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これまでの日記を振り返る―5月編―

前の日記でこれまでの日記を振り返りたいと書いた。

いままでのものを一気に振り返ると分量がすごいことになりそうなので、月別に紹介していきたい。
今回は五月編です。


5月11日

5月11日は特別な日である。なぜなら、この日を境にお昼を作って持っていこうと決心したからである。このときはドデカおにぎりを作ったような気がする。

お金の計算をする。情報も揃ってきたので適切な計画が立てられるだろう。今日はその前段階である。

と、ここでは書いていたが、結局ちゃんとお金の計算をすることはなかった。今でもお金の計算はしていない。フィーリングでやりくりしている。その割には毎月貯金できているから、フィーリングも捨てたものではない。
まあ、しっかり計画を持っていたらもっと貯まっていた可能性は否定できないが。

このときは知の生態学の冒険の第一巻を読んでいるようだ。

知の生態学の冒険一巻「ロボット」は三章まで。自分と他者とが一体のシステムとなる。自分でやらずとも他の人や環境でなんとかやっていく。ロボットの課題は自身の大量の自由度をどう制御していくか。自由度を制限するのだ。それも自分だけではなく、他者とともに。

ここで言っているのは、「弱いロボット」のことだ。弱いロボットの設計思想は、完璧を目指さず、あえて弱いところを見せることで、人間との共同を目指すことである。

ロボットの設計はとにかく大変だ。人間が何気なく行う二足歩行をするだけでも、非常に繊細な調整を必要とする。
弱いロボットはそうした二足歩行を目指すことはしない。歩けないのであれば、歩かせてもらおう、というのが根幹にある。

そこには、ロボットと人間という二項対立的な図式ではなく、ロボット×人間といった場が作られる。

「世の中のロボットは自己完結を目指しています。面倒なことをアウトソーシングして任せてしまえば確かに楽ですが、すべてやってもらうと人とロボットの間に距離が生まれ、相手に対する要求を引き上げてしまうのです。これは家電製品や自動車でも同様で、“もっと早く、もっと静かに”と機能をどんどん追加していくと、実は人の傲慢さや不寛容さが引き出されることになる。僕らは、むしろ自己完結を目指すのではなく、まわりの手助けに支えられて目的を果たすようなロボットを考えてきたんですが、一方の手伝ってあげる人もまんざら悪い気はしないようなのです。自らの能力が十分に生かされ、生き生きとした幸せな状態をウェルビーイングと呼ぶようですが、利便性に加え、このウェルビーイングをアップさせるという存在意義も、人と共生するロボットには必要なのではないかと考えています」(岡田氏)
https://project.nikkeibp.co.jp/mirakoto/atcl/design/2/t_vol68/ より

まさに、「考え込むなく、まわりに半ば委ねてしまおう!」

5月12日

レム『完全な真空』を図書館に返し、別の本を借りている。

「レムの『完全な真空』は途中までだったが予約期限のゆえ泣く泣く返却することに」と書いているように、まだ読了していなかった。そしていまでも読み終えていない。全部読み終えないとなんだか気持ち悪い感じがするのでさっさと読了したいのだが。

返却するついでに予約していた本を借りた。『グラフィックデザインブックガイド』、『現代日本のブックデザイン史』の2冊。『現代日本の〜』は、実は大学図書館で借りたことがある。が、やはり読みきれないまま返してしまった。中途半端な感じが嫌だったのと、単純に内容が面白いからもう一度借りた。

そして性懲りも無く読みさしの『現代日本のブックデザイン史』を再び借りている。実はこの本もいまだに読み終えていない。『現代日本の〜』は買った方がいいかなと思いながら、買っていない。いい本なのは間違いない。

『グラフィックデザインブックガイド』については、また後日に書いた日記に感想を書いていると思うので、ここでは取り上げない。

『知の生態学〜』ロボットは、4章の途中まで読んだ。4章はコミュニケーションについて、他者に委ねることによって会話が作られるといった現象について、またロボットによる相互行為としてのコミュニケーションの実践など書いていた。個人的にこの章がいまのところ一番面白い。というか自分の問題意識に合っていると感じる。

『知の生態学の冒険』は4章がお気に入りだった。コミュニケーションに問題ってずっと考えているような気がするな。最近も『会話を哲学する』を買ったし。ユリイカの「現代語の世界」とか。

人間に生まれついたからにはコミュニケーションはしなければならないが、この営為についていまだに掴みきれていないところがある。なんだか自分が認識しているコミュニケーションの様式と他者が考えて行うそれとでは乖離が生じているように思えてならないのだ。でもこれは感覚的な話なので、こうしたモヤモヤをもう少し具体化できればと思う次第である。

5月13日

今日は華金ということで飲みに行った。「あぁ〜」という感じの一日であった。他者にすべてを任せて私はその流れをたゆたっていた。

飲みに行っていたようである。

「他者にすべてを任せて私はその流れをたゆたっていた」というのは、私が飲み会のときにやる癖である。眼前の光景と事象が私と切り離されて、完全な対象物と化す瞬間が、ある。

あまり誉められた癖ではないと思っているので、改善していきたいと思っている。やはり関与って大事。

われわれの知覚はもっと「開いた」ものであり、そこに何があるかを考える前に、むしろ「そこにどうあるか」、ということを考えることで別の様相が見えてくる。そこで持ち出されるのがレイアウトである。レイアウトとは、物事の空間的(あるいは時間的)並びのことであり、だからレイアウトの利用こそが、どうあるか、に相当する知覚の例となる。
池上高志「ずらし、デバイス、スタジオ」『知の生態学的展開1 身体』148p
レイアウトの本質は、定まったセンサーとモーターのカップリングをつくることではなくて、むしろそれを歪ませる、ところにあるのかもしれない。ひっくりかえったアフォーダンスに適応していけるところに、生命の適応性、知性、進化可能性がある。
池上高志「ずらし、デバイス、スタジオ」『知の生態学的展開1 身体』150p

5月14日

『シン・ウルトラマン』を観る。
5月13日公開なので、一日遅れで観たことになる。

まず全体的な感想としては、やりたいことはすごくわかるし、面白い。でも、やれてないところもあるよ〜って感じ。少なくともシンゴジラほど傑作映画ではない。正直。
なんでそう感じたかというと、全体的に総集編のようなもののように思えたからだ。テレビシリーズでやったものを映画版に編集して出した感じ。だからストーリーはわかるのだが、細かい味付けが大味になっている。とくにキャラクターの造形が甘く、たとえば作中何度も「バディ」という言葉を強調しているが、観ている自分からするとなぜバディが問題になるのか、そして終盤ではバディの問題が解決しているかのように描写されているが、どのように解決されたのか納得感が薄かった。そもそも君たちそんなに会話してないよね?という。だからシンウルトラマンは一作で完結するものではなくて、二部作三部作にすればもっといい作品になれたのでは〜ととても惜しい気持ちになった。

個人的にシンウルトラマンの評価はそこまで高くない。

他の人の評価の中には、一部の描写に関する不満があったが、私としてはそれほど気にするものではなかった。尻を叩く描写はキャラ立ちとして入れているのだろうと思った。

『シンウルトラマン』は、『シンゴジラ』のときに比べると怪獣がたくさん現れて、全体的にやっていることは派手なのだが、それでも『シンゴジラ』の方が画作りとしてはリッチに見えた。

『シンゴジラ』は大人が会議をしている様子が何度か映し出されるが、多くの人々が一堂に会して会議をしているシーンは迫力があり、説得力もあった。シンウルトラマンは、一度に出てくるキャストの数が控えめで、そこが『シンゴジラ』と比べて少し劣って見えるところなのかもしれない。

とくにPSVRで国際会議(?)しているところはもう少し見せ方を工夫してほしかった。せめてHMDはPSVRではなくHTC VIVEを使ってほしかった。そっちの方がかっこいいので。

この日はどこのシアターでシンウルトラマンを見たんだろうか?あまり覚えていないな。近くの映画館だった気もするが。

5月15日

『グラフィックデザイン・ブックガイド』を読んでいる。こういうブックガイドは一つ一つのテーマが短くて読みやすいから、本を読むのが億劫だなと感じているときに重宝する。(ちなみに、億劫と感じてはいるけど心の中では読みたいと思っているんです。奇妙に思った方もいると思うので説明しておきます)

ここで書いてある、読むのが億劫なときに読む本についてはいくつかのバリエーションがある。

・書評集
・論文集
・エッセイ
・図鑑
などなど……。どれも一つ一つが比較的短くまとまっているので読みやすい。

本を読むことは好きだが、読むことが面倒くさくなるのはよくある。

しかし、そういうときは本を読むことで面倒臭くなくなるのである。我ながら変な習性だな、と思う。

本に対するワクワク感を取り戻すことができるという点では、書評集はかなり良い部類の本だと思う。

萩原魚雷さんの本なんかはそれに最適だ。

とくに『本と怠け者』はオススメ。

借家に住み、あまり働かず、日中はたいていごろごろしている。古書店めぐりをすませたあとは、なじみの高円寺酒場で一杯。天野忠、矢牧一宏、ラスキン、十返肇、古山高麗雄、阿佐田哲也、梅崎春生、深沢七郎、中村光夫…日々のなかで出会うなつかしい本たち。魚雷さんの目で見れば、古書もまた別の輝きを帯びてくる。「ちくま」の人気連載「魚雷の眼」に書き下ろしおよび未収録原稿を加えた、文庫オリジナル古書エッセイ。
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480428745/ より

『本と怠け者』では、著者の萩原魚雷と、古本という物質が組み合わさることで独特な時間感覚がそこに現出している。日々の仕事や学校などの忙しさから逃亡したいと思ったとき、本書は威力を増すだろう。また筆致が全体的にゆるやかで肩の力を抜いて読めるという点でも良い本だ。

尾崎一雄は病臥生活の中、「生存五カ年計画」というのを立てる。四十五歳のときに、とにかくあと五年生きたいとおもった。その計画は第三次をすぎたあたりから、どうでもよくなって、一日生きれば、それだけ得という気分に変わった。
わたしは仕事に関して「生存五カ年計画」を取り入れることにした。
将来のことはわからない。先は見えない。
五年ずつ何とか食いつなごう。五年くらいだったら、何とかなるかもしれない。
そうおもったら、すごく楽になった。目の前のことばかり考えていると息がつまるし、あまり先のことを考えていると不安になる。(自分のことに関しては)五年くらい先で十分だ。
場合によっては、五年のうち、一年か二年くらい捨ててもいい。五年後、無一文でも何でも生きていればいい。
『本と怠け者』241-242p

いますぐ買って欲しい……と言いたいところだが、いまみると品切れしていて値段が2~3倍高騰している。

こういうのがあると買っててよかったと思える。

読んでいて気になった点が二つある。まず、本の書影が図として載っているのだが、これが何故か小さい。紙面の都合上小さくなってしまうのはわかるのだが、この本の場合本の周りを囲む枠がかなり大きくとられており、それに対して肝心の書影がかなり小さく枠の中にあるのである。あえて小さくしているのかも知れないが、現状その意図が全く掴めない。単純に見にくい。書影からどのような本か想像することをよくするので、これは不便である。あとデザインの本なのになんで本のデザインを強調せず遠慮がちに掲載しているのか不思議に思う。とにかくもうちょっと大きくしてくれーっ!

この日は『グラフィックデザイン・ブックガイド』を読んだのだが、些細な点が気になって仕方がなかった。とにかく書影が小さいのである。5月15日の日記に写真を載せているので確認して欲しい。内容には直接的には関わらないし、書影も一応見えるので許容可能だとは思うが、それでも気になってしまった。

よさげな本なのに惜しい。もしかしたら著作権的なアレがあるからそうなっているのかな?

5月16日

今日は鶏そぼろ丼を作った。2人前で作って明日昼ごはんにしようと思ったのだが保存する容器がないことに気づいた。弁当箱にぶち込んでおいて冷蔵庫で冷やそうと思う。
鶏そぼろ丼、包丁使わないしほとんどそのまま焼くだけなのにすごくおいしい。しかも具材がひき肉と卵だから安い。魔の料理である。カレーのように洗い物がすごく面倒くさいということもないので気軽に作ることができる。鶏そぼろ丼ありがとう。

鶏そぼろ丼の感謝を述べている。今でも鶏そぼろ丼はよく作るので、非常にお世話になっている。ありがとう。

『日本文化史講義』を電車の中で読み終えた。ページのほとんどは教科書的な文化史に関する説明で、文化史を忘れていた自分にとってよい復習になった。簡潔にまとめられているし、基本的な文化史テキストとして有用だと思う。多くの部分はそのような文化史の説明に終始しているが、後半ではそういった文化史の区分の仕方などについて疑義を呈している。

『日本文化史講義』を読み終えている。

『日本文化史講義』は二部制で、前半が教科書的な文化史の概論、後半が文化史そのものに対する課題と展望について述べている。
簡潔で明瞭に記されているので、日本文化史をすっかり忘れてしまった人にとって有用だと思う。

5月17日

『知の生態学の冒険 ロボット』を読み終えた日。

本書はロボットの話が中心にあるが、考えの根幹には人の振る舞いがある。なんでも一人でやっているように見えても、実は巧みに環境や他者を利用して目的を達成している。こうした現象はわかっているような気がしていたが改めて説明されると新しい発見もあり、楽しかった。今後の人生で役立つのでは…と個人的にちょっと思っている。良書!

5月18日

洗濯機を回して洗い物をしたら一日が終わった。家事で時間がなくなるのなんとかしてほしい。というかなぜ21世紀にもなって家事をする必要があるのか。シンギュラリティだのなんだの眠たいこと言う前にまず家事をなんとかして欲しい。

家事の不毛さについて書いている。そしてこれは今でも思っている。

インターネットでドラム洗濯機とか、掃除ロボットの利便さについて語っている言説をよく耳にする。ドラム洗濯機を買ったら、食洗機を買ったら、掃除ロボットを買ったら、人生が変わっただのなんだの。私はいままでそうした言説について、誇張しているだけだろ、たしかに便利だろうけど人生が変わるほどではないだうなんて穿った見方をしていたが、

うん、人生変わると思う。

買ってもないのに人生が変わることがすでに予見されるのである。
とくにドラム洗濯機と食洗機はすごそうだ。
洗濯と皿洗いの時間はそれほど巨大で冒涜的なのである。

ということで、欲しいなあと思いつつ商品をいろいろ調べたりしている。

ドラム式洗濯機で気になっているのは、パナソニックのキューブルという製品。

ミニマルでスタイリッシュなデザインがかっこいい。
お値段20万円。高い!ドラム式洗濯機の相場の中では中価格帯〜高価格帯の間くらいだろうか。そもそもドラム式洗濯機というのは高いのである。

今日は古本市に行った。案の定というかなんというか、体力がなかったので、ちらっと何の本が売っているか確認するだけで終わった。古本市は体力がいるのだ。

この日は古本市に行ったようである。たぶん新橋の古本市。

古本市の愉しみ方がいまいちわかっていない。ワクワクして行くのだが、大量の古本を前にどうすればいいかわからなくなってしまう。
どのようにすれば愉しめるだろうか?

秋に神保町で古本まつりが開催されるだろうから、それまでに答えを出したい。これは宿題だ。


この日の日記で謎なのは、19日の16時にアップしていることだ。なんでこんな平日の夕方にあげたのだろうか?会社のトイレとかで書いてあげたのだろうか。

5月19日

昼ごはんをどうするかという今週中に解決したい懸案の事項について。
まあ普通に朝起きて弁当を作ればいいのだが、朝起きることが面倒すぎる。というか朝起きるために夜早く寝るとすると、自分に残された可処分時間がほとんどなくなってしまう。それか睡眠時間を削るか。前者は自分の心が荒んでしまいそうだし、後者は体がもたないだろう。
ずっと昼ごはんは外部の企業にアウトソーシングしている(コンビニで買ってる)が、お金がその分かかってしまう。ちゃんと計算をしていないけどだいたい2,3割くらいは食費を節約できるのではないか。昼ごはんというイベントは空腹という状態異常のために必ず発生するので、このままアウトソーシングを続けていると毎回財布がスリップダメージを受けている感じになる。言うなればこれはどく状態である。
とはいえ、弁当を作るのもスリップダメージなのだ。体や心がまひ状態に陥ってしまう。

この日は昼ごはん問題について書いている。

今はこの問題は割と解決できている。朝起きるのが苦痛だと書いているが、いまではそこまで苦痛ではなくなった。
弁当を作るのも、冷凍食品を解凍して弁当箱に詰めているだけなので、そもそもそんなに早起きしているわけではない。

あとは、ゼロサムで考える必要もないな、と考えの方向性を転換した。疲れたらアウトソーシングすればよい。大事なのは割合である。弁当を持って行く頻度がコンビニで買うことよりも上回ることができたら、それでいいのである。

お昼はゆるく考えよう。

noteで書いた記事を全部読み返してみたが、意外としっかりしているというか、そこまで曝け出していないなと思った。趣味の話か自分の考え事しか書いていない。それって日記としてどうなんだ。遊びに行った場所とか内容とか書いていないの普通に異常者では。アウトプットがかなり内面に向かっているみたい。今もそう。最初の記事なんか夢の話だ。誰が読むのか。

これは今もそう…。でも前に比べたら、遊びに行った場所とかは書くようになったと思う。

日記ってかなり自由なフォーマットだと思う。一日の出来事を書くという便宜は可能な限り拡張することができると思う。別に妄想や空想を書いても良いとさえ思う。
しばしば日記に書く内容がないと苦慮している人をみかけるが(そして私自身むかしはそうだったのだが)、内容がなければ作ればいいのではと今では思うようになった。

この、日記に書く内容がないときに考えたいポイントについては、独立して記事を書いてみたいと思っている。

5月20日

Apple musicのリンクを貼ると試し聞きみたいなかたちで聴けることに気づいた日。この日から、毎日音楽を紹介しようかなと思っていたのだが、いまではできていない。というか忘れていた。

いまは日記にあまり音楽のことを書かないが、日常的によく聴いているのでもっと書いていきたい気持ちがある。でも音楽を語るのって難しい。音楽の用語なんて知らないし、アーティストについてもよく知っているわけではない。

自分がこの音楽を好きだと感じたとき、その根拠はひどく曖昧だ。「好きだから好きなんだ」とトートロジーに陥ってしまうことが往々にしてある。

でも、自分の「好き」には明らかに傾向がある。エレクトロニックとか、インストとか…。そうした傾向を、的確に捉えて言語化できるようになれば、自分の音楽レベルは一段あがるだろう。

今夜はyanokami。『ユリイカ』のレイハラカミ特集を思い出しながら……。

ここで書いている『ユリイカ』のレイハラカミ特集とは、↑のことである。

その音楽は淡い光線のごとく内耳に充満し、かと思えば瞬く間に天球へと散逸する。まだ身体に宿っている残響のあたたかさを感じつつ、われわれはその残された電子音の記録を幾度となくリプレイしよう。『unrest』『opa*q』『red curb』から『lust』、そして『暗やみの色』へ。投射されたその星々はいまどこにつながっているのか、没後10年を機に〈レイ・ハラカミ〉を問い直す。
Amazonの紹介文

余談だが、ここの対談で、レイハラカミに合う歌手(?)が紹介されていたのだが、その一人に青葉市子がいた。そこで私は青葉市子という人間の存在を知った。「Porcelain」という曲のMVがすごいのだが、それについては後日の日記に書いている。

5月21日

下の画像を見ればわかるが今日はまったく歩かなかった。0時あたりに1000歩歩いているのはおそらく昨日の帰りで歩いた分だと思うので、実質今日は10歩くらいしか歩いていないのではないか。昨日、ダラダラすることを明日の予定として立てていたが、これほど予定を完璧に遂行できることはそうそうない。褒めたい。自分を。

この日はずっと家でダラダラしていた日だ。たしか、この日の前日が飲み会で夜遅くまで起きていたので、「次の日はダラダラしよう」と決めたのだった。

原作『四畳半神話大系』は理想の大学生活を構築するために、一回生に戻ってなんやかんや奔走する…が現実は厳しく、失敗し、そしてまた一回生に戻り…といったタイムトラベル(?)ものの小説である。作者の森見登美彦の独特の文体は近代の文豪チックで、それでいて軽快に読めるから不思議である。
『四畳半神話大系』の舞台は京都大学である。自分自身京大にかなり近い立地の大学に通っていた(し、京大にはよく行っていた)ので、かなり親近感が湧いた(?)鴨川デルタとかよく行ってたよ。
ということで、好きな作品なのだ。とは言いつつも森見登美彦作品はほぼ読んだことがない。だからいつか一気に読む時間をとれたらなあと思う……。

『四畳半神話大系』について。主人公は京都大学工学部電子学科に所属する学生なのだが、同じく京都大学工学部電子学科に所属する仲の良い友人がいたので、すごく親近感があった。
NF(京大の文化祭)も、その友人といっしょにまわっていた。

また余談だが、京大生(かどうかは確かではないが)の酒癖は悪く、NFの治安はあまりよくない。とにかく酔った男子女子学生が誰かに介抱されている現場をよく見かける。吐瀉物もよく見かけた。それをみたのはコロナ前だったので、いまでは変わっているかもしれないが。

5月22日

家の近くの業務スーパーに行ってみたが、予想以上に店舗が小さかった。業務スーパーはもっと大きいイメージがあったのでびっくりしちゃった。なんだかやる気がなくなったので店内を適当にみて何も買わずに出た。虚無の時間になってしまった。

業務スーパーに行ったが、予想外の店舗の小ささにより意気消沈してしまった回。

しかしこういう動画を見ていると買いたくなってくるものだ。

でも業スー微妙に遠いのよね。なにか強烈に欲しいものがないと行かないくらいの遠さ。せめて自転車があれば気軽に行けるのだけど。

Apple musicのTokyo highway radioの山口一郎ゲスト回で、山口一郎はレイハラカミの「owari no kisetsu」をサカナクションを作るきっかけとなった曲として挙げている。サカナクションの曲を聴いていると、なんとなくその影響が垣間見えるときがある。初めてこの話を聴いたとき、自分の中で合点のようなものがいったような気がしたことを覚えている。

ここには書いてないが、Tokyo highway radioでは歌詞の意味についても語られていて、そのエピソードも好きだったりする。

歌詞というのは、それが独立して存在しているわけではなく、かならず音楽とともに存在しており、聴かれるものだ。
そして良い歌詞というものは、歌詞だけでなく音楽とともに渾然一体となるものだ。そこでは歌詞の意味は必ずしも重要ではない。リズムのなかで、意味のわからない歌詞が意味のあるものとして立ち現れてくる。

…そんな感じの話をしていて、なるほどと思った。
自分は歌詞を意識して聴くことはほとんどない。しかし意味のない歌詞というものは好きだったりする。

Spangle call Lilli lineの「nano」という曲は歌詞が全体としてよくわからないが、それでもリズムとともに有意味を獲得している。そういうふうに聴こえてくる。

広がる台風の目につまずく
見える肘は温い声に迷う
駆け出す欲目にひも解いて
消えるシリンダー多分声に迷う
単眼 手に望みと絵絹とただあふれた
吹いてくカール まばらになる雨リング
散々手に熱すると 流線タグなら遠い
くるむ手前 ダイアルはもう一つの向後
「nano」歌詞より
個人的には後者の意見の方がエモいなと思うし、そもそもEOE(End of evangerion)からずっとそんな感じな気もしているので、描き方としてはアリかも…?と思う。とはいえ前者の気持ちもわかる。個人的には尺が足りなかったなあと、やりたかったことを全部描くほどの(あるいはあえて描かないほどの)尺がなかった印象をもっている。だから、初見で後者の解釈を導き出すのはかなり難しいと思う。相当好意的に見ていないとできない。つくづく、惜しい作品だなと思う……。

また『シンウルトラマン』について書いている。ウルトラマンが人間が好きになった理由について。

https://fusetter.com/tw/AcL1z99p#all

↑の感想が良い。EOEからそんな感じというのは、シンジはじめ周りのさまざまなキャラクターが陥っていた問題というのがまさに「愛情の発露」の問題だったからだ。ラストの「気持ち悪い」に代表されるように、愛を直接的に伝えることができない、曲がりくねった表現がシンウルトラマンにも現れているのではないか、ということである。

無理やりかもしれないけどね。

5月23日

ヤマザキビスケットの「エントリー」、「レモンパック」がおいしいらしい。探しているがまだ見たことがない。目撃情報お待ちしております。

エントリーとレモンパックの探求が始まった日。
この日からエントリーとレモンパックはたびたび日記に登場することになる。

5月24日

この日からタイトルをつけるようになった。やはりタイトルがあったほうが見返すときに便利である。

カレーを作りながらカレーを食べた。もしくはカレーを食べながらカレーを作っていた。カレー三昧な一日であった。
以前に作ったカレーは水が多く、シャバシャバ(?)になってしまったため、今回は水を少なめに入れた。また、じゃがいもは大きなものがたくさん入っている方が全体の満足度が高い傾向にあると感じたので、じゃがいもをいつもより大きく切って入れた。

カレーのPDCAサイクルが回っている!

カレーを作るときに考えるべきポイントが書いている。なんて有益な日記なんだ。カレーはいまでも作っている。昨日(9月3日)も作ってるし。

ちなみに、さらに有益な情報を付記しておくと、カレーを作り終えた鍋は、沸騰したお湯につけると鍋に付いているカレーを拭き取りやすくなる。キッチンペーパーなどで拭いてから洗剤で洗うようにすれば、食器用スポンジがカレーまみれになることがなくなる。スポンジの寿命が伸びるということだ。

自己啓発本が主張するメッセージの多くは、重複する場合が多い。なぜ自己啓発本の読者は同じようなものを何冊も読むのか。その答えは上述の引用にあるような「自己確認的読み」が関わっていると著者はいう。
自己啓発本の作成には、新規性が求められる一方、そうした自己確認的読みのための内容の重複が許されるんだなと思って面白かった。

『日常に侵入する自己啓発』を読んでいる。本書は自己啓発本を語る上で外せない。自己啓発本というジャンルは、読者の欲望を反映させた装置、システムである。だれがどのような考えや悩みを持っているか、わかってくる。いや、自己啓発本の機能はそれだけではない。自己啓発本は、問題の創出にも関わってくるからだ。

5月25日

・現代思想のウクライナ特集と永井均の哲学日記である。割とマジメ寄りな本になった。割と勢いで買った。何を買うかは迷うとかなりドツボにハマるのでえいやっと買うのが一番である!

『現代思想』の6月臨時増刊号と『独自成類的人間』を買った日。

独自成類的人間は哲学者永井均のツイッター本シリーズの第二冊にあたる。

シリーズ第三冊はちょうど最近発売されている。

『遺稿焼却問題』『独自成類的人間』と違って、『哲学的洞察』では、純粋に哲学的議論にまつわるものを集めているようである。

2014年から2021年のツイートから哲学を主題とするものを厳選した本書は、生活のただなかにある哲学者の日々の思索が息づいている。流れゆくつぶやきを紙にとどめて、何度でも繰り返し考える。哲学はいつでもどこでもできる――あらゆる人を哲学に誘う刺激とやさしさに満ちた一冊。
『哲学的洞察』Amazon紹介文より

このツイッター本シリーズ、それぞれ本の表紙の色が赤、緑、青と信号機の色と同じになっている。シリーズ本ってわりと似たような装丁になるからちょっと変わっている感じがする。

『独自成類的人間』の感想については、後日の日記に記している。

・図書館にも行って『オクトローグ』、『いかに終わるか』、『知の生態学の冒険』の第二巻「間合い」と第三巻「自己と他者」を借りた。読まなければならない本がかなり増えてしまった。今週の土日はめっちゃ読むDAYSにしよう。

『オクトローグ』、『いかに終わるか』、『知の生態学の冒険 間合い』、『知の生態学の冒険 自己と他者』を借りている。

『間合い』については、後日の日記に書いているが、『オクトローグ』、『いかに終わるか』については日記にあまり書かなかったような気がする。


『オクトローグ』の著者酉島伝法は、『るん(笑)』や『宿借りの星』を書いたSF作家である。

酉島伝法の描く世界は、現実のようで現実感のない世界である。それは完全な異世界というわけでもなく、現実とのズレによって現実感のなさを表現している。

『オクトローグ』収録の「金星の蟲」はまさにそうした作家性が遺憾なく発揮された一作である。刷版工場に勤める男性の日常が、些細な違和感から徐々にズレていく様子は圧巻だ。

『いかに終わるか』はスペキュラティヴ・フィクションの提唱者山野浩一の短編集である。

「死滅世代」はもはや生殖活動をしなくなり、生きることに倦んでしまった人類が地球を覆い尽くしてしまった世界の話。あまりに救いのない話だが、少子高齢化となった現代日本の行く末を暗示しているようで示唆に富む。

5月26日

やりたいことが日に日に溜まっている。……が、時間と体力が追いついておらず、十分に消化できていない。やりたいのにやれないのは普通にストレスである。ということで今日の日記では今後やりたいことを書いて、その溜飲を下げたいと思う。

やりたいことが多いのにやれない現状に、せめてもの抵抗としてやりたいことをとにかく書いた回。

ここに書いたものはいまでもやりたいと思っている。

・本屋をめぐる
せっかくいろんな本屋がある土地にいるのだから、いろいろ回ってみたいものである。
個人的に目ぼしいものを全てピックアップして、回って、それからそれぞれの店舗について解説や感想をnoteに書きたいと思っている。

でも、この「本屋をめぐる」については割とできている。

書店探訪シリーズを打ち立てたし。
でもここに書く記事についてはもう少し内容を練ったほうがいいと思い、現在は休止中。時期がくればたくさん書きたい。

5月27日

傘がボロボロになってしまったので、傘を東急ハンズで買った。何回も買い替えるよりしっかりしたやつを一個持っていた方がいいだろうと思って、頑丈そうなやつを選んだ。3年くらい使えたら幸いです。

傘を買った日。買った当時はこれから梅雨だしたくさん使うだろうと思って買ったのだった。結果としては、今年の梅雨、ほとんどなかったのだけど。

最近のボーカロイドの進展が凄まじい。人間と変わらないように聞こえる。昔はもっと機械機械していて、すぐに機械音声なのがわかったが、最近の曲でうまく調整されているものだと一瞬わからなくなる。

ボーカロイドの進展について。人工音声は今後さらなる発展を遂げると思う。

5月28日

以前の日記で書いたヤマザキビスケットのレモンパックだが、近所のスーパーにあるのを見つけた!が、売り切れていた……。なぜ。エントリーはなかった。

なんとなくスーパーやコンビニに行くたびに探していた「レモンパック」、「エントリー」だが、近所のスーパーにあることが判明した回。
でも売り切れていた。レモンパックを食べることは果たしてできるのか。

5月29日

池袋に行った回。

この日はジュンク堂と天狼院書店に行って、感想もnoteに書いた。

天狼院書店は「日本一話しかける本屋」らしい。実際、来店した人に対して「ここにきたのは初めてですか〜?」と話しかけていた。

それはいいんだが、

なぜか、

僕には話しかけてもらえなかった。

なんで?

話しかけてもらえなかったことに対して疑問を呈していた。

私はあまり話しかけられることがないのだが、なんでなんだろう。いでたちのせい?あまりにも話しかけるなオーラを出しているのだろうか。

話しかけられないからといって自分から行くのもなんか違うな〜と思い、なんとなくモヤモヤしながら退店した。

なんか話しかけにくい感じが出ているのかもしれない。もっと親しみやすい感じを出していくべきか。

謎である。

混雑していても待てば入れるのだが、ゆっくり滞在することができない。待っている人のことを考えるとあまり長く居続けるのはなんかダメな感じがするし、というか店員の「圧」を感じる。よって時間を意識せざるをえないのだが、まあそんなことはしたくないのである。

実は、そうした悩みを解決できるお店が初台や西荻窪の方にあって、僕はそこに何回か通っているのだが…それに関することはまた後日独立した記事で書きたいと思う。

カフェで本を読むことについて。人気なカフェでは長時間滞在して本を読むのは憚られる。常に「邪魔かな…」という思考がノイズとなって読書に集中できないのである。

ここで書いている「悩みを解決できるお店」というのは「fuzkue」のことである。独立記事を書くのを忘れてしまっていた。

「本の読める店」と標榜しているが、その名にふさわしく、本読みにとって優しい仕組みづくりがなされている。混雑を気にせずにいつまでもいてもいいし、周りは静かだし、ドリンクおいしいし…。がっつり本を読みたいぞ!となったら真っ先に候補に上がるお店である。

仕組みづくりがしっかりされていると書いたが、その代わり少しルールに厳しいところがあるので、初めて行く人はどういうお店か調べていくのがオススメ。あと一人で行くべき。二人以上で行くようなところではない。

今日の感想!とにかく暑かった!!
日中の気温は30℃に達していた。いや、まだ5月よ?こんな調子だと8月とかどうなるんですか?勘弁してくださいよ。

思い返せば5月から暑かったようである。やべ〜。

5月30日

これほど規則正しく生きることによって、得たことが一つある。日記が書きやすくなったのである。
いままで昼夜逆転なんて当たり前で、一日は28時間くらいあった。そこに日記が入る余地は少なかった。日記は一日のことを書くものだが、その一日の境目が曖昧だったのである。だから昔の日記は日記というよりもエッセイに近くなったのであろう。

規則正しく生きると日記が書きやすくなります。日記が書きたい人は規則正しく生きよう。

昔、好きなことを書き殴る場所はツイッターだった。始めたころはツイ廃で、一日にものすごい量のツイートをしていた。今ではもうツイッターを触ることはほとんどない。インターネット上で誰かと交流するときは専らdiscordになった。そして今はnoteに好きなことを書き殴っている。

Twitterを初めて触ったのは中学二年性のときだった。毎日朝から晩までいろいろなことを呟いていた。アカウントはもう消したので、当時のツイートを見ることはできない。どんなことを呟いていたのだろうか?いまでは知る由もない。

5月31日

仕事の都合で映画Dayになった回。この日はトップガンマーヴェリックを見たのだった。

トップガン、本当に面白かった!まずオープニングが最高すぎる。掴み完璧。その後の映像もストーリーも最高の一言に尽きる。空中戦もものすごく興奮した。IMAXで見たが、迫力がすごくてこれは映画館で見るべき映画だなと思った。隣に座ったおじさんも静かに興奮しているのが伝わってきた(気のせい?)。とにかく爽快で、手に汗握る王道のアクション映画であった。オススメ!
ちょっと思ったこと。
人の人生を一つの映画でまとめようとするとどうしても抜け落ちてしまう部分が出てきてしまう。加えてストーリー性も組み込んで、緩急をつけて…なんてナラティブ要素を加えると、実際の人生よりも幾分か脚色された内容になってしまうだろう。
ただ、個人的に人生はそんなにナラティブではないと思っているし、劇的でない部分の方が聞いていて面白いと思う。ある種どうでもいいようなことを聞く方がすき。でも人生って他人にとってはどうでもいいようなことの方がよく起こるし、結局そういうものの積み重ねで構成されていると思う。
まあ、有名人とかは日常的なことであっても我々庶民からすれば劇的であることは考えられるから、上の話を有名人に対して同等に適用することはできないかもしれないね。

ナラティブでないものをナラティブでなく語るためにはどうすればいいんだろう?全てを物語に変換することは、なんだか貧しくなってしまう気がする。
この問題はいまでも解決していません。これからも考えていこう!

おわりに

あー疲れた。こんなに書くとは思わなかった。

次から月の前半と後半で分けようと思います。

全部読んだ人(いるのか?)はありがとう。これからも日記を書いていくのでよろしくお願いします。


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