見出し画像

ショートショート『明日 あります』

「そろそろお風呂に行こうよ」

アパートの一室
隅っこに小さく三角座りをした妻が呟いた。

このボロアパートで二人暮らしをはじめて
1年が経つ。
住みはじめた頃、風呂もないこの住処に
不満を抱いていた妻も
最近は何一つ言ってこなくなった。

僕は書きかけの原稿を保存すると
静かにパソコンを閉じた。

「よし、行くか」

ほぼ同時に2人が立ち上がると
畳が軋む音がした。

洗面器にシャンプーやリンス、
石鹸や剃刀を入れアパートを出る。

築20年のこの建物には
今は3人ほどの入居者がいた。
それぞれに特に干渉しあわず
ただただ自分自身の
生活を送るので精一杯だ。

銭湯までの道をしばらく歩く。

少し前を歩く妻の、
後ろでくくった髪が
風になびいて少し揺れていた。

いつもの銭湯に着き、
靴を脱ぐと下駄箱に入れ、
鍵になっている札を抜く。
番台に座っているお婆さんにお金を払うと

「じゃあまた後で!」

妻の溌剌とした声を背中に感じながら
僕は男と大きく書かれたのれんをくぐった。

浴場に入ると先客が5、6人いた。
いつもよく見る人々だ。
毎日、同じ時間に来て同じ時間に出て行く。

いつも通りの日常。

頭を流し体を洗う。

僕は書きかけの原稿のことを考えていた。
今回の作品は今までとは違う。
僕はそう感じていた。

小説を書きはじめて6年、
2年目に一度、
賞の最終選考に残ったのを最後に
うだつの上がらない日々を過ごしてきた。

妻にも相当な苦労をかけている。
そろそろ目に見える結果が欲しい。

体に纏わりついた泡を落とし終えると浴槽に浸かる。
少し熱めに張られたお湯が体に浸透し疲れがとれていく。

再び原稿のことを思い出した。
この後の展開はほぼ全て決まっていた。
あとは頭の中にあるものを文章にするだけ。

バシャバシャバシャバシャ

隣から音がした。
小さな子供が浴槽に足だけをつけ
水中で動かして泡を立てている。
父親だろうか、隣の男が注意する。

これ以上入るとのぼせるな。

僕は脱衣所へ向かった。

壁にかけられている大きな時計をみる。

20時30分

45分ほど風呂に入っていたのだろう。

時計の横には白い紙が貼ってあり、
筆で大きく

『明日 あります』

と書いてある。

この銭湯は毎週火曜日が休みだ。
なので、月曜日以外はこの紙を貼っている。
明日が休業日ではないことを示すものだ。

脱衣所では1人の男が
扇風機の前でくつろいでいる。
ヒョコッと頭を下げてきた。
よく見かける男だ。

僕はその男に会釈すると
ロッカーからタオルを取り出した。

着替えが終わると
僕はいつも番台の横の椅子で
コーヒー牛乳を飲みながら
妻が風呂から出てくるまで
考え事をしている。

妻はあと20分ほどで出てくるはずだ。

しばらくすると妻が
赤いのれんから出てきた。

2人で来た道を帰る。

わずかな街灯と綺麗な満月だけが僕たちを照らしていた。
夏の風呂上がりに心地いい風が
また妻の後ろ髪を揺らした。

僕は付き合いたての頃を思い出していた。

妻の髪の毛は今よりも少し短かった。
最近は散髪に行く暇もないのだろうか。
僕たちの生活はほとんど
妻が外で稼いだお金で成り立っている。

アパートに戻ると疲れからか
すぐに眠りについた。

翌日

僕は部屋に閉じこもって原稿を書いていた。
妻は仕事で出ている。
部屋でただ1人パソコンと向き合う。
昨日にも増して手が止まらず動いている。
最近は風呂とトイレ、食事以外はずっと作業をしている。

何時間くらい経っただろう

時計を見る。

16時03分

後1時間ほどで妻が帰ってくる。
僕は立ち上がるとヤカンに水を入れ
火にかけた。
コーヒーを飲むためだ。

作業に夢中になってはいたが、
まだ16時00分なのかと
時間の流れを遅く感じた。

淹れたてのコーヒーが
もうすっかり冷たくなってしまった頃、
妻が帰ってきた。

今日は夕飯を買ってきたという。
キッチンテーブルを挟み
2人で向かい合って座る。

食事中も僕はウズウズしていた。
原稿の締め切りまでは
まだしばらく期間があるが
一刻もはやく仕上げたい、
完成度を高めたいという
気持ちが抑えられない。

食べ終わると片付けをするのが僕の役目だ。
その日出たゴミを
全てまとめて分別して捨てる。

それが一段落つくといつものように妻が
風呂に行こうと言い出す。

準備をして出かける。

風呂場で
髪を洗っている間も体を流している間も
頭の中は
今書いている原稿のことでいっぱいだ。

この頃、妻といる間も
殆ど上の空の会話しかしていない。
浴槽に浸かりタオルを頭の上に乗せる。
少し目を瞑った。

バシャバシャバシャバシャ

昨日と同じ子供が
また隣で足を動かしている。

僕は子供が嫌いではない。

子供を観察している時だけ
原稿のことを少し忘れられる。

別に忘れたいわけではないが

親が注意した。
いい親子だなぁとしみじみと感じる。

自分も将来子供ができて
男の子だったら一緒に銭湯に連れて行ってやろう。

平和な日常の中でも感じる
小さな幸せを噛みしめながら
僕は脱衣所に向かった。

壁の時計を見る。

真上に位置する電球が
切れかけていて少し見にくい。

20時10分

まだ銭湯に来て30分も経っていないのか。
いつも通りに入っているつもりでも
原稿を書きたいという気持ちが
逸っているのだろうか。

横の張り紙を見つめた。

『明日あります』

点滅する電球に薄暗く照らされたその文字が
今日はなんだか不気味に見えた。


番台の横でコーヒー牛乳を飲む。
後何分で妻は出てくるだろうか。
時計を見つめる

20時12分

いつもならまだ風呂に浸かっている時間だ。
僕は微かな違和感を抱きながら
妻を待つことにした。

1時間以上経っただろうと思った頃
やっと妻が出てきた
時計は21時前を指していた。

暗くなった道を二人で歩く。

「今日ちょっと出てくるの遅かったね」

「そう?いつも通りだったと思うけどなぁ」

使い古してボロボロになったスリッパと
アスファルトが擦れる音だけが
夜道にこだまする。

僕たちは家についてすぐ布団に入った。

朝目覚めると
妻はまだぐっすりと眠っていた。

カーテンを開ける。

窓の外の世界はまだ暗さを残して
ほんのりと明るくなった程度だった。

時計を見る。

5時30分

こんなに早い時間だったのか。

しかし都合が良いことは確かだ。
いつもより
原稿をたくさん書くことができる。

僕はやかんを火にかけた。
コーヒーを飲んだら
すぐに作業に取り掛かろう。

もう今日書き上げてしまおうという気持ちで
朝を迎えることに少し嬉しさを感じた。

パソコンを開く。
デスクトップの右上に時間が表示される。

5時30分

壁にかけてある時計が
ズレているのだろうか。

気にせずに作業を進める。

しばらく夢中になっていると
母親から電話がかかってきた。
おそらくいつも通りの
近況を尋ねるものだろう。

僕の両親は田舎で細々と暮している。

都会の喧騒に塗れて
いつまでも夢を追いかけている僕を
心配しているのだろう。

電話に出る。

父がもう長くない。
開口一番に母がそう言った。

母の途切れ途切れの声には
介護の疲れや寂しさ、
様々な感情が入り混じっていた。

去年の夏頃だろうか、
父の病気が発覚したのは。

実家に帰った時いつも
元気そうに話していた父も
近頃はずっと静かだと言う。

母は更に父の余命が
半年であることを切り出した。

背中に冷たいものを感じた。

母や父のためにも
はやく目に見える結果を
出さなくてはならない。

電話を切った後
キーボードを押す指に力が入る。

そんなことをしても意味がないと
分かっていてもこればかりはしょうがない、
力んでしまうのだ。

原稿がほとんど完成に近づいた頃
妻が仕事から帰ってきた。

まだこれを出版社に送ることはない、
これから校正の時間が待っている。

いつものように夕飯の時間になり
それが終わると
銭湯に向かう。

いつもより疲れが溜まっていた。

自分は人よりも
長い時間を過ごしているのではないか
という感情が僕を支配する。

銭湯の小さな椅子に座り
鏡に映る自分を見つめる。

しばらく銭湯以外
用事で外に出かけることがなかった。

僕は伸びきった髭に石鹸の泡をつけると
慎重に剃刀を動かし剃っていく。

敏感肌である僕はゆっくりと剃らないと
すぐに剃刀負けを起こしてしまうのだ。

それが終わると
さっぱりとした気持ちで湯船に浸かる。

今日はまだ人が少なかった。

目を瞑る

父との思い出が蘇ってきた。
父は優しい人だった。

怒られた記憶はほぼ無く
やりたいと言ったことは
全て自由にさせてくれた。

父に恩返しできないかもしれない
そう思うと強い焦りを感じた。

脱衣所に戻る。
いつものように時計を見上げた。

19時50分

僕の中の疑惑が確信に変わった瞬間だった。

確実に僕を取り巻く環境、
時間がゆっくりになっている。

僕はいつもどおりに
生活しているはずなのに

まだこんな時間だ。

『明日あります』

昨日よりも増して不気味な光を放っている貼り紙を背に
僕はロッカーからタオルを取り出し
体を拭きはじめた。

いったい何が起こっているんだ?

不安を一つでも取り払いたくなった僕は
いつもよりもはやく着替えを済ませると
脱衣所のベンチに腰掛けた。

冷静になって考える。
この2日間の行動を思い出してみる。

1日中家に篭っていた。

出会った人間は数人しかいない。

特に外の景色を見たわけでもない。

思い過ごしだろうか

決して生活に支障が出ているわけではない。

僕は落ち着かなくなって
浴場の方へ足を踏み出した。
少し扉を開けてみる。

バシャバシャバシャバシャ

バシャバシャバシャバシャ

バシャバシャバシャバシャ

いつもなら微笑ましいその姿も
今の僕には恐怖感を与えるのみであった。




3週間後

僕は今
とっくに入り終えた浴場を眺めながら
脱衣所のベンチに腰掛け
この文章を書いている。

時計は怖くて
もう見ることができなくなってしまった。

僕の感覚では今日銭湯に来て
もう1週間以上の時間が経過していた。

この現象が起こりはじめて
もう何日経過しただろうか

父が僕の中で
1日でも長く生きていてくれる。

それだけが僕の今の唯一の救いだ。

時計の横の貼り紙を見つめる。


『明日 ありません』


この文章を書き終えかける
今この瞬間も

僕は今日から抜け出せずにいる。

今後もどんどん楽しく面白い記事書けるよう頑張ります! よければサポートお願いします😊