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強迫性障害だった祖母から学んだ、情報過多社会の生き抜き方

この世は情報過多時代

私は自宅にいるときに、テレビをつけながらスマホで音楽を流し、iPadでYoutubeを見ながらPCで作業する、みたいな過ごし方をしている時が結構頻繁にあります。
一体何を生き急いでいるのか‥?聖徳太子かよ。と自分でも思うのですが、こういうせわしない世の中で生きていると、ひとつの媒体をぼーっと見たり聞いたりしているのって、なんかもったいないな、って思ってしまうんですよね。

ーそう、現代社会って情報が多すぎませんか‥?

「巨人、大鵬、卵焼き」の安心感

平成生まれの私が生まれるうーんと前、社会科の教科書に載ってた戦後高度成長期の日本に思いを馳せると、みんなでおんなじ時間におんなじテレビ番組を見て、共通の話題で盛り上がって、みんなでおんなじモノや人を好きになって、みたいな感じだったのではないでしょうか。「巨人、大鵬、卵焼き」的な。

インターネットが普及する以前の大抵の人間は、あくまで日本国内のメディアが発信している情報にしか、アクセスできていなかった。しかし、今となっては、子どもですら世界中の情報にアクセスできる。それも同時にたくさんの情報に、時には時空を超えて、いともカンタンに。

情報過多社会は諸刃の剣

情報にカンタンにアクセスできるということは、当然私たちに恩恵をもたらしています。例えば、病院に行くか迷うレベルの、ちょっとした体の不調を、ネットで調べてみたところ、市販の薬で解決することが判明!とか、Y〇hoo!知恵袋で恋のお悩みを相談したら無事に恋が実った!とか。
しかし、こうやって専門性を持たない人たちがあらゆる問題を自己解決してしまうのは、諸刃の剣でもあるんじゃないかとも思うのです。

↑ペアレンタルコントロールの図

強迫性障害だった祖母

ちょっと話が変わりますが、数年前に他界した私の祖母は、外出時に鍵をちゃんと締めたか、10回以上確認しないと出かけられない人で、おそらく「強迫性障害」だったと思われます(老人ボケとかではなく、若い頃からそうだったらしい)。
しかし私たち家族は、「あはは、またか~」みたいな感じで笑って優しく見守っていました。「病気」というより、「ただの心配性な人」程度にしか思っていなかったです。また、施錠確認にかかる時間を見越して、常に15分前行動を心がけていたようで、あまり生活に支障はきしていないように見えました。
そして何より、当の本人はそんな病名すら知らないでしょうし、とっても明るい人で、若い私なんかより毎日元気に充実して楽しそうに生きていました。

この世には知らなくても良いことがありすぎる

私は、たまたま自己啓発本にハマっていた時期があって心理学や精神分析をかじっていたので、「強迫性障害」という病名を知っていましたが、戦前に生まれ、情報社会とは無縁の祖母にとって、「鍵を締めたか10回以上確認しないと気が済まない」ことなんて、さほど大した問題ではなかったのでしょう。

もちろん、祖母は仕事をしていなかったので、現代の労働世代の私たちに置き換えたら話は別です。私たちにとって、「鍵を10回以上確認しないと出かけられない」状態は、由々しき事態です。会社に遅刻してしまい、それが重なりクビになるとか、彼女とのデートに毎回遅刻して愛想を尽かされて振られる、とか。

ただ、私がこの祖母の思い出を通じて感じたのは、「この世には知らなくても良いことがたくさんある、いや、ありすぎる」ということです。

情報過多に苦しむの図

心の病気の認知度が上がった現代社会

ここ数十年で、心の病気がテレビやネット上で取り沙汰される機会が増えたように感じています。
認知度が高まることは、私たち当該者や今後の社会にとって、大変有意義なことです。自分の心の不調や日頃の悩みの原因を把握し、解決に導くことができますし、認知度が高まるということは、許容されやすくなるということでもあります。

一方、「こういう症状のある方は、うつ病の可能性があります」「こういうお子さんは発達障害かもしれません」といった類の報道や情報を目にすると、専門家ではない素人の自分の勝手な思い込みで、「私はうつ病なのかもしれない」と自己判断し、不安を煽られ、「ああもう人生終わりだ」などとネガティブになってしまったり、必要のない薬を服用してしまう、というようなこともあるとも思うのです。
余談ですが、この勝手な思い込み、占いでよく使われる手法、「バーナム効果」ともよく似ています。

※バーナム効果‥誰にでも該当するような曖昧で一般的な性格をあらわす記述を、自分、もしくは自分が属する特定の特徴をもつ集団だけに当てはまる性格だと捉えてしまう心理学の現象。

Wikipediaより
数年に一度、謎の占いマイブームが来ます。

自分で自分を病気にしていた私

私は、元来心配性のうえに、心理学系の本を読み漁っていて知識だけはたくさんあったので、その「私は〇〇病なのかもしれない」「〇〇障害かもしれない」という思い込み、不安が不安を呼び、どんどん心配性になる、ということを繰り返していた時期がありました。
医師などの専門家が見たら、全く該当しないような病気だったとしても、素人の私が私に対して勝手に診断していた、私は自分で自分を病気にしていたようなものです。

情報過多社会で傷つかないために

この世の中の情報過多化はもう誰にも止められません。山奥で自給自足生活つを貫き通すとか、出家するとか、そうでもしない限り、情報は向こうから勝手に入ってきます。
正直、私も画期的な解決策をまだ生み出せておらず、絶賛お悩み中なのですが、現状でやっていることを書いておきます。

①情報系アプリやツールから離れる

・Y〇hoo! newsなどのニュースアプリを削除して見れないようにする
・わからないことや知らないことをすぐ調べる癖をやめる
Y〇hoo! newsのアプリ削除は、今のところ結構効果的です。ついつい不要な情報を目に入れることも無くなり、心のHPと無駄な時間の消耗が少し軽減された気がしています。

あと、まだ実践していないですが、「タイムロッキングコンテナ」という、スマホを物理的に一定時間触れられないようにするために、スマホを入れて鍵をかけられる箱、の購入も検討しています。スマホ、ついダラダラといじっちゃいますので。

②「だから何?」を口癖にし、鈍感になる

「鈍感力を身につけよう」系の自己啓発本よくありますよね。内容ははっきりとは覚えていないのですが(笑)、書かれていたのはたしか、鈍感に生きようということです(適当)。
それらの本を読んだ私なりの解釈ですが、「だから何?」を口癖にするようにしています。

真面目だったり好奇心旺盛だったりする私は、何かのニュースや情報、自分自身の言動、他人の言動に対し、「なんでこういう現象がおきるのだろう?」「なんでこの人はこんな発言をしたんだろう?」とか、気になってしまってそれについて調べたり、ニュースの登場人物に思いを馳せたり、延々と考えすぎてしまう傾向があります。
何かしらの情報を目の当たりにした際、「だから何?」「それがどうした」を心の中で言うことで、あえて自分を「思考停止」させて、それ以上考えず気にしないようにしています。

※誰かとの会話の中で面と向かって「だから何?」と言うとめちゃくちゃ感じ悪くなってしまうので、注意してください。

③テキトーに生きる

私の祖母の話に戻りますが、彼女は「強迫性障害」っぽいところがあったにも関わらず、心身ともに健康で、明るくて楽しそうな人でした。
細かいことが気になり過ぎる神経質な私とは対照的に、良くも悪くもおおざっぱな人でした。
性格だけでなく、体も健康体そのものでしたが、ある日突然心臓が止まってそのまま他界しました。親族一同が100歳まで生きると信じていた祖母は、平均寿命を待たずして天寿を全うしました。

そんな彼女の死から言えることは、
・祖母は「私は強迫性障害かもしれない」などと意に介することなく、むしろ「いつ死んでも後悔は無い」が口癖なくらい、人生を楽しんでいた
・強迫性障害だろうがなかろうか、人はどうせいつか死ぬ、しかもその死は突然やってくる

ということです。

「私は〇〇病かもしれない」と悩む人って、私も含めて真面目な人が多い気がします。でも真面目な人にもテキトーな人にも、死は平等に訪れる、しかも突然に。
真面目な人にとって「テキトーに生きる」」って難しいんですけど、心がけていれば、いつかできるような気がしています。っていうテキトーな締めくくり。

目指せ!高田純次!テキトー男(女)!

参考:祖母が他界した時に書いた記事↓


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