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人生の節目、あるいはコンマについて9

「帰ろう」

はっきりと、僕はそう思った。目の前では京都の街並みが、乗車した電車の窓越しに右から左へと流れてゆく。

僕は地元へと戻り、そこで医学生としての生活を始める。それがきっと、僕にとって最善の選択肢。疑いなく、そう感じている自分がいた。気がつけば妹の電話から、小一時間が経つ。突然の衝撃と戸惑いの中からも、自分の心には安堵した感覚が滲み出てきていた。

九州での生活。それは僕の中で、未だ魅力的なものに違いない。これまでろくでもない事を散々やらかしてきた僕が、一切のしがらみを断ち、誰も自分を知らない地で、ただひとり生活を始めるということ。その地で人と人とのつながりを、またゼロから紡ぎ始めていくということ。それは僕にとって、興味の尽きることがない無二の機会だった。

「たとえば休みを使って足を伸ばせば、その街を知ることはできるでしょう?」と言う人がいるかもしれないが、その地を訪れることと、その地で暮らすことはまったく次元の異なる話。「その街に根を張る」ことを決め、暮らしを始めた者にしかわからない、内側からの日常の風景、人々の息遣いというものがかならずあるはずだ。

僕は九州に住まわせてもらう者として、それら"内側"にどっぷりと浸りながら、その時間を自身の血肉へと変えていくことを望んでいた。僕が地元に戻るということは、その機会のすべてを自ら手放すことを意味している。

それでも、僕は帰ろうと思った。

今の僕には、すくなくとも今の選択肢を持つことになった僕には、自分の帰りを待つ人達がたしかにいた。今回の進路は、彼らが本来ずっと望んでいたことであったし、誰より僕自身、何より強く望んでいたことだったのだ。

これまでに経験してきた節目の中で、僕と家族の望みがこれほど重なったのは、もしかすると初めてのことかもしれない。「家族に負担をかけず、安心してもらうこと。」散々迷惑をかけてきた立場として当然のことではあるが、それが僕自身にとっての大きな望みとなっていたことに、自分でも少し驚いた。

XXさんとの待ち合わせには、まだしばらく時間がある。待ち合わせの駅に着くや否や、充電の少なくなったiPhoneを手に取ると、怒涛の電話ラッシュが始まった。

まず家族には帰る旨を伝え(母妹は喜び父は冷静だった)、次に地元の●●大学へと入学の意思を伝える。例の男はやはり何の抑揚もない声で、これを承諾した。

その次に、僕が行くはずだった九州の大学に電話をかける。そこでは入学辞退の旨と、すでに振り込んでいた入学一時金の返金要請をした。奇しくもこの日は、一時金の返金期日だった。

「いっけいさん、の方の大山さんですね?」と言う担当者からの話を聞いて、「ああ、入学者にはもうひとり大山さんがいたのだな」と思う。辞退を謝ると、「大丈夫ですよ」と面倒見よく、その男性は返金手続きの方法を案内してくれた。九州の人は、温かいな。

このやりとりには少し時間がかかり、電話を終えると僕は駅のコンビニへ向かい携帯充電器を買った。バリバリと封を開けて取り出したバッテリーをiPhoneに挿すと、がらんとした駅構内で僕は少し気が重くなる。

下宿することになっていたビルの大家さんへ、電話をかけなければならない。

この初老の男性は、下見の時からずっと僕によくしてくれた。大学から目と鼻の先にあるあの物件は、けして新しく小綺麗なわけではない。けれど、過去この部屋に暮らしていた学生、また今も同じビルに暮らす学生の話を嬉しそうにする大家さんを見て、僕もここでお世話になろうと決めたのだった。父と兄の三人でトラックを着けた時も、(多少驚きながら)ニコニコと迎えてくれたことを思い出す。

僕は地元を離れる際、大家さんに入居する日を伝えていた。「お待ちしていますよ」と応えてくれた彼を思い返すと、ただ申し訳なくて、胸が痛い。いよいよ向かいます、という電話のはずが、まさか入居の解消を申し出ることになるなんて。

「もしもし?」

これまで通り、穏やかな大家さんの声。僕は名前を告げ、今朝の自分の身に起こったことを話し、そして僕の決めたことを伝えた。最後に、謝った。

「そうですか」

大家さんは丸みのある落ち着いた声で話すと、こう続けた。

「でもよかったですね。地元の大学なんですね?それはそちらに行った方がいいですよ。やぁ、おめでとうございます」

僕はその優しさに「ありがとうございます」という言葉を絞り、そしてもう一度謝った。

明日、僕は予定通り九州に向かい、そこで彼と契約を解消する手続きを進めることになる。その後には、あらためて引越し業者の手配などもしなければならないだろう。

生活を始めるための旅路が、別れを告げただ去るためのそれへと変わる。

...こんなことになるとは、誰が想像できたのか。僕はあらためてそう思った。3日前の23時過ぎ、夜行バスに乗り込む自分にこのことを話してみたらなんと言うだろう?考えるまでもなく、「ばかばかしい」と取り合ってもらえなかったに違いない。

それでも、きっとこれが人生なのだ。僕だけでなく、今を生きる誰もが日常にストーリーを携えている。すべての日常は、偶然と奇跡に満ちている。

それは運命なのか、それともただ風に吹かれた結果なのか。そんなことは誰にもわからない。どちらを信じてみたとしても、それは個人の自由だ。

ただどのような考えを持つにしろ、僕らはその日々の連続と、そこで生まれる偶然や奇跡に、ひとつずつ折り合いをつけながら前へ進んでいくことしかできないだろう。それが僕にとって唯ひとつの事実であり、あらためて大切に想う真実だった。

*****

「元気にしてた?」

改札前、時間通りに現れたXXさんは懐かしい笑顔をのぞかせると、僕を洒落たイタリアンレストランへと案内してくれた。予約された席につくと、しばらく他愛のない談笑が続く。XXさんとの思い出話には、いくらでも華が咲いた。

やがて会話も落ち着き、注文した料理がやってくる。少量の水を口に含むと、僕はゆっくりと切り出した。

「XXさん。XXさんに、報告したいことがありまして」

「ん?なに?」

「実はこの度、九州で新しい生活を始めることになりました」

「...え?」

「...と言うことをお話しする予定だったのですが-」


(おわり)


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