「らしさ」を貫けた

今日は外部から訪問があり、授業を見てもらった。
普段通りに近い形で。
「らしさ」は出せたかなと思う。

思い描く理想とは遠いのに、
悪くないよと言われた。

それ自体は取り組みを認められたようで
うれしかった。

毎日一緒に過ごしていると、
当たり前のように思えることも
本当は当たり前にできることではなくて、
学級の「得意」「よさ」だったりする。

どうしても思い入れがあって、
こうありたい、こうなっていきたいという思いが先行するから、
本当にこれでいいのかと不安になる。

最悪の状況を考えると、
見方がどうしても厳しくなるし、
不安に陥って干渉しがちになる。

ほかと比べて
失敗しないように、はみださないように、
と考えると言葉が宙に浮いたままで届かない。
危険な水域をつねに越えていきそうな人たちは
目を離すことはできないし、歯止めをかけることが必要になる。
思いが届いている気がしない。

感情がないわけじゃないはずなのに、
どこか活気がない。
自分を守るためなのか、安全地帯から出てこない。
お互いに疑心暗鬼なのか、殻の中にこもっている。

静かに探り合っている。
陰に隠れて(こちらからは見え見えだが)
状況をコントロールしようとする人がいる。

どこまで許してくれるのかを探ってくる。
試し行動が多い。

書き出せば気になることはたくさんある。
よさが見えなくなるほどに。

どれもこれも危険なにおいがする。

面白おかしくして、楽しさを演出すればいいのか。
そういうことを求められているような雰囲気もある。
楽しませてくれる誰かを求めているような。

楽しい人生を送るには楽しいことを自分で見つけてほしい。
それが私の願いだけれど、
体験しなくちゃわからないと思う。

仲間をおもちゃのように雑に扱って遊ぶのは、
楽しいことじゃないことに気付いてほしい。

高望みかな?
楽しいことを私が体験させてあげるだなんて、
上から目線すぎるし、それは簡単なことじゃないし、
持続しないことだ。
芸人でもない、面白みのない人間だから、
そんなものは見抜かれる。

おもてなしされることが当たり前のまま生きていったら、
気に入らないものだらけになって、
文句ばっか言って生きていくのか?
思うようにならないとき、それを言える相手でなかったら
どうするつもりなのか。

大切にされてきた彼ら彼女らが
ゆっくりでも進んでいくのを
がまんして待つことが私ができること。

たとえ正しく思えることを言っても、
生徒たちに伝わらなければ苦痛な言葉でしかない。
感じてもらうしかない。
守るべきこと、引くべき線を引き、
生徒が輝けるような手だてを打ち続ける。

私にはセンスなんかない。
面白みはない。
自分の武器は何だ。
いまだにわからない。

周りに強烈なキャラクターがいると、
私はかすんで見えなくなる。
それくらい存在感のない人間だからこそ
できることってなんだろう。

よさを表出させ
人間としての魅力があると
伝えていくことだろうか。

数値や順位や他との比較ではない、
無自覚で頑張らなくてもにじみ出るようなそんな魅力を。

今日の授業をみてもらったとき、目指してきたものは伝わった。
だからうれしかった。
キラキラした実践からは真逆ほど遠い。

他の人をまねしても、
同じ言葉をかけても、
伝わらないのは私が違う人間だからだ。

人より優れていないからだと思いがちだけど、
形だけまねしているのなら伝わるわけはない。


変に「あこがれの誰か」になろうと思うと、
ホンモノの魅力には勝てない。

今日は「らしさ」を貫けた。それは自信になった。
手だての有効性からすれば、優れた実践と言えないことは
自覚がある。物足りない。もっとできることはあったはずだ。

まとまりのない文章だけど、
今日のことは記録に残しておきたい。





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