SS【旅立ち】572文字


私がこの精神病院で先生と呼ばれていたのは、ずいぶん昔のことだ。

ろくに家にも帰らず病院にこもっているぼくを見て、看護師たちは冗談まじりに家族との不仲を疑ってきたものだ。

仕事はとうの昔に引退したというのに、今でも私はヌシのように居座り続けている。


壁は崩れ、階段の一部は抜け落ち、人の背丈ほどの雑草が生い茂る空き地の隅にたたずむ廃病院。

私が逃げたから終わりを迎えたのだ。

まさか患者と向き合うはずの人間が、取り返しのつかないほど病んでいたとは本当に笑える。



ここには稀に廃墟好きな人がやってくる。

朽ち果てた病院の中を探索したり写真を撮ったりする。

残された物を見て、人が行き来していた当時の姿を想像する人もいた。

私はただジッとして、そんな少し変わった人を見つめて癒されている。

そこには私が逃げ出すまで気づかなかった心の余裕や、私の見えていなかった、いや、見ようともしていなかった景色があった。



地縛霊となった私を解放してくれたのは、たまたまやってきた悪ガキたちだった。

悪ガキたちは以前から秘密基地のように使っていてケガなど心配していたが、まさか放火して逃げていくとは、ヌシの私でも予想できなかった。

建物は完全に無くなり、私の残された家族には火災保険がおりた。


私は唯一の居場所を失ってしまった。

だから旅に出ようと思う。


いつかもう一度、誰かに寄り添えるように。



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