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#304 アメリカの教育省廃止論からみる、教育の内容と質を担保する大切さ

 江戸時代の統治構造は幕藩体制。徳川将軍家がヒエラルキー頂点として君臨しつつも、各藩を納める領主の力は絶大なものでした。

 廃藩置県を知っている私たちは、藩を納める大名が今でいう県知事であるというイメージが強いですが、藩主はある意味一つの国の主で大殿様。その自治権は非常に強く、藩によって政治体制や税も全く異なるもので、それが藩の特色として差別化されていました。

 明治維新を経て誕生した新政府は、西欧列強に追いつくべく、中央集権化を図ります。教育、経済、流通などあらゆる分野を国家主導の元で様々な改革を行い、日本の発展を達成しました。

 教育という分野においても、私たちは、「国家機関(今でいう文部科学省)」がその枠組みを作り、その枠組みの中で、各自治体(あるいは私学、民間)が特色を出すシステムとなっています。私たちが教育の変革を訴える時に困難であるのは、その大元の枠組みを作っているのが「国」であるが故に、その変革に相当な時間がかかること。一方、国が枠組みを決めてくれるからこそ、全国の教育機関の「質」が担保されるという側面もある。

 私個人としては、国が教育に対する「幅」を受け入れることが必要ではあるものの、その質を担保し教育の機会均等を図る上で、国がその砦となることは必要不可欠だと考えていましたし、文部科学省をなくそうというような発想はありませんでした。

 2024年のアメリカ大統領選挙に向けて、共和党の大統領候補たちが「教育省廃止論」を唱えているという衝撃的な記事を見つけました。

 記事によれば、彼らは教育に国家が介入し能力を平均化することで、個人の才能が埋もれてしまうと主張しています。もちろんそこには政治的背景がある。アメリカ南部には独立主義、「小さな政府」信奉が根強く残るそう。その典型が「子供の教育はわが家庭で」を旨とする「ホームスクール」という価値観、南部を支持母体とする共和党政権にとって、様々な意味で「教育省」という存在は、目の敵だと言える。

 一方、その思想は危険だと個人的には思う。もちろん教育の多様性は担保されるべきであるし、政府が介入しすぎると、教育が国家の従属システムになってしまう。しかし、質を担保するという点においては、どこか公的機関が関与するべきである言える。教育を行う上で最も大事なのは、『ある特定の思想「のみ」を教え、その他を「排除」する』ことを防ぐこと。特に政治的母体に気を遣うことによって行われる「教育」は非常に危険であると考えるのです。

 もちろん、現実問題として教育省がなくなることはないでしょうが、そのような主張を展開する大統領が生まれる可能性があること自体がアメリカの危機なのかもしれません。


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