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「推し、燃ゆ」宇佐見りん


「推し、燃ゆ」宇佐見りん、を読んで考えたことの記録。

作者が21歳のときに書いた小説らしい。

21歳でこういう文章を書ける人って
どんな人生を送ってきたんだろう。

失礼な話だけど、
わたしの好きな漫画家の田村由美さんとかもそうなんだが、
小説家や漫画家になる前までは
きっとわたしが理解できないくらいの
生きずらさを抱えてたんじゃないかって想像する。

でも、絶望はしてなくて(絶望に近い感覚にはきっと何度もなったんだろうけど)、
どこか人に愛情を持ってたり、
希望を持ってたりってのが見える感じ。

まぁ知らんけど笑

わたしは、この小説の主人公みたいに
熱烈に推す「推し」はいない。
わたしの「背骨」は1つじゃない。

その代わり、
たくさんのドラマ、映画、漫画、アニメ、小説を読んではそのたびに
誰かのファンになり、
1週間もしないうちに次の誰かのファンになってる。

こういうエンタメだけじゃなくて、
趣味?で旅行したり、習い事したり、ジム通ったり、
なんか人集めてわいわいしたかと思ったら
一人でこんなnoteを書いてたり、、、

とにかく何もしない時間を作らない。

暇が嫌い?
暇が怖い?
というより
この小説のことばを借りると
刺激や変化がわたしの「背骨」かな?
小説の主人公みたいに太い背骨じゃなくて、
もろいけど、新しいものに付け替え可能な背骨。

同じ事、同じ場所、同じ人、
が苦手。

なんだか生きていない感じがするの。

変化がないと生きていけない。
少しでも変化があれば、ああちゃんと今日も生きれたって思う。

普通にいつもと同じように
朝起きて会社に行って仕事して、
ってだけで生きてるって感じれない。

なんで周囲はそれだけで
自分をがんばってるって言って満足できるのか謎。
こういう人は、もともとなぜか、推しとかなくても
自分を推してて、自分の背骨をもってて
自分以外のものを背骨にしなくても、
付け替えなくても生きてけるんだよなぁ

たまに疲れるんだけど
でも、自分ではどうしようもないのよな
だって背骨なんだもん、
背骨がないと歩けないし
なんでないのかは知らないけど、
背骨を生まれ持ってないんだもん

小説の主人公は
1人の他者に自分の背骨委ねちゃったから
あの後、誰かほかの推しを見つけるのか
もう歩けないのかはわからないけど

わたしの背骨は付け替え可能なので
まだ生きていけそう。


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