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#438 教科感と新たな価値の創造

 世の中には無数の「学びの対象」が存在し、いかなるものを学んだとしても、それが自分たちによって「役にたたない」ことは本質的にはありません。

 一方で私たちが生きる現代社会では、学びを進める上で大切な「考え方(思考力)」よりも、獲得した「実利的側面」に重きがおかれる傾向にあります。

 私の専科は英語だったので、「どうして英語なんか学ばないといけないんですか」、「将来役にたたないじゃないですか」とはあまり言われませんでした。それは英語という科目が入試においても、実社会においても、非常に実利的だから。一方、古典を教えている同僚は、しばしばその科目特性と実利性のギャップに悩み、その学習動機を「入試」と結びつけていました。 

 その教科・科目を学ぶ意味。それを考えることは学校教員の職務だと私は考えています。実利性を押すことができる教科は良いのですが、じゃ何を持って実利性があるのか、という話になる。また実利性だって技術が発達すればわかりません。英語だってgoogle翻訳でなんとかなるし、、、。きっと学ぶことの意義は、その非実利性の部分にあるのではないかと思う。で、逆に言えばそこを突き詰めていけば、どんな教科・科目にも実利性が生まれて来るのだと思うのです。

 児童・生徒が「こんなこと学んでも将来役にたたないじゃないですか」と言う質問に対しては「やってもないのになぜ役にたたないとわかるのか」と言う言葉を返したくなるけれども、逆に言えば、それをしっかり伝えきれてない教員は、自分の科目を教えることに対する本質的理解をもっと深めなければならない。なんなら児童・生徒と一緒に考えてもいいくらいです。

 株式会社カルペ・ディエムに所属する永田 耕作(ながた こうさく)は、2つの記事の中で、数学の微分・積分が私たちの日常にすぐそばにあることを伝えつつ、大事なのは微積を学ぶことで触れる「考え方である」と述べています。

微分積分の考え方は、概念を理解していれば数学以外の場面でも応用することができます。物事を分解して、その一瞬一瞬での変化を捉え、それを合わせることで全体の動きを測る。この考え方を知っていると物事を分析する際の視野が広がると思います。

なぜ学ぶのか。結局は一番シンプルな問いに帰結するのです。


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