患者ー治療者の関係について(歴史・理論を中心に)①フロイト編

今回は、「患者―治療者の関係」について、書きたいと思います。
元臨床心理士/公認心理師(資格は保持しているけど、もう引退しています)の目線と、双極性障害当事者の目線とで、この問題について書いていこうと思います。

※きっかけ
一番のきっかけは、SNSでの、心理職による当事者への批判や非難の応酬、また、筆者の体験した精神科医療での患者としての体験をきちんとしたかたちで(個人的にではありますが)整理したいと思ったのがきっかけです。

後者については、現在主治医に恵まれており、治療もまずまず上手くいっているので、ほとんど問題はないのですが、現在の診断のもと治療が開始するまで、あちこちの精神科で異なる診断を受け、治療を受けるも不変、あるいは悪化し続けた経緯を、本記事は踏まえています。

※問題
精神科医療において、診療、カウンセリングも含めて、多くは理論的根拠、同職種内での研鑽、そして相手の訴えを懸命に理解し、介入(治療)しようとする志の高い同僚(?)の姿を、たくさん思い浮かべることができます。
他方で、精神科医療において、患者ー治療者の関係が、双方に納得のいくような良いかたちで成立しているかというと、私の経験も含めて、必ずしもそうとは言い切れないように思います。

では、そもそもこの「患者ー治療者」の関係について、精神科医療、特に心理療法の立場からは、望ましいかたち、あるいは目指すべきかたちとして想定、言及されているのでしょうか。

今回私見ではありますが、過去の研究や、過去に臨床心理の場を生きた先人の残した歴史的遺産を参照しながら、できる範囲でできるだけコンパクトに、この問題について考えてみたいと思います。

なお、今回は筆者が一番慣れ親しんでいた精神分析系の歴史や文献を中心に思索をしていきます。ですが、この選択は「(筆者にとって)使いやすいものを使った」程度のもので、それ以上の意味はありません。例えば、認知行動療法の「共同実証主義」(クライアントと治療者がチームを組んで、効果を検証しながら治療を進めていくという考え方)や、その他の心理療法(「来談者中心療法」や「解決志向ブリーフセラピー」など)の考え方を軽視するものではないことを、あらかじめおことわりしておきます。

目次は、以下のとおりです。

※治療関係
①「外科医」フロイト
②「治療狂」フェレンツィ
③「共感と精神分析」北村
④「差別と支配への恐れと欲望」富樫

※総論 患者ー治療者関係の理想と落とし穴

①「外科医」フロイト

精神分析、精神分析的心理療法では、フロイトが重要視した「無意識」の様相が、患者の症状形成に重大な影響を与えていると仮定されています。

フロイトが「精神分析」と言う用語を使用したのは1896年の論文からといわれていますが、現在この精神分析は、「自我心理学派」「クライン派」「独立学派」「自己心理学派」「対人関係学派」等々、たくさんの学派に枝分かれしています。フロイトを批判し、分岐したそれらの学派のそれぞれで治療において重視する点が異なりますが、今回は「精神分析」の事実上の創始者、フロイトの論について検討したいと思います。
話を単純化するために、恣意的かつ非常におおざっぱなご説明になりますが、ご容赦ください。

・概略
フロイトの理論で重要視されるのは、「欲動」と「葛藤」です。
フロイトの理論において、「~したい」「~であればいいのに」といった、意識されていない「欲動」(意味として正確ではありませんが、「無意識下で持っている願望や本能」と言い換えてみると分かりやすいかと思います)は非常に大きな役割を持ちます。

有名な「エディプス・コンプレックス」(父から母を独占する)、あるいは性愛(性的なもの)に絡んだ願望は、その性質ゆえに意識されることのないように「抑圧」され、無意識の層に追いやられる。けれどその願望は生き物のように無意識の層を食い破って意識上に上ろう(その結果、実際に行動しようと)する。その結果、本来の願望は表に出ることを阻害されるも、「症状」にかたちを変えて、部分的に表に現れるという仮定をしています。
つまり、抑え込む心の働きvs出ようする本心や本能という、相反する心の動き(無意識下での「葛藤」)が恒常化し、症状の形成を招くという論です。

例えば、1890年代に報告された「症例 エリザベート・フォン・R嬢」において、エリザベートは姉の夫である義理兄への恋心、姉の死に対する喜びといった諸々の感情を「抑圧」し、その結果、当時の医学的には説明のつかない不可解な身体症状に苦しんでいましたが、精神分析の治療の中で無意識に追いやられていた願望が「想起」(単純な言い方をすれば、「自覚」)されると、症状は消失したと記されています。
これはフロイトが、「精神分析」という用語を生み出す以前に共著書で報告した症例ですが、話として分かりやすいので例に挙げました(「ヒステリー(※現・転換性障害)研究」1895年)。

※その後の歴史的研究では、「ヒステリー研究」における一部の症例の症状消失が、一時的なものであったことが確認されています(田村,2004)。また、同様の研究からは、そもそもいくつかの症例は「ヒステリー」ではなく、別の要因によるものだったのではないかとする意見も寄せられています(ブレーガー,2000)。

・治療
治療の方針としては、「エスあるところに自我あらしめよ」(フロイト,1923)という格言が有名です。

エス(本能。本記事ではわかりやすさを優先して、「願望」と表記)は、特定の条件がそろった場合、心の働きにより、無意識の層に追いやられる。
しかしエスは消失せず、無意識の層で暴れて、患者自身にもよく分からない症状を作り出す。症状として部分的に表に現れたエスは、精神分析によって徐々に全体の姿を現し始める(「意識化」)。それに対し「自我」(意識されている「私」)をもって向き合え、意識を向けて向き合え、といったような色合いになるかと思います(詳しくは、フロイトの「構造論」についてお調べください)。

けっこう手厳しい感じですね。
自分の望ましくない、あるいは周囲から、社会からみて望ましくないとされる心の部分に向き合うことになる。けれどその過程が、症状そのものに向き合い、対峙する力となる。それが(フロイトのいう)精神分析の要点になるというのですから。

エリザベート嬢の例をあのようなかたちで出したので紛らわしいのですが、フロイトの精神分析は、症状の消失それ自体を目的にしていません。
フロイトの言い方をすると、「あなたの不幸をありきたりの不幸に変える」ことが、精神分析の目的です。
つまり、症状を作り出した部分は浮き彫りになる、それで症状は軽減したり、消えるかもしれない。けれど、それ(浮き彫りになった心の部分)に向き合い、それを正面から抱えてこれからを生きるのはあなた自身の仕事なのですと、そういう意味合いが含まれています。

治療技法としては、「自由連想」「解釈」「徹底操作」「洞察」などが挙げられます(フロイト,1914)。

端的にいうと、「自由連想」により患者の無意識の断片が明らかになり、精神分析家はそれに対し、「解釈」という方法で理解を伝える。けれどそれは、「転移」や「抵抗」、「防衛」といった治療上の障壁に阻まれて、なかなか「無意識の(内容の)意識化」には達しない。

その代わりに患者は、無意識の「抵抗」による病的な関係や行動を「反復」するが、分析家が粘り強く「解釈」を繰り返すと、「抵抗」の力が弱まり、無意識の内容が明らかになっていく(「徹底操作」)。
そうした分析治療の過程を経て、患者は自分の心に対する「洞察」を得る。
ここで得られた「洞察」が、症状の軽減、喪失に繋がったり、患者がその後の人生を生きる糧になるといった趣旨であるといえます。

フロイトから現代に至るまで、精神分析技法は多かれ少なかれ、「関係性」も包含した理論に基づいています。ですが本記事では、字義的な「患者ー治療者関係」について、なるべくそぎ落として書き記したいので、この点に関しての詳細は次回以降の記事か、他書をご参照ください(藤山,2008、北山,2021、小此木,2002、等)。

・治療者象

フロイトは晩年、精神分析の治療行為は「破壊され埋没した古代の住居や建造物を発掘するという考古学者の仕事と驚くほど一致している」(フロイト,1937)と述べていますが、実際のところ、フロイトは精神分析を行うに際し、当時の治療者にどのような治療態度を要請し、どのような患者―治療者関係(治療関係)を推奨していたのでしょうか。

一番有名なのは、「平等に漂う注意を向けること」という語句でしょうか。
これは1912年の論文、「分析医に対する分析治療上の注意」に記載された文言です。同論文では、分析家(精神分析治療を行う者)は「できるだけ正確に手際よく手術をやり遂げるために全力を尽くす外科医」のように、自分の感情をすべて制御して、あるいは電波を正確に受信する「受話器」のように、患者の言葉に「平等に漂う注意」を向けることを指南しています。

※とはいえ、これは理想目標のようなもので、精神分析家の藤山(2008)は、フロイトはあえてこのように書くことで、精神分析臨床を行うことの難しさを逆説的に強調しようとしたのではないかと指摘しています。

似たような言葉に「分析家の中立性」というものがあり、どちらかというとこちらのほうが、(精神分析学派の)心理臨床の場において根付いているかもしれません。
言い換えれば、(フロイトの実際のところはともかく、指南としては)「入り込みすぎず、それでいて外れることのない」ような立ち位置で、精神分析理論に基づいて患者の声に耳を傾け、無意識の断片を拾い上げよといったところであるように思います。

もちろんそこでは、患者には分析家に対して「自由連想」(頭に浮かんだことは包み隠さずすべてを話す)を行うことが要請されます。
さきほどの「受話器」の比喩でいえば、患者が発した電波(「無意識」の断片)を、「受話器」である分析家が細心の注意を払って聴き取り、「解釈」として返す。それに対し、患者は連想が促進され、このようにして「発掘」が進んでいき、「洞察」への道が開かれる。
これが、「患者ー治療者」関係の原型にあたるものといえます。

認知行動療法の「共同実証主義」(患者と治療者が双方で協力してデータを収集し、それに基づいて共同して問題に取り組んでいく姿勢)や、来談者中心療法の「受容」や「共感」の積極的な重視に比べると、静的というか、ややもすると冷たく感じられる発想ですが、基本としてはそのようなことが、理論的背景を伴って共有されていきました。正統というか、厳密な、フロイトがいう意味での「精神分析」では、患者は寝椅子(カウチ)に横たわり、分析家は患者から見えない場所に座して患者の自由連想に耳を傾け、解釈のみを行うという、徹底ぶりです。

徹底して雑務雑音が排除された空間での、連想と対話。ある意味、究極的に近いかたちで〝割り切った〟関係の持ち方だとも言えます。

精神分析という非日常の空間だからこそ、頭に浮かぶ、話せることがある。治療の時間が終われば、現実の生活に戻る合図。料金を払って、また次回、という、しっかりした「枠」があります。
これらは患者・分析家、双方を守るための仕組みという側面もあります。

心理療法のはじまりとして誕生した精神分析は、このようなスタイルを主流として広まっていきました(行動療法や来談者中心療法は、その他の心理学的知見や、精神分析に対する批判から誕生しました)。

しかし、フロイトの精神分析理論は、大きな落とし穴があり、また、限界があったのです。

もちろんそれはひとつに絞られるものではないのですが、次回はテーマに最も関連すると思われる、精神分析の「心的外傷」論、そして精神分析家・フェレンツィの仕事と、その結末を取り上げて、「患者―治療者関係」について掘り下げていきたいと思います。
(不定期ですが、続きます)

文献
・ブレーガー(2000;2007)「フロイト 視野の暗点」里文出版
・藤山直樹(2008)「集中講義 精神分析 上 精神分析とは何か フロイトの仕事」岩崎学術出版社.
・フロイト/ブロイアー(1895;2013)「ヒステリー研究<初版>」中央公論新社.
・フロイト(1914)「想起・反復・徹底操作」小此木啓吾 訳 (1983)フロイト著作集6. 49-58,人文書院.
・フロイト(1923)「分析医に対する分析治療上の注意」小此木啓吾 訳 (1983)フロイト著作集9. 78-86,人文書院.
・フロイト(1937)「分析技法における構成の仕事」小此木啓吾 訳 (1983)フロイト著作集9.
・北村隆人(2021)「共感と精神分析 心理歴史学的研究」みすず書房
・小此木啓吾(2002)「現代の精神分析  フロイトからフロイト以後へ」講談社学術文庫.
・田村雲供(2004)「フロイトのアンナO嬢とナチズム:フェミニスト・パッペンハイムの軌跡」ミネルヴァ書房.


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