【コンビニ人間】普通抑圧の中で自分の人生を見つけるということ


はじめに

お久しぶりです。一般高校生Rと申します。今回は初めての読書感想文ということで第155回芥川賞を受賞した村田沙耶香氏の『コンビニ人間』について感じたことなどをだらだらと書いていこうと思います。
※ネタバレを含みます。

あらすじ

まずは簡単なあらすじから。
主人公である古倉は、幼少期は周りの人と違う、いわゆる「変」な言動を行ってしまう人物でした。しかし彼女はそのことに気づいてからは周りに合わせ、おとなしく過ごすことを選択します。
そして18歳になり、彼女は偶然知ったコンビニでアルバイトを始めます。マニュアル通り指示されたことをこなすことで、今まで世界から異物とされているように感じていた自分が、その仕事をこなす間は世界の部品となることができているように感じ、彼女はそれに心地よさを感じるようになります。
その後18年間アルバイトを続け、36歳で就職も結婚もせずアルバイトをしているという「変」な境遇である彼女は、周りに対して結婚をしている「普通」の人物になるために、白羽という男と同棲を始めることになります。この白羽という人物は「普通」を求める世界に対しての怒りを持ち、それを他人にぶつけるような人物でしたが、彼はその世界から隠れたいという思いが古倉の利害と一致したために同棲を始めます。

「普通」とは何か

作中では度々「普通」という概念に触れる場面があります。主人公は「普通」の人生というものも、コンビニの仕事と同様にマニュアル化されたものと考えています。そして、「普通」であることを周りの人々(すなわち世界)は要求し、そうでない人は理解できない異常なものとして排除される。
また、作中で白羽はこの世界の仕組みについて「縄文時代から変わっていない。価値のない(普通でない)人はムラから追い出される。」としており、多様性を謳っているはずの現代社会はさらにそれが強くなっていることは人々がみな感じていることでもあると僕は思う。

普通抑圧と自分の人生

物語の後半で、主人公は白羽の家族の問題に巻き込まれ、18年間勤めたコンビニを退職することになり、その2週間後、白羽が選んだ会社の面接を受けることになりますが、主人公はその道中に立ち寄ったコンビニで「コンビニの声」を聞き、「コンビニ人間」として生きていくことを決めます。
主人公は最後のシーンで、

「気がついたんです。私は人間である以上にコンビニ店員なんです。人間としていびつでも、たとえ食べて行けなくてのたれ死んでも、そのことから逃れられないんです。私の細胞全部が、コンビニのために存在しているんです」

という発言をしています。これは「普通」であるように世界から要求されるという「普通抑圧」(解説の中村文則氏による)から解放され、自分の人生(あるいは自分そのもの)を見つけたことをよく表していると思います。
周りから求められる「普通」を演じることも大事だと僕は思います。そうすることで家族など大切な人を安心させることができるからです。
しかし、人は自我をもっています。この作品の主人公も作中で「自分には意思がない、変だというならそれを治すための指示がほしい」という旨の発言をしていましたが、最後にははっきりと自分の意志で新しい仕事の面接に行くのを断り、「コンビニ人間」として生きていきたいと言ったのです。
「普通」であれるように自分を殺して生きていくことをずっと続けていくのは不可能なのではないかと僕は思います。しかし、普通抑圧のなかで自己を実現することは難しく、また、自分がこうありたいという理想を見つけることも同様に難しいことです。
作中でも主人公はコンビニを退職してから2週間の間、自分の人生の指針はなんなのかということに悩んでいます。
彼女が「コンビニ人間」という自分を見つけ、その本能に従ったことは、同じように普通抑圧の中で自分がどうありたいのかを探している、あるいは自分の理想を追うことを恐れている人に勇気を与えるのではないでしょうか。


おわりに

今回は『コンビニ人間』について感想を書いてみました。
「普通」というものに縛られず、多様性を認めるのは簡単なことではありません。どこかで他人に自分の「普通」や「常識」を押し付けてしまうことはよくあります。また、他人だけではなく、自分で自分のことを認めることも難しいことだと思います。「これは普通ではない」と考えて自分の気持ちを殺して行動できないこともよくあることだと思います。
『コンビニ人間』はこういった悩みを持つ人に少しの救いを与えてくれる、そんな作品なのではないかと僕は思いました。

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