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憎しみの人生【幼少期~高校中退】

2023年4月○○日。
私は30歳の誕生日を賃貸マンションの一室で孤独に過ごした。
妹と母からお祝いメッセージが来た以外は誰からも祝福されることはなく、誕生日ケーキもプレゼントも何もない。
もう孤独な人生にも慣れたはずだったが、虚しさが込み上げてくる。
SNSで見た元同級生たちは恋人や友人、家族に囲まれて幸せそうにしている。
今も昔も、楽しい人生を過ごせる人間と、苦しい人生を過ごす人間は生まれた環境、家庭によって決まっているのかもしれない。
見えない疫病神が不幸を呼び寄せているのか。

兄からの虐待

今思い返すと、暴力暴言鳴き声が響いていた家庭環境も私の人生を狂わせた大きな一因だ。
3つ年上の兄がとても短気で暴力的だった。
その兄の存在のせいで我が家は崩壊していた。
幼少期から、兄は私や妹を殴ったり蹴ったりして泣かせては笑って楽しんでいた。そんな人格の持ち主だった。
兄が中学、高校になるとさらに過激になっていき、些細なことで怒鳴り、母を泣かせ、私と妹を殴り蹴り、父と喧嘩し窓ガラスを割ったり、包丁を持ち出したりした。
兄は本当に我が家の疫病神だった。
私は目に頭突きされたり、エアガンで首を撃たれたりもした。
目に頭突きされたときは、兄が憎くて木刀で殴ろうとしたが、怖くてできなかったところ、兄に木刀を奪われ逆ギレされてやられた。
私は痛みと衝撃で目を庇いながら泣き叫んだ。
私が泣くと兄は喜んでいるのだ。悪魔だ。
しばらくしても頭突きを喰らった片目の視界が、ぼんやりとボヤけて字が見えない、物がはっきり見えない…
1日経ってもまだボヤけて字が見えない、失明するのかと小学生ながら恐怖に涙した。
幸い3日くらいして視界がはっきりと見えるようになり病院へは行かずに済んだ。
思い出しながら今でも殺意が湧いてくる。
兄さえいなければ平和で楽しく過ごせていたのにと嘆いては泣いていた。

悪夢のような小学生時代

家庭だけでなく学校も私にとっては苦痛な場所だった。
小学4年生くらいまでは学校で楽しく過ごせていたが、家庭のストレスの影響で小学5年生頃から口をあまり開かなくなった。というよりも、性格が暗くなっていったのだ。
追い打ちをかけるように体罰の酷い平馬という教師が国語、数学、理科、図工を担当するようになり地獄のような日々が始まっていった。
質問に対して手をあげられない者の耳を引っ張り「お前らの代わりに俺が痛い痛いって言ってやるからお前らは口閉じてろよ」といって涙が出るほど耳を強く引っ張るのだ。
それだけではない、質問に答えられずに俯いているとき、げんこつを喰らって頭に瘤ができ、痛みと悔しさと憎しみで心が埋め尽くされ静かに泣いていると「いつまでも泣いてるな!みっともねえ!」と怒鳴られたり。
1メートル物差しで叩かれ、ボールペンでデコペン(おでこをボールペンでピンと弾くように叩きつける)、
1つ目の質問に答えられない(手を上げられない)人間は席を立つ。
2つ目の質問に答えられなければ、机の上に正座。
次は机の上に立つ。
次は机の上で片足で立つ。
次はベランダの柵に立て(これは冗談らしい)
そんなことをしていたクソ教師のせいで、私の心はボロボロに崩れていった。
今思うと。みんながみんな酷い体罰を受けていたわけではなく、おとなしく反抗しないような生徒をいじめていたように見える。
お調子者やクラスの人気者、可愛い女子は酷い体罰(げんこつを喰らったり)してないと思う。
家庭にも学校にも私の居場所などなく、本気で死のうか殺すか迷っていた。
学校では授業前になると足が震えて止まらなかった。
私の顔から笑顔が消えて、口も心も閉ざしがちになった。
親に相談しても「みんな我慢してるんだから」と言って何もしてくれない。
他の教師に相談しても何もしてくれない。
小学6年にして人間不信と鬱気味になっていた。
ストレスで胃に激痛が走り、顔が自分でも驚くほど真っ白くなり病院で吐いたりもした。
学校を休むと親に訴えても「先生がウチに来るぞ」と脅され泣く泣く学校へ通った。
悪夢のような長い日々を耐えて耐えて小学校を卒業し、中学では楽しく過ごすぞと、少し元気になっていたが新たな苦しみの始まりに過ぎなかった。

中学時代の苦悩


小学校時代は同級生とはそれなりにうまくやっていたが、中学生になると私を苦しませる存在に変わっていった。
中学1年のときは比較的平穏に過ごせたし陸上部で短距離をやっていて体力もついてきて自信を少しずつ取り戻しかけていたが、中学2年になったとたん、「すね毛」というあだ名をつけられ馬鹿にされ始めた。
私はストレスの影響かなんなのか知らないがすね毛が周りの同級生より濃く、そんな理由で「すね毛」というあだ名で呼ばれるようになった。
(※25歳くらいのときに、脱毛サロンへ片道4時間かけて通い今では、すね毛はほどんど目立たなくなった)

5人くらい悪質なお調子者がいて私を悩ませ苦しませた。
授業中、外を歩いていた中国人風の女性3人組に一人が「ニイハオ!!」と叫び、教師が「お前、そういうのは差別っていうんだぞ」
と注意すると「じゃあ、すね毛~!!」と教室で叫びクラスの人間がドッと笑う。
教師は「うるさい!お前もなんか言い返してやれ」と私に言うが、私は笑ったまま黙っていた。
私は学生時代おとなしかったが負けず嫌いでもあり、絶対にいじめだとは思われたくはないと思い悪口を言われても笑って流すようにしていた。
そうすればただふざけているだけに思われて、親にもこのことを知られることはないだろうと思っていた。
だが、いじめはどんどんエスカレートしていった。
体育の授業中に短パンを下に何度も何度も降ろされる。
習字の授業で「すね毛」と書いて私のところに持ってきたり、自習の時間に後ろから消しカス、消しゴム、ペン、筆箱が飛んできたりした。
修学旅行ではバスの中で「○○のすね毛ボボーボー(アンパンマンの替え歌)」
と歌われ同級生どもが笑い、私は悔し涙をした。
温泉では何度も水を引っかけられた。
ある日、堪忍袋の緒が切れた私は怒りのあまりお調子者の一人を追いかけまわし突き飛ばし、一心不乱に殴った。
頭の中が真っ白になり、拳の痛みも何も感じなかった。
他の人間が止めに入り、引き離されて我に返り涙が出てきた。怒りと悲しみの感情が心の中で激しく入り混じっていた。
別の日には他の一人に前蹴りと左フックを3発くらい喰らわせ鼻血を流していたが私の拳は止まらず「やりすぎだ」と周りから止められ驚かれたりもした。
反撃はされなかったが、クラス中から「血も涙もない人間」「関わらない方がいい人間」と思われていたようだった。
私が暴力事件を起こしてから、しばらくはお調子者どもはおとなしくなったが、ときどき様子を見るように馬鹿にしてきたがもう笑わずに真顔で無視し続けた。
中学の思い出などそんなものだ。
今思い返してみても、見て見ぬふりをして笑ってた者、人を馬鹿にして楽しんでいるお調子者どもに「ふざけるな!くたばれ!」と叫びたい。
人を苦しめるお調子者どもがクラスの人気者なのだ。
狂ってる。この世は。



高校中退

こんな奴らとは一緒の高校へは行きたくないと思った私は、同級生が誰も志望していないバスで片道1時間30分かかる農業高校へ入学することになった。
ただ、人間不信と鬱気味の暗い性格が災いして高校でも孤立し、登校拒否を繰り返し、入学して2か月程で退学した。
高校へ行く途中で降りて崖道を歩いて帰ったり、(死にたい早く楽になりたい死にたいこの崖から飛び降りようか)と鬱々と悩み続けており、死ぬくらいならとりあえず高校なんか辞めて仕事をしてみたいと思ったのだ。


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