見出し画像

人生の節目、あるいはコンマについて8

頭をぐるぐると回転させながら、足はXXさんと待ち合わせる駅へと向かう。

電車を乗り継ぎ、とある駅のプラットホームを歩いていた際、僕のiPhoneがまた鳴った。知らない番号からだ。

「もしもし?Hですけど。」

低く抑えられた、昔から聞き馴染みのある声。父親の旧友である、Hさんだった。

Hさんには小さい頃からよくお世話になっていて、僕の初めての海外旅行は、当時彼が滞在していたロサンゼルスだった。およそ1週間弱のあいだ、父と妹と僕を快く家に泊めてくれ(何しろ大きな家だった)、夫妻で様々な場所へ案内してくれた。

某自動車会社の幹部であった彼はその後も南米や豪州への赴任を経た後、国内に戻り、定年がやってくると退職した。カメラとギターが趣味の彼に、いつか僕は使わなくなったエレキ・ギターをプレゼントしたことがある。彼はそのギターを使い、今も僕の両親と時折のバンド演奏を楽しんでいる。

「お父さんから話を聞きました。彼は息子に判断を任せると言っていたけれど...ちゃんと帰ってきなさいね?いま、もしかすると一時の感情で、今は九州へという気持ちがあるかもしれない。でもね、六年間。長期的にみればかならず帰ってきてよかった、となるから。ご家族のことも考えてみて。...君は就職の時にもこんなことがあって、少し心配したんだよ。お節介を許してほしい」

Hさんから僕個人に電話がかかってきたことはおそらく初めてのことだったし、さらに予想もしなかった突然の内容に、僕はまた面食らってしまった。父親がこの電話を依頼したとは考えにくい。きっとHさんは父親との電話の中で偶然今回のことを知り、独断で僕に連絡することを決めたのだろう。

「就職の時」と彼が言及したのは、僕が銀行に就職することを早々に決めておきながら、直前でリクルートという会社に進路を変更したことを指している。当時、父親はその判断についていい顔をしなかったことを思い出す。親の世代的に、あの会社にいい印象がないことはわかっていたけれど...この件について、当時の父親からHさんに話があったということを、僕は9年越しに知ったのだった。

「Hさん、きっと大丈夫です。もう頭は、だいぶ整理がついていますから。今の置かれている立場は、わかっているつもりです」

Hさんとの電話を切ると、僕はふっとため息を吐く。

家族や近しい人達は、心配しているのだ。僕がまた、予想もつかない決定を下すのではないかと。

この医学部進学について、僕は家族と話し合いを重ねて今の状況にいることは前に書いた。ただ振り返ると、僕はこれまで、進路というものを周囲に相談したことがない。

高校の頃に「音楽の専門学校に行きたい」という申し出を却下されて以来、僕は重要と感じた人生の選択を誰かと共有することをやめた。ひとりで考え、結論を下したあと、その確定した事実だけを報告するようになった。先述した就職の際も、会社を辞め音楽活動に専念する時も、そしてその音楽活動を辞める時も、例外なくすべてそうだった。

僕は自分が弱い人間であり、ひと度(たび)誰かの話を聞いてしまえば、その内容に少なからぬ影響を受けてしまうことを知っている。昔読んだ本に、「"他人に流され続けたおかげで幸せになれた"という人はいない」といった一節があり、たしかにと膝を叩いた記憶がある。ともかく、自分で決めたい物事からは他人の考えを敬遠し、そうやってこれまで生きてきたことに気がついた。

家族や周りはそんな自分をよく知っているからこそ、すくなくともHさんはその判断が下される前に、何とか意見を挟んでおきたかったのだろう。そんな想いで電話をかけてきたHさんを思うと、どこか申し訳なさを感じた。

駅の巨大な電光掲示板には、橙・黄・緑からなる文字が何列にもチカチカと点滅し電車の到着予定を告げている。僕の考えは、もうすぐ固まろうとしていた。

(つづく)



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?