考えるを考える
これから書くことにまとまりがあるわけではない。思うことをつらつらと書く。
考えるとはなんだろうか?
考えるは誰もが当たり前のようにやっている。
これから世の中がどうなっていくか、私は何をしていきたいのか、、、今日のご飯は何を食べようか、明日はどこへ行こうか、大きな夢から小さな日常まで私たちは毎日考え続けている。
その一つ一つが考えるということであり、誰もが当然にもつ才能だ。
でも、私たちは少しずつ考えなくなっている。
私は釜でご飯を炊くことも、火吹き竹でお風呂を沸かすこともできない。炊飯器があれば美味しいご飯が炊けるし、ボタン一つでお風呂に入ることができる。
世の中が便利になるにつれ、私たちは一つまた一つと考えることをやめる。
今後、社会は複利的にますます発展していくことは間違いない。AIが自分の健康を管理してくれるし、必要なものは自動的に家に送られてくれるし、欲しいものはオーダーメイドで作ってくれる。
最高だ。何もしなくても、なんでもしてくれる。
でも、また一つ何か考えることをやめる。
それはそういうものだと頭が勝手に判断する。
最後の最後まで利便性を追求してあらゆる考えるを削ぎ落とした時、私たちは何をしているのだろうか。何も考えない人って人なんだろうか。。。
もちろん極論の話、考えることは失われない。考えなくていいことができれば別のことを考える余裕が生まれるから、そっちを考えればいいだけだ。
でも、その別のことってなかなか見つけられなかったりする。だっていろんなことを頭が勝手にそうだと決めつけるから、それ以上思考が広がらない。
それは私自身が感じる。小さい頃と今の時間の流れを比べると圧倒的に今の方が早いことから。年越しそばを食べながら「今年もあっという間だったね」なんて話をする。小さい頃はいろんなことが初めてで、膨大な情報を処理しないと理解できないことがたくさんあった。一年が長く感じるのは当然だ。
でも今の私はどうだろうか。多くのものをこういうものだと認識するから、考える時間は昔よりも少なくなる。私たちは無意識に物事をこういうものだと決めつけている。
でも、それが悪いわけではない、逆にそうしないといきていけない。容量の重いデータを読み込むのと同じで、情報が多すぎると処理できない。もしなんでも考えてしまうようなら、毎日ご飯を食べるときに、貧困で食事が満足にできない子どもたちがいると思うとご飯なんて食べられないだろう。
でも私たちは、それを知っていながら美味しいご飯を食べてる。
頭はとても都合が良いのだ。
そうやって無意識に私たちのもつ才能は少しずつ失われていたりする。
ワクワクを考えることの起点
有名なデザイナーや建築家、身の回りのなんかすごい人って、なんでこんなこと考えられるのだろうと思う。それはそもそも自分が知らないことだったり、誰もがそうだと決めつけていたものがそうではないと認識されるものだったりする。この時ふと、その人は自分よりも色々考えたんだなーと思う。誰もが持つ才能を誰よりも生かしている。逆に言えば自分も考えることでワクワクすることができるかもしれない。
でも何を考えれば良いかわからないことはある。
では、そもそも考えるの起点はなんだろうか。
それは好奇心だと思う。
何か興味があることがあれば調べてみたいし、やってみたいと思える。
でも、そもそも興味のあることなんてあまりない。
なぜ興味がわかないんだろうか?
さっきも言ったように頭がそうだと決めつけているからだ。子供の頃は知らないものばかりで好奇心いっぱいだったけど、ものごとがわかってくると好奇心は失われていく。
しかし、好奇心は自然と失われていく一方で、意識的に作り出すこともできる。
以前ある人に、自分を小人に見立てて自分が見える空間で歩かせてみようと言われた。そうすると草をかき分けたり、塀の上を走ったり、穴の中から顔を出したりと普段は体感しないイメージをする。それが建築設計の形のきっかけになったりする。面白そうだとしばらくやってみて、確かにイメージすることはできた。だが、普段やらないことだから中々続けられなかった。
この体験から、意識して見方を変えることで頭で決めつけていたものがそうでないものに変わり、好奇心を生み出し考えるきっかけができそうだと思った。
ではどうすれば長続きするのだろうか。
それは普段から使わない思考回路を作るのではなく、頭の中の認識のフィルターをかけるタイミングを一歩二歩手前にするという意識を持つことだった。
私はものづくりが好きなので、つくる作品に対しておもしろさを求め、それ以外は興味の対象外だった。ここからわかるのは自分には「おもしろさ」というフィルターが手前にあって、そのおもしろさを「ものづくり」というフィルターを通して見出そうとしていたということだった。
では「ものづくり」でフィルターをかけるのではなく「おもしろい」でフィルターでとどめておくとどうなるか。
答えはどんなものに対しても「おもしろい」という基準で見るようになるだった。これによって好奇心の対象外だった、歴史や言葉や哲学、身の回り様々なモノ・コトにもおもしろさを見出すことができた。
また、「おもしろい」で全体を見ると全く関係のないと思っていたことがお互いに関連しあっていいることにも気づくことができ連鎖的に新たなことを発見できる。最近はどんなことを調べても、最終的に哲学の話に行き着き哲学のすごさを実感したりしている。
どんな人にも根本的な思考のフィルターが内在していると思う。それは、「かわいい」「きれい」「かっこいい」「進化」「想定外」本当に色々ある。その一歩二歩手前のフィルターでものごとを見てみると自分だけの視点で色々なことを考えるようになる。
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