【現代アートの教育】アーティストはなぜ神と呼ばれるのか〜ゴーストと霊とアーティストと〜
アーティストとは
「アート活動をしています」とか「アーティストです」とか自己紹介の度にこれは職業なのだろうか?と疑問をもちなながらこたえるわたしは最近、「アーティスト」という人種が世間ではますます増えてきていて、本当に困っている。世間ではアーティストの能力を持つ人をアーティストというのではないらしい。なので、何者なのかたずねられると困ってしまう。
神になりたい人たち
そもそも、なんでみんな「アーティスト」になりたいのだろう。わたしはいままで、「アーティストなんです。えっと、絵とか描いてて。あ、イラストとかじゃなくて。現代アートって知ってます?あ、えっといちおタマビの大学までいってて。あ、風景とかは描いてなくて、、、。いちお、美術館とかでも展示したこともあります。。。えっと。。。」こんな具合に、たどたどしい自己紹介をしていて、いわゆるアーティストっぽい内容に聞こえるらしく(うまく説明出来た試しは一度もないが)絵が描けるというのがポイントとなる。
わたしがアーティストだとわかったときの相手の反応は、わたしが思うに2パターンあって、有名な人とか何かで地位の高い人とかはアーティストと呼ばれたいと思っていたりセンスをほめられたいという行動をするし、純粋にアートの能力に憧れがある人はアートつまり絵が描けることができることに興味があるらしい。
この両方の反応はまったく真逆の性質なのだと思っていたのだけど、どうやらその真意は同じで、
神になりたい
これに尽きるのではないかと、ふと思った。
今日は数千年ぶりの稀有な皆既月食だから変なことを考えているのかもしれない。
では、この真意について説明していこうと思う。
神になるための登竜門
美大に入るのに猛烈にデッサンやら油絵やらをひたすら苦しみもがきながら?描いてきたのだが、だいたい描くモチーフは目の前にある石膏像であったり、静物(テーブルの上のりんごとか)であったり、人物であったり、実在することを描くことが多い。これを平日6〜8時間くらい繰り返しながら美大へと進学していく。イメージの課題は割と少なめで、ほとんどはリアルに目の前にあるものを描けるようになるのが基本なのだ。これをうまくかければ、絵のうまい人となる。この基本は、、、最近の現代アーティストで名前を聞く人でできないひともたくさんいるのだけど、この絵が描けるという基本がないとただのアーティストと呼ばれたいだけの人の確率は高く、まぁ、そういう人のほうがアーティストという地位を維持するのに必死なのでみんながこの人はアーティストらしいと思ってる大半はあんまりアーティスティックな能力はない人が多い。この傾向はピカソやデュシャンがいた世界大戦中から始まった。これについてはまたこんど書こうと思う。
大事なことは、本来のアーティストは「目の前の物を本物そっくりに、そしてその存在感を描けること」である。写真をうつしたようなものは絵ではないので、この説明は難しいかもしれないが、有名美大の油絵科をでている人同士であればある程度見極めは可能であろう。(むろん、人によるが)絵から存在感や空間感がはっきりとわかる人のことを絵を描ける人とわたしは呼んでいる。これが素人さんには見分けが難しいらしい。
画家のゴースト
美術評論家の沢山遼さんが「コンテンポラリー・アートは何か」についての対談でピカソが過去の巨匠の作品に基づいて作品をつくっているとゴーストが「でるんだ」と言ったという記述があって、あぁやっぱりそうなんだとすごく納得した。まさに、わたしがゴッホやピカソなどの過去の巨匠をテーマにした作品を扱ってると「でる」んだ。ゴーストが。ゴッホとピカソは性格が違いすぎてすごくいろいろおどろいたんだけど。
つまり、「描く」と「でる」んだ。
この2つの「リアルなものを描く」ことと、「巨匠を経由して描く」とその巨匠のゴーストが「でる」ことを重ねると、どうなる?
この現実を作ったのは誰?
ほとんどの人がそれを神と呼ぶだろう。ならば、神が作ったものを「描く」と、「でる」よね。
神が、、、
ってことになる。だから、アーティストという言葉に目を輝かせる人が多いのかなと思った。
美大予備校の先生からの教え
わたしが美大予備校で習っていたときの先生が「神さまになったつもりで描くといいよ。この絵の創造主なんだから」といわれたのを思い出した。
この先生はとても不思議な先生でとても尊敬している先生の一人だ。
ライアン・ガンダーのインタビュー
2022年7月に東京オペラシティアートギャラリーで開催されたライアン・ガンダーのわれらの時代のサインという展示会でのパンフレットに、アーティストはなぜ神と呼ばれるのかについて書いてあった。日本と違って欧米ではアーティストの地位はとても高い。昔から王様につかえて政治を行ったりなどする存在で知的で常に権力ともにある。日本のように感性だけを発揮することをのぞまれるのとは全く違うのだ。神のように扱われるのはその地位の高さも関係あるのかと思っていたけれど、そうでもないのかもしれない。
東大寺にある記述
ずっと前にどこかの講演会で東京藝術大学の教授だった絹谷幸二さんが東大寺には絵描きは神に近いなどの記述があると言っていた。それを聞いたときはなんで他の藝術ではなく「絵を描く」なんだろうと思った。
さいごに
毎回わたしの文章の中では「アーティストと名のるアーティスト」と「アーティストの能力を持つアーティスト」は別で書かれる。それくらい、後者はみんなの前にあんまり出てこないから。前者のアーティストはアーティストの能力、つまりアーティスティックな霊力をもちあわせておらず、どちらかというと「成る」ための霊力をもちあわせている。「成る」と「描く」は違うから、当然、「でる」ものはちがう。成るは俳優業を想像したらいいと思う。いまのアート界は成るの世界になってしまっていて、成るの世界では過去の巨匠を降ろすことは不可能なのだ。描くができる人しか過去の巨匠のゴーストは出せない。これがすごく重要なんだけど、描く人は主張が弱い人が多く、成る人の主張におされるのが関の山であり、また成る人のほうが周りを説得させるのがうまいのでトントンとうまくいっているようにみえる。その結果として、描くのがもっとも得意な有名美大芸大の油絵科からはあんまり目立つ人はでてこない。実際の描ける側に立つともどかしいことが多いが、でも描けない人にもなれないから困ったものだ。ただし、わたしには過去の巨匠のアーティスティックに触れることができるのは紛れもない事実だから心を強くしてなんとかアート界に挑みたいと思っている。
現代アーティスト 入呂葉
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