箸をつけた。人の食事をまじまじと見るものではないと思いつつ、自然とこぼれたであろう笑みを見てほっとする。

 彼は無言で食べ続け、気づけばあっという間に平らげてしまった。箸を置いたその顔は満足そうだった。

「ごちそうさまでした……」

 再び手を合わせたのを見届けたところで、お盆を片付けようと立ち上がる。と、背後から理人さんがやってきて「今日はおれが片付けるから」と言うなりさっとお盆を持って行ってしまった。

 仕事を一つ奪われた格好のわたしは、そのまま腰を下ろすしかなかった。

 向かい合って座っているが、永江さんは目を合わせようとしない。困ったわたしは周囲を見回す。と、詩乃さんがカウンター席でのんびりコーヒーを飲みながら洗い物をする理人さんと談笑しているのが見えた。本当に永江さんのことはわたしに丸投げするつもりのようだ。

(全権を委ねられてもなぁ……)

 父親ほども年の離れたおじさまの相手は比較的慣れている方だと思う。とはいえ、こうも黙りこくられては、こっちも困ってしまう。

 しかし任されたからには、そして引き受けたからにはなんとかしなければ、と気合いを入れ直し、まずは料理の感想を聞くことにする。

「あの……。さっき生姜焼きがお好きだっておっしゃいましたが、何か特別な思い出が?」

「ああ、母がね、得意な料理だったんだ……。子どものときは生姜を避けながら食べていたけど、今では辛いくらいたっぷり利いてないとダメでね。……さっきいただいた生姜焼きはまさにその味だった……。懐かしかった……」

「お母さんのこと、お好きだったんですね?」

「……仲違いしていた時期もあったけれどね。仲間が、当時の監督が、僕を支え信頼してくれたおかげで母とは再び話せるようになって、それ以後はまぁ……どこにでもいる親子として一緒に暮らしていたよ。……僕が母を好きだったと言うより、母が僕を溺愛していた、と言った方が正しいだろうな。僕は母のすべてだった。母は最後の最後まで僕を気遣い、僕の名を呼びながら死んでいった」

「……もう一度会いたい?」

「……いや、たぶん、今もここにいる。僕には見えないけれど、分かるんだ。最後まで気にしていたからね。自分が死んだあと、僕が一人きりになってしまうことを。コウにもいい人がいればって……それがずっと口癖だった。……まるでその『いい人』が僕の世話をしてくれるみたいな言い方が嫌だった」

「それでずっと独身を貫いた、って訳ですか」

「まぁ、それは理由の一つで、僕が野球を愛しすぎたことが独り身でここまできてしまった原因だと自覚しているよ。僕を知る誰もが知っていることだ」

 永江さんは一度もわたしの目を見ないまま語り、窓の外に視線を向けて、ふう……と息を吐いた。




 ここに来る他のお客さんと同じだった。だから、分かってしまった。その目が自分だけを見つめてくれる眼差しを、寂しさを埋めてくれる誰かを探している、って。

「永江さん」
 わたしは名前を呼び、思いきってテーブルの上に置かれていた手を握った。

 予想通り、驚いた彼はこちらを向いた。一瞬、目が合う。わたしはそのタイミングで顔をのぞき込んだ。

「な、なにか……?」
 目を逸らすことすら適わないほどの距離。緊張しているのが伝わってくる。もちろんわたしも緊張している。だけど勇気を出して言う。

「話している人の目を、わたしを見てください。恥ずかしいと思うときほど見てください。でないと、永江さんの本当の気持ちは伝わりませんよ?」

「えっ、だけど……」

 彼はどうにかして視線をはずそうとする。思考を巡らせ、永江さんを説得出来る言葉はないか、一生懸命に考える。その時、店で流しているテレビに海外の野球中継の様子が映し出された。わたしは「これだ!」と心の中で叫ぶ。

「ずっと野球されてたんですよね? ピッチャーがキャッチャーを見ずにボールを投げますか? キャッチャーがピッチャーを見ずに返球しますか? それとおんなじです」

 彼は息を呑んだ。
「言葉というボールを投げ合うなら目を見ろ、と……。そう言いたいのかな?」

「そうです」

「……やはり君は面白い子だな」
 僕の負けだ……。彼はようやく結んでいた口元を緩めた。そして正面からわたしの目を見た。

「なぜだろう。君と話していると未来を信じたくなる。明日を生きる活力が湧いてくる。こんな気持ちになったのは初めてかもしれない……。君はいったい何者なんだい……?」

「ごく普通の女の子です。出会った人を笑顔にする才能があること以外は」
 とびきりの笑顔を向けると、永江さんは「……参ったな」といって一度視線を逸らしたが、すぐに向き直った。

「一つだけ教えて欲しい。君の心の支えが何であるかを。僕がこれからも生きていこうとするならば参考になるかもしれない」
 
「それはもちろん……」
 言いかけたとき、店のドアがガタンと開いた。振り向くと、悠くんが怖い顔でこっちを見ている。

「めぐ……。それが今のお前の仕事なのかっ……! この店がそういう場所なら、おれは今すぐオーナーに退職願を突きつけるぞっ!」

「ご、誤解だってば! っていうか、入ってくるなりそう言うってことは、どこかから見てたってこと……?」

「窓の外から丸見えだ、馬鹿っ!」

 ずっと見られていたと思ったら急に恥ずかしくなった。しかし永江さんはこんなわたしを見て微笑んでいる。

「なるほど。君の心の支えの一人は彼なんだね?」
 その目が悠くんに向けられた。悠くんは相変わらず眉をつり上げている。

「……あなたがニイニイに……野上路教さんにビールをぶっかけられた人ですか」

「いかにも」

「あなたの死を望まない人が近くにいたことに感謝すべきだ。ニイニイの思惑通り、めぐならあなたの、死への願望を取り除くことが出来るとおれも思う」

(ニイニイ……? 死への願望……?)

 きっと悠くんは伯父から事の詳細を聞き出したに違いない。そしてやはり、わたしの直感は正しかったのだと分かる。二人の会話は続く。

「……だけど、これだけは言っておく。めぐの優しさに触れてれるのは勝手だが、あなたがめぐを振り向かせることは不可能だ。おれたちのように、小さな火を長く燃やし続けることの出来る胆力のない人には絶対に」

「……言葉を返すようだが、君にも僕が彼女を好きになったように見える、と? 馬鹿な。この年で恋をするなどあろうはずが……」

「人を好きになるのに年は関係ない。人はいつでも恋に落ちれる。そして、また会いたいと思える人がいる時ってのは生きる気力も湧いてくる。そういうもんだよ」

「なら、君も……?」

「……経験者だからそう言ってるんだ」
 その目は真剣だった。

「そうか。君は今でもめぐさんを……」
 永江さんはぽつりと言い、それからにやりと笑った。

「失礼だが、名前を伺っても?」

「鈴宮悠斗。……そっちは?」

「永江孝太郎だ。君とはまた近いうちに話がしたいものだ」

 今日はこれで失礼する。永江さんはそう言うと、バッグから財布を取り出して一万円札をわたしに手渡した。

「ごちそうさま。この店も君もますます気に入った。また来るよ。次は一人で。……その時はちゃんと目を見て話すと約束しよう」

「はい。いつでもお待ちしています」

 お辞儀をすると、永江さんは詩乃さんにタクシーを呼ぶよう告げた。タクシーを待っていると詩乃さんに耳打ちされる。

「……一緒に救いましょ、野球馬鹿なあの人を。あなたと私ならきっと出来る」

 到着したタクシーが二人を乗せて走り出す。わたしは小さくなっていくそれが見えなくなるまでその場に立っていた。


(続きはこちら(#9)から読めます)

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