【連載小説】第四部 #15「あっとほーむ ~幸せに続く道~」神様のギフト
前回のお話:
28.<悠斗>
かつておれのそばで寝息を立てていた愛菜と、真夏の昼下がりに畳の上で昼寝しているまな。二人は別人だが、おれをほっとさせてくれる点だけは共通している。
沖縄から戻って一週間。おれが求めていたのは安らぎだったこと。そして目の前の子がおれの血を受け継いでいるかどうかは、実は最初から関係なかったことに今更ながら氣づく。
ここにいる幼子がすやすやと眠っている。それに幸せを感じるおれがいる。ただそれだけのこと。それが、生きるということなのだと改めてまなに教えられた氣がしている。
◇◇◇
ニイニイや彰博が亡きオバアの遺品を整理する傍ら、ちょうどいい機会だと思っておれも鈴宮愛菜の遺品をすべて手放す決心をした。この家で両親が管理していたわずかばかりのベビー用品やおもちゃ。家の修繕の際に発見されたそれをどうしても捨てることができずにいたのは未練があったからだ。しかし愛菜の過去と決別した今、所有し続ける意味はなくなった。
めぐや翼に相談すれば何か言われるに違いないと思い、今回ばかりは彰博にだけ打ち明けた。オバアの遺品に紛れさせて欲しいと頼むと、やつは何も言わずにうなずいたのだった。
◇◇◇
すっきりと片付いた居間は、オバアがこの家にやってくる前に戻ったかのようだった。それを見るにつけ、ものには使っていた人の想いが宿るものなのだなと改めて思う。しかしそれは決して悲しむべきことではない。ものに宿る氣配を感じられなくなったというだけで、共に過ごした日々の記憶は確かにおれの中にある。むしろ物への執着がなくなった分、前向きな氣持ちで思い出すことが出来るほどだ。それはニイニイも同じらしく、孝太郎さんの提案でワライバ飲みしたとき、オバア(彼にとっては母)に対する感謝の言葉をたびたび口にする姿は印象的だった。
そのニイニイたちと今度、走ることになっている。水の中を走るように泳ぐのは得意だが、正直言って陸上競技は苦手である。ついでに言うと、心臓に負荷を掛けるようなことはあまりしたくなかった。しかし翼に「走れる」と宣言した手前、迷惑を掛けない程度には走れるよう身体を慣らしておかなければなるまい。
考えた末、まなを遊ばせるついでに走ってみようと思いついた。
「まな。公園に行こうか。お父さんが走るの、見ててほしいんだ。頼めるかな」
「こーえん! いこー!」
おれの思惑など知るよしもないまなは、公園に行けると分かるや大喜びで靴を履き始めた。
*
早朝の公園にはまだ人がいなかった。八月も終わりが見えてきたが、朝から強い日差しが照りつけている。おれが準備運動をはじめると、横でまなが真似をし始めた。その様子があまりにもかわいらしくて思わずニヤける。
「おっ、まなも走るか?」
「ん!」
返事をしたまなは、にわかにおれの手を取ると引っ張るように走り始めた。おれはまなの歩調に合わせて走らざるを得ないから非常にゆっくりだ。とても走っているとは言いがたいけれど、体操クラブではこんなふうに手を繋いで走るのはどうだろうか、とアイデアが浮かぶ。
「ゆっくり走るのもいいな」
「おとーさんはもう走れるよ! だってここ、なおってるもん!」
まなが治っていると言った場所は心臓だった。驚きのあまり足を止める。まなには、おれが過去に心臓の病で倒れたことは教えていない。たとえ話したとしても二歳になったばかりのまなに理解できるはずがない……。
「治ってるって……どうして分かるんだ?」
「だって、まなたんが治したんだもん!」
「…………!!」
信じられなかった。まなの発言のすべてが。
「あ、ありがとうな、まな。とりあえず今日はブランコして帰ろうか」
なんとか言葉を返したものの、ひどく動揺していた。まなはブランコに意識が向いたのか、それ以上は何も言わずに遊び始めた。
◇◇◇
走る走らないにかかわらず、まなの言葉が氣になったおれは年一の定期検診の日を迎える前に主治医の元を訪れた。
ランニングを始めたいが、心臓が耐えられるのかどうか調べて欲しいと申し出ると、医師は「これ以上負荷を掛けるのはおすすめしません」と婉曲に禁止令を出した。
「とはいえ、そろそろ前回の検診から一年が経ちますから、レントゲンは撮っておきましょうか」
その顔はあきらかに、走るのは諦めなさいと訴えかけていた。専門知識を持つ医師だからこその発言。いや一般人でも、二度も心臓発作で倒れている人間が心臓に負荷を掛けるような行動を取ると聞けば、やめておけと忠告するだろう。しかし、おれの命がたびたび不思議な力によって救われてきたのもまた事実。まなが「治っている」と言ったのだから、きっと「治っている」。おれは自分の胸に手を当て、検査結果が出るまでひたすらに待った。
再び診察室に呼ばれたおれの目に飛び込んできたのは予想通り、現実を受け容れられない医師の姿だった。医師は看護師に何度も「これは本当に鈴宮さんのレントゲン写真なのか?」と尋ね、確認を取らせた。しかし紛れもなくおれのものだと分かるとようやくこちらに向き直った。
「……お待たせしました」
「あの、何か問題でも……?」
「ええ……。またしても奇跡が起きました」
医師は声を震わせて言う。
「あなたの心臓は傷一つない、きれいな心臓です。脈も正常ですし、これならスポーツを行っても何ら問題ない状態と言えるでしょう。……数年前、瀕死のあなたが生還したときも驚かされましたが、まさかもう一度奇跡を見せられることになるとは……。あなたはいったい何者なのですか?」
まだ奇跡を信じ切れないらしい医師は、何度も首をかしげた。
「何者なのか……と問われましても、おれはあなたと同じ生身の人間ですよ。ただ、ちょっとばかり運は良いようですが」
「もしこれが運のなせる技ならば、ちょっとどころかものすごく幸運ですよ」
「かもしれませんね。それで、ランニングはしても大丈夫ってことで良いんでしょうか?」
「構いません。ただし、あなたが二度、心臓発作を起こしたのは事実ですから、くれぐれも無理はしないように」
医師はどうしても過去のおれの姿が忘れられないらしい。許可を出しつつも最後の最後まで身体を大事にするよう念押ししたのだった。
*
家に帰るとめぐたちが出迎えてくれた。
「ねぇ、結果、どうだった?」
開口一番にそんなことを聞いてくる辺り、どうやら答え合わせがしたいらしい。
「ああ……。治ってたよ。完治ってやつだ。だから走っても問題ないってさ」
「じゃあ、まなが言ってたことはマジだったのか……」
まなを腕に抱いた翼は、そう言いながらもやはり信じられない様子だった。
「主治医の先生、メチャクチャ驚いてたぜ。また奇跡が起きたってな」
「そりゃあそうだろうな……」
「いったい何者なんだ、とまで言われたよ。あんたと同じ人間だって答えてやったけど」
「うっわ、そんなこと言ったの? 主治医の先生の顔、引きつってただろ」
「いや、呆れてたな、あれは」
「どっちにしても、心臓が正常になってよかったよね!」
めぐはホッとしたように言い、おれの胸に耳を当てた。
「あっ、ちゃんと動いてる。ドクドクって、規則正しくリズムを刻んでる。……悠くんの心臓さん、元氣になってくれてありがとう。まな、治してくれてありがとう」
「まなも、おとーさんといっしょに走りたいもん!」
まなはそう言うとすぐに翼の腕から降りて廊下を走り始めた。
「……彰博が言ったように、まなはおれたちの言葉をかなり理解してるみたいだな。って言うか、賢いを通り越して神がかってる……」
呟くとめぐが応じる。
「実際、そうなんじゃないかな……。前に春日部神社のご神木さまに触れたとき、木乃香がまなのこと『神様の申し子だ』って言ったことがあるんだけど、あれは本当だったんだって思ってるとこ」
「俺もそう思う。言葉を取り戻してからのまなの会話力は、二歳五ヶ月にしてすでに年少児並みだ。ひと月もすれば年長児か、それ以上の会話が出来るんじゃないかとさえ思ってる。遅れを取り戻そうと必死に吸収・発話してるってこともあるだろうけど、それだけが理由じゃないよな、きっと」
「これからどう育っていくのかな、あの子は」
期待に胸踊らせながら言うと、廊下の向こうからまなが「おとーさん、走ろうよぉ」と声を発した。
「よぉーし。せっかくだからお外に出て走るか。負けないぞ!」
「わーい!」
元氣に駆け寄ってくるまなを抱き留める。一瞬、忘れたはずの過去の記憶がよみがえり、重なった。
29.<めぐ>
このところ大きな出来事が続いたが、ようやく日常が落ち着いてきた。実を言うと、産後一年ほどで仕事復帰はしたものの、まなの発話の問題が発覚してからはそのことが氣になってしまい、心から仕事に打ち込めていなかった。しかし今ではそれもなくなり、以前のようにワライバでの仕事を楽しめている。
九月に入ったというのに、まだまだ暑い日が続いている。個人的には早く冷房いらずの秋がやってこないかなぁと思っているが、この頃の地球はわたしたちが住みやすい環境から遠ざかってしまっているようだ。
翼くんの勤める幼稚園では、二学期が始まるとすぐに運動会の練習をするのが通例だったそうだけど、熱中症の危険性が叫ばれるようになり、練習期間は本番前の一週間だけに短縮されることが決まったそうだ。そんな未就学児たちを対象に、屋外イベントを企画している孝太郎さんたち。実施日は天候を見て決めると聞いたが、双方が笑顔でその日を迎えられることを祈るばかりである。
◇◇◇
今日も朝から夏のような日差しが照りつけていた。店の前のプランターに植わっているミニひまわりが頭を垂れ、その隣でコスモスが元氣に咲き誇っている姿だけがかろうじて季節の移り変わりを感じさせる。
わたしがそのことを話すと理人さんは「いやいや、プロ野球のリーグ戦がもうすぐ終わるってところにおれは季節の変化を感じるけどね。ちなみに、今年の優勝は東京ブルースカイで間違いない」と言って店のテレビをオンにする。そしていよいよ始まった、永江孝太郎ファンクラブ会員向けの展示コーナーにあるショーケースを丁寧に拭き上げる。彼の使った野球用品を眺めて陶酔する理人さん。本当に孝太郎さんを尊敬しているんだなぁと思う。
*
わたしの心が穏やかになったせいだろうか。午前中は海外の野球チームの中継が流れる店内でゆっくりと時間が過ぎていく。ときどき理人さんに「中央の席に、あっちの世界からお客様」と言われてコーヒーを提供する以外、今日は来客もない。
見遣った窓に曇りを見つけ、拭いておこうかなと思ったとき、ようやくお客様がやってきた。
「いらっしゃいませ……。ええっ?!」
驚きの声を上げたのは理人さんだ。彼は読んでいた新聞を放り投げ、カウンターの外に飛び出した。
「歌手のレイカさん?! お一人でご来店……ですか? また来て下さって光栄です!!」
レイカさんは以前、ここで本郷夫妻と弟の水沢さんの四人で食事会をしたと聞いている。わたしは非番だったので詳細は分からないが、店の雰囲気や食事を氣に入った彼女が「また来たいと言っていた」と、理人さんが自慢げに話してくれたことを思い出す。
「お昼をいただきつつ、コウちゃんの現役時代の品々を見ていこうと思ってね。展示が始まったんでしょう?」
「コウちゃん……? えっ? ……も、もしかして……?」
「そうなの。……ジャーン!」
鞄の中から出てきたのは、ファンクラブの会員証だった。
*
女性の方がいいからと、なぜか初対面のわたしが彼女の話し相手を任されることになった。たぶん、理人さんは舞い上がっちゃってまともに話せないからと言うのが理由なんだろうけど、わたしだって先日初めて生歌を聴いたことくらいしか話題提供できない。
こういう時はとにかく笑顔で接客しようと割り切り、レイカさんの脇に立つ。彼女はファンクラブ会員らしく、律儀にも持参した東京ブルースカイのキャップをかぶって展示物を一点一点、丁寧に眺めている。
「先日、庸平からファンクラブのことを聞いてね。準備が整ったら入会しようと思ってたのよ。コウちゃんにも会えるって言うし。……彼はときどき来るの?」
「そうですね、日時は決まっていませんが、割と頻繁にいらっしゃいますよ」
「へぇ……。もしかして、あなたに会いに? ……なんて、そんなわけないか」
「あー……」
女の勘なのか、あまりにも鋭い問いにどう返事をしたらいいものか悩む。すると、料理を作っているはずの理人さんがすかさず会話に割り込んできて余計なことを言う。
「めぐっちは永江センパイのお気に入りですよ。あの人、一目惚れしちゃってねぇ……」
「ちょっと、理人さんっ……!」
「うっそ! あのコウちゃんが?! ……あぁ、それであのとき!」
レイカさんはわたしの顔をのぞき込んでから、何かを思い出したように言う。
「やっぱり来てたでしょ! 春に駅前でやったミニライブに。前の方にコウちゃんらしき人を見かけて『もしかして……』とは思ったんだけど、そばに赤ちゃんを抱いた女の子がいたから確信が持てなくて」
「あ、それ、多分わたしたちです。主人が、子供の頃からレイカさんのファンでこの機会にぜひ生歌を聴いてみたいというので一緒に行ったんですよ。あと、孝太郎さんから、レイカさんの歌声には人の心を動かす力があるとも聞いて。実際、とても感動しました」
「そう……」
レイカさんは頷きながら、展示されているユニフォームに目をやった。
「ホント言うと、庸平に頼まれてあの選曲になった訳なんだけど、最後の曲はあのときも言ったようにずいぶん迷ったのよね。でも、中年になったあたしたちにふさわしいラストの曲ってなんだろうって考えたら『サンキュー、ファミリー』しかなかった。やっぱり年月を経ればどんな人でも変わる。コウちゃんみたいな堅物であっても。……もっとも、コウちゃんがあの場に来るという保証はなかったし、あたしのファンは他にもたくさんいるから、未発表曲で驚かせたかったって言うのもあったけどね」
「孝太郎さんのこと、よくご存じなんですね?」
「まぁね。彼は頭のてっぺんからつま先まで野球で出来てる子だったけど、純粋って言うか、そういうところはかわいいなって思ったし、嫌いじゃなかったな」
「もしかして、好きだったとか?」
「それねぇ……。ずうっと昔、庸平にも言われたことあるけど、家族としては好きだったよ。あ、でも今会ったら違う印象を持つかも……」
それを聞いてわたしの「恋バナスイッチ」が入る。
「いいじゃないですか! 昔の孝太郎さんを知る人はみんな口をそろえて言いますよ。別人だって。再会したら好きになっちゃったりして!」
「えー? そんなにイイ男になっちゃったの? そう言えば先日実家に帰ったとき、母が言ってたな。庸平がコウちゃんを連れて帰ってきたけど、ものすごくいい顔になってたって。あれはそういう意味だったのかな?」
「レイカさん、ランチが出来上がりましたよー。こちらの席へどうぞー」
折しも理人さんの料理が完成し、話は一旦途切れる形となった。
「わぁ、おいしそうなハンバーグ!」
レイカさんは目を輝かせて言うと、早速椅子に腰掛けてフォークとナイフを手に取った。
「いただきまーす!」
彼女がハンバーグにナイフを入れたまさにそのとき、一人のお客様が来店と同時に大声を上げた。
「あーっ! なんで姉貴がここにいるんだよっ!」
*
姉弟だからと、隣の席に案内したのがよくなかったのかもしれない。はじめこそ仲良く話していた二人だが、孝太郎さんの現在の様子を知りたがるレイカさんに水沢さんが事実を告げた辺りから雲行きが怪しくなり始めた。
「はぁ? コウちゃんと一緒に暮らしてるぅ? 前に会ったときはそんなこと、一言もいってなかったじゃない! あんたってそういう趣味だったの? もしかして離婚したのもそれが原因……」
「こらっ、勝手に妄想するなよっ! 俺たちは姉貴が思ってるような関係じゃねえからなっ! あいつの部屋を借りるようになったのはつい最近のことだし、離婚の原因も違うっ!」
「そうなのー? ……だけど、一緒に暮らしてるってことはコウちゃんのことは何でも知ってるってことだよね? あの子、どうなの? 元氣にしてる?」
「ああ、元氣だよ……」
言い合いが一段落したところで水沢さんは水を一口と、定食のご飯を何口か放り込んだのち再び話し始める。
「あいつもあいつで新しいことを始めるために今、いろいろと準備をしているところでな。忙しくはしてるけど、朝か晩、どっちか一回は必ず顔を合わせて飯食うようにして、お互いの健康チェックをしてるよ」
「何だか老夫婦みたいなことしてるのね……」
「うっせー! 合宿のノリなんだからそれで良いんだよ。そういう姉貴はどうなん? いい年してずっと独り身で……。お袋、心配してたぜ?」
「余計なお世話。あたしは一人の方が性に合ってるのよ。良い歌詞を書くには一人じゃないと。気が散るとね、本当に降りてこないんだから」
「あのー、歌詞って考えて書くんじゃないんですか? 降りてくる、来ないってどういう……?」
姉弟の会話に割って入るのもどうかと思ったが、わたしの疑問にレイカさんは丁寧に答えてくれる。
「うーん。なんて言ったらいいのかな。公園や森の中を散歩しているとき、それからぼーっとしているときに言葉が瞬時に降ってくるって言うのかな。イメージと言ってもいいかもしれない。あたしはそれらを書き残し、あとで歌詞としてまとめる。それを歌にすると、聴いた人たちは感動したり心が開いたりするみたいね。あたしは『神様のギフト』って呼んでるけど、実際そうなんだと思うな」
「神様のギフト……」
「たまにあたしのことを『天才シンガーソングライター』なんて大袈裟に言う人もいるけど、すごいのはあたしじゃないのよ。あたしはただ、降りてくる言葉をまとめたり歌に仕上げてるだけ。実はあたしの身体を通して神様か誰かが歌っているから感動するのかもしれない、って思うことはあるよね。実際、ゾーンに入るとそういう感覚もあるっちゃあるし」
「す、すごい……」
ライブ直後、まなが悠くんにだけ語りかけた理由が神様の言葉、神様の歌声を聞いたからだとしたら妙に腑に落ちる。
「もしかして、わたしたちが歌っても同じようなパワーがありますか?」
「どうかな……。あー、でも、あたしの歌を歌うといつも元気が出るって言ってくれるファンはいるから、歌詞そのものに力があるのかもね。……って書いたのはあたしなんだけど」
「わぁ、すごいです!」
「ダメダメ、おだてちゃ。調子に乗るから」
水沢さんが苦言を呈すると、レイカさんがものすごい形相で睨み付けた。
「あんたねぇ、お姉さんをぞんざいに扱ったらどうなるか分かってる? ……この後、あんたと一緒にコウちゃんの部屋まで行っちゃおうかなぁ?」
「そ、それだけはやめてくれ……!」
「なんでよ? あんたは部屋を間借りしてるだけなんでしょう? ちょっと覗きに行くぐらい、いいじゃない? それとも、見られちゃマズいものでもあるの?」
「い、いや……。二人暮らしの男の部屋に、きれい好きのお姉様を招待するわけには……」
動揺しまくりの水沢さんを見たレイカさんは大笑い。それを見たわたしと理人さんも堪えきれずに笑ってしまう。
「相変わらずだね、庸平は。ちょっと揶揄っただけよ、訪ねたりしないから安心しなさい。だいたいね、あんたと違って予定がびっしり詰まってるあたしにはお邪魔してる時間なんてないのよ」
「くっ……! 俺を一体何だと……!」
反論しかけた水沢さんが立ち上がると、その頭を抑えつけるようにしてレイカさんも立ち上がる。
「コウちゃんのこと、いろいろ教えてくれてありがとう。これはお礼よ。お昼代の足しにして。それとコウちゃんに、サイン会を開く日が決まったら連絡してって伝えてちょうだい。必ずここに来るわ。彼のファンとしてね」
彼女は水沢さんの頭の上にお札を残し、颯爽と店を出て行ったのだった。
30.<翼>
仕事を終えて帰宅すると、待ってましたとばかりにめぐちゃんが玄関に飛んできた。何かと思えば開口一番、「今日、レイカが来たの!」と言うではないか。荷物を置き、靴を脱ぎながら返事をする。
「へぇ! ワライバってどんだけ有名人が来る店だよ? 来ると知ってたら俺も会いたかったなぁ」
「孝太郎さんのファンクラブに入ってるそうだから、サイン会が開かれたら必ず来るって言ってたよ。そのタイミングで翼くんも来れば会えるよ」
「それって、俺もコータローさんのファンクラブ会員にならなきゃいけないってことじゃね? コータローさんのことは人として好きだけど、あれはプロ野球選手時代のあの人のファンクラブだからなぁ……」
「喫茶店のお客さんとしてくればいいんじゃない? 喫茶店と孝太郎さんのグッズ展示コーナーは別だから」
「なるほどね……。じゃ、そん時はそうしようかな」
とは言ったものの、行ったところで遠巻きにしか見ることが出来ないんだろうな、と思う。そのくらいレイカは俺にとって憧れの人だから。
「あー、そうだ。俺も話したいことがあるんだ」
めぐちゃんの話が終わったところで次はこちらから話題を振る。
「今日職場の人から、氷川神社で行われる音楽祭の案内をもらったんだ。どうやら高校生の息子のバンドグループが出るらしくって。よかったらどう? 行ってみない?」
「あの大鳥居のある神社だよね? 行く行く! そうだ、せっかくだからその日は久しぶりに街中デートしようよ」
「いいねぇ」
そこへ悠斗がふらりとやってきて会話に加わる。
「その音楽祭とやらの日程はいつなんだ?」
「えーと、確か秋分の日だったかな。都合つく?」
「あー……。その日は体操クラブの集客イベントをしようって話になってる。ま、親子で楽しんで来いよ」
「そっか……。それは残念だな……」
「そうでもないぜ? その日おれらが走るのは街の北側。確か神社の前を通るルートだったはず。ま、近くを通ってまだイベントがやってたら耳だけは傾けるよ」
悠斗はそう言うなり両腕を振って走る真似をした。
「まさか、前世が魚の悠斗が陸を走ることになるなんてな……」
「ああ……。人生、わからないもんだな……」
「だけど、無理すんなよ? 心臓の状態はよくてもまだまだ残暑は厳しいから」
「大丈夫。万が一何か起きても助けてくれる人がいる。おれは簡単には死なないよ」
「さっすが悠斗。守護されてる人間の言うことは違うぜ……。たくさん人が集まるといいな。健闘を祈るぜ」
「ま、気楽にやるさ」
そう語った悠斗は何だか楽しそうだった。
*
前日まではまだ夏の氣配が残っていたが、秋分の日は朝から秋の匂いがした。空氣が入れ替わったかのように氣持ちのいい秋空が広がっている。これなら屋外のイベントも存分に楽しめそうだ。
バスを乗り継ぎ、俺たち親子は目的の神社を目指した。バスの時間の関係で、音楽祭の開始よりずいぶん早くに着いてしまったため、神社にはほとんど人影がなかった。
「静かだねぇ。なんだか心が洗われるー」
そう言ってめぐちゃんは深呼吸した。まなも真似して両手を広げた。
「そう言えばこのところずっと忙しくて、静かに過ごす時間を取れてなかったな……」
二人に習って俺も深呼吸する。何度か繰り返すうち、めぐちゃんの言うように何だか身体ごとすっきりしたように感じられるから不思議だ。
「あれ? もしかして、めぐ?」
そのとき後ろから聞き覚えのある声がした。振り返るとそこにはエリ姉とアキ兄の姿があった。
「えっ、なんでパパとママが?」
驚きの声を発するめぐちゃんの目の前に一枚のチラシが提示される。
「あなたたちもお目当てはこれでしょう? 私も翼くんと同じ職場ですもの。他に予定もなかったし、せっかくだから行ってみようと思ったっておかしくはないでしょう?」
「あー、そう言えば……」
言われて、職場の人が誰彼構わず配っていたのを思い出す。自分のことしか頭になかったから気がつかなかった……。
「俺たちはバスで来たから早く着いちゃったんだけど、そっちはどうしてこんなに早く? 開始時間まで四十分くらいあるぜ?」
腕時計で再度時間を確認すると、アキ兄がにこやかに笑う。
「僕らはデートも兼ねてるから。今日のコンセプトは初デートで巡った寺院を再訪すること。実はもうすでに一カ所巡ってきてる」
「それって、わたしたちとおんなじ!」
「なるほど……。やっぱり親子は似るのかな……。あー、そういうことなら僕らはこの辺で失礼した方がいい? デート中だったんじゃ、お邪魔だよね?」
「いや。せっかく出会ったんだし、俺は構わないけど。まなの面倒を一緒に見てくれるんなら」
俺の言葉にアキ兄たちは顔を見合わせたが「そういうことなら」としばらく行動を共にすることで合意した。
*
近隣にも神社はいくつかある。そこを見てから戻ってきても充分間に合うと言うことでしばらく散策することにする。案内役はアキ兄。彼の趣味と言えばチェスとカクテルを飲むことだとばかり思っていたが、実はこの街の歴史に精通しているらしく、行く先々で知識を披露してくれた。それを聞くうち、自分が生まれ育った街には様々な歴史が詰まっており、俺たちはそのお陰で今を安心して生きられるのだと、感謝の念が湧いてくる。
「すごいなぁ、アキ兄は。本当にこの街が好きなんだね」
「僕は思うんだ。きっと僕の魂はずっとずっとこの土地で生き死にを繰り返してきたんだろうなって。大学に通っていたときは一度離れたけど、離れてみてやっぱりここが好きだって改めて思ったよね。だから、エリーと家庭を築くならこの街って決めてたし、秋祭りに合わせて帰郷した日にプロポーズしたんだよ」
恥ずかしげもなくさらりと言えるアキ兄が格好良かった。一方のエリ姉は照れくさいのか、「うんと昔の話よ」と言って赤らめた顔を天に向けた。
「そう考えたら何だか壮大な話だよね。わたしたち全員がここで出会い、今もこうして繋がってるんだもの」
めぐちゃんが言うと、まなが「そーだねぇ」と、いかにも分かったふうに返事をした。それがあまりにも自然だったので思わず頭を撫でる。
「賢いなぁ、まなは。パパたちの話、ちゃんと分かってて返事してんだもんな」
「ん! みんな、つながってる! かみさまに、ありがとーだね!」
神様、という言葉を聞いた俺はぎょっとした。俺だけじゃない、この場にいた全員が、だ。やっぱりまなは特別な役割を持って生まれてきたのでは……。そう思わずにはいられなかった。
「……ああ。神様に、感謝しないとな」
「ねぇ、あっちから音楽祭の開催を告げるアナウンスが聞こえない? そろそろ戻りましょ」
時計を見ると、いつの間にか音楽祭の開始時刻が迫っていた。
*
氷川神社に引き返すと、ちょうど開会の挨拶が終わったところだった。司会者が「さぁ!」と気合いを入れる。
「本日は高校生バンドの音楽祭ではありますが、母校の後輩を応援したいと言うことで、なんとなんと! スペシャルゲストが駆けつけてくれました! こちらの方々です! 拍手でお迎え下さい!」
アナウンスと同時に元氣よくステージに上がってきた人物を見た俺は目を疑った。
「えっ……? はぁっ……? レイカ……?」
戸惑っている間に、エレキギターの演奏と共にレイカの歌声が聞こえ始める。ろくすっぽ歌詞など頭に入ってこない俺の横でエリ姉がぽつりと言う。
「そう言えばレイカって、デビュー前はアマチュアバンド組んでたって聞いたことある。後ろの二人はそのときの仲間なんじゃないかしら?」
「ええっ、そうなの?! 初耳なんだけど!」
「レイカさんってああいうアップテンポの曲も歌えるんだね。天才はやっぱり違うなぁ!」
感心しているめぐちゃんの隣では、アキ兄に肩車されたまなが大喜びで手を叩いている。ぽかんと口を開けているのは俺だけだ。いや、混乱している場合ではない。これはきっと神様の計らい。だったら、楽しまないと!
「めぐちゃん!」
俺はとっさに彼女の腕を掴み最前列に導いた。そして恥ずかしさも忘れて思い切り両手を振る。めぐちゃんも同じようにする。と、こちらに気づいたレイカが小さく手を振ってくれたように見えた。
「レイカさーん、最高ー!」
子供になったような氣分で思い切り叫ぶ。すると、間奏に入ったところでレイカから思いも寄らない発表がある。
「皆さんにお知らせがあります! わたくしレイカは三十年ぶりに『サザンクロス』を再結成、十月より活動を再開することとなりました! 引き続き、応援をよろしくお願いします! それと、次に登場する母校、城南高校の『new wind』は一押しのバンドグループなのでぜひ聴いていって下さい!」
発表があった直後、周辺は一気に盛り上がった。しかしパッと見た感じ、ここにいるのは十代、二十代の若い子ばかり。とてもレイカの歌を知る世代とは思えなかったが、彼らにとってレイカがいくつなのかとか、どんな歌手活動をしてきたのかとかは関係ないのかもしれない。一、二分でも、レイカの歌声を聞けば実力は分かる。それだけで年長の彼女を受け容れ、応援できるのだとしたら、その精神は見習わなければならないだろう。
レイカの歌はあっという間に終わり、間を開けずに次のグループ『new wind』がステージに登場、演奏が始まる。しかし俺の耳にはやはり彼女らの歌声や演奏は届かなかった。予期せずレイカを目にし、バンド再結成の発表を聞いたのだから無理もない。
「ぱぱ。たのしも!」
頭の上から声がした。いつの間に来たのか、隣にはアキ兄に肩車されたまなの姿があった。見つめ返すとまなが再び言う。
「いまが、だいじ!」
「あぁ、そうだな……。まなの言うとおりだ……」
どうやら俺は現実の忙しさのせいで頭でっかちになっていたようだ。音楽を聴くのに頭を使う必要はない。心で、身体で感じる。それが音楽。
ならば! と、初めて聴く女子バンドのリズムに合わせて身体を動かす。そのうちに氣持ちよくなってきて、俺もギターをかき鳴らしたくなる。
(家に帰ったらギターを弾こう。そして新しい曲を作ろう。昔みたいにめぐちゃんのために。そして今度はまなのためにも……)
見上げた空。赤い鳥居の向こう側に、丸みを帯びたハート型の雲が浮かんでいた。今ここに生かされていることに改めて感謝の氣持ちを抱く。隣にいるめぐちゃんの手を握り、温もりを感じた俺は、聞こえてくる音楽にじっくりと耳を傾けたのだった。
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