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TVアニメ『彼女、お借りします』が投げかけ続ける問題:疑似恋愛商売の深淵と丸谷才一「花柳小説論ノート」の射程

(2023年7月8日追記:過去に執筆した文章を読み返し、一部の表現に反省すべき箇所があったと判断したため、本文に修正を加えました。)

はじめに

性産業におけるサービスの提供者とサービスの受益者の相互の軽蔑の度合いは、たいてい、ぼったくりのブティックに予想されるそれよりもはるかに強力である。
(デヴィッド・グレーバー(酒井隆史/芳賀達彦/森田和樹訳)『ブルシット・ジョブ:クソどうでもいい仕事の理論』岩波書店、2020年、44頁)

 2020年9月、TVアニメ『彼女、お借りします』第1期の放送が終了した。本作に関する評価は賛否両論の様相を呈しているが、本作が雨宮天の代表作として挙げられるべき傑作となったことは否定できないだろう。本作が世に問われたことによって、『モンスター娘のいる日常』(2015年7月期)を雨宮天の代表作の筆頭に挙げることが難しくなり、この予期せぬ上書きに悔しくも清々しい思いでいっぱいの今日此頃である。
 本作の主人公・木ノ下和也は、大学入学早々、生まれて初めてできた彼女に1か月で別れを切り出され、傷心の勢いで「彼女代行サービス」を利用してしまう。初回デートの当日、待ち合わせ場所に現れたのは美貌の「レンタル彼女」・水原千鶴であった。和也が千鶴の美貌に圧倒されつつ利用料金を支払うと、千鶴は「彼女モード」に変貌し、まるで本当の彼女のような立ち振る舞いを見せる。千鶴の「レンタル彼女」としての完璧な演技に軽蔑の念を抱く和也だったが、和也の祖母・和(なごみ)が倒れて病院に搬送された知らせが入り、事態は一変する。「死ぬまでに和也にいい人ができること」を夢見る祖母を安心させるために、そして大学の友人・先輩に見栄を張って、千鶴を本当の彼女として周囲に紹介したことで、和也は引くに引けない状況に追い込まれていく。
 本稿は、本作が「花柳小説」の系譜に属する作品であり、日本文学の密かな主流の正統後継作品とさえ言いうることを示すものである。また、本作から響いてくる暗いエコーに着目することで、物語のifを透視し、本作の危うい魅力の淵源についても明らかにする。

市民社会の欠如と「花柳小説」

 最初に、本作の主題である「レンタル彼女」を考える視角として、「花柳小説」という枠組みを導入する。作家・批評家の丸谷才一「花柳小説論ノート」(1972年)の中で、日本における市民社会の欠如という前提のもと、その欠如を補綴するものとして花柳界を位置づけている。丸谷はまず、日本文学史における明治維新前後の分断を問題視し、それを克服するために「花柳小説」という枠組みを持ち出してくる。

日本文学史の最大の不幸の一つは明治維新によつて思ひ切りよく二分されてゐることである。維新以前の、千年以上にわたる長い部分は国文学史と呼ばれ、維新以後のわづか百年は近代日本文学史と名づけられて、名称まで違ふくらゐ両者は異質のものとされてゐる。
(丸谷才一「花柳小説論ノート」『丸谷才一批評集 第四巻 近代小説のために』文藝春秋、1996年、31頁)

しかし日本文学史が一つの連続体である以上、新旧二つの文学史を結びつけるための手がかりはきつとあるにちがひない。さう考へてあれこれと探すときわたしの心におのづから浮んで来るのは、為永春水から永井荷風を経て吉行淳之介へと至る花柳小説の系譜である。(同書33頁)

 上記のように、丸谷は「花柳小説」をかすがいとした新たな日本文学史を構想している。丸谷はこれ以上「花柳小説」を明確に定義していないが、機能面から「花柳小説」の意義にアプローチしているので、少し長くなるが引用を行う。

もともと小説といふのは世態人情を描くものだが、その目的には、ちようど西洋では上流社会に舞台をしつらへるのが最も好都合だつたと同じやうに、いやそれよりももつと、近代日本では花柳界が適してゐた……。これは一般には案外、意識されてゐないことかもしれないが、市民社会が成熟してゐない近代日本では、作家は小説の舞台の設定にはすこぶる難渋することになる。……小説が開かれた社会の叙事詩であるとすれば、閉された社会の叙事詩人である一群の人々は、開かれた社会に似てゐる何かを探さねばならなかつた。そして彼らは花柳界においてそれを見出だしたのである。
 すなはち花柳界は贋の市民社会といふことになるかもしれない。そこでならば、これもまた究極はまがひものにすぎないのだけれどもとにかく恋愛の自由があつたし、さまざまの階層、さまざまの職業の男たちが語りあふことができ、そのかたはらには女たちがゐた。そして、結局は見せかけにすぎないにしても、一種の女性崇拝、一種の男女平等さへあるやうな仕掛けになつてゐる。なかんづくすばらしいのは、様式化され洗練された風俗があることで、このため花柳小説には小説が本来持つてゐなければならない美的な情趣が添へやすいことになつたのである。(同書34-35頁、強調は筆者による)

 丸谷は自身が編者を務めた『花柳小説名作選』(集英社文庫、1980年)の対談解説においても、同様の主張をいっそう平易な表現で繰り返している。

そういう女〔筆者注:芸者、女郎、女給、ダンサーなど〕と、そういう女たちの世界、およびそこに出没する男たち……を扱った小説が、明治以後の日本文学に、たいへん多いんですね。ある意味では、日本の近代文学の主流であるとさえいえると、かねがね思っていました。
 ところがそういう種類の小説が無視されている。低い位置におかれている。これは一種の偽善的な風潮だと思うんですね。
(野口冨士男/丸谷才一「〈対談解説〉花柳小説とは何か」丸谷才一編『花柳小説名作選』集英社文庫、1980年、409頁)

いろいろな種類の人間が出会ったり別れたり、愛したり憎んだりすることによってできる模様を書いて、それでなにかを表現する、というのがごく普通の西洋風の小説の考え方だろうと思います。
 ところが明治以後の日本の社会では、身分や階級、職業の違いなどにあまり関係のない市民社会というものができなかったせいで、男と男でも、なかなか自由に出会うことがなかった。まして男と女となると、出会う機会が、まことに少ない。娘たちは家の外へ出してもらえないし、奥さんもよその男と話をすることはめったにない。そういう種類のたいへん窮屈な、洗練されていない社会であった。
 そんなふうに垣根が幾つもあるような、洗練度の低い社会で小説を書くのは、非常に厄介なことだったと思うんですが、そういうなかで、人間と人間がわりに自由な感じで出会うことができる場所がわずかにあって、それが花柳界だったんですね。(同書412-413頁、強調は筆者による)

 ここで重要なのは、丸谷が芸者や女郎のみならず、女給やダンサーも花柳界の女性に含むような幅の広い(悪く言えば散漫な)議論をしているということだ。丸谷は「花柳小説論ノート」の中でも女給に言及しており、女給を扱った小説を「新花柳小説」と苦し紛れに呼んでいる。

荷風を苦しめた困難のうち最も大きいのは、おそらく、女給とはいつたい玄人なのか素人なのか判らぬといふことだつたはずである。女給には藝者と違つて、完成された約束事がないし、その風俗は不安定で、未熟で、雑駁であつた。これは、新花柳小説とも言ふべきこの形式を根底からおびやかすに足る悪条件と言はなければならない。酒場は文明と様式美を持つてゐないのである。(丸谷「花柳小説論ノート」『丸谷才一批評集 第四巻』、38頁)

女給ないしホステスを扱ふ新花柳小説は、風俗としての完成度が決定的に低いといふ悪条件にもかかはらず、花柳小説の伝統を見えがくれに受けつぐことになつた。……様式的な洗練といふ点ではすこぶる具合が悪くなつた反面、大勢の男女を一堂に会せしめるといふ点や、一種の女性崇拝、一種の対等な男女関係といふ点では、かへつてこのほうが好都合だといふこともあつた。(同書39頁)

 丸谷が女給やダンサーといった「完成された約束事がない」属性までも花柳界の女性に含めてくれたおかげで、「レンタル彼女」を扱った本作についても「花柳小説」の枠組みで検討する道筋が拓かれた。デート料金(指名料+出張料)を支払うことで、相手の時間を一定時間独占することができるというシステムは、まさに擬似的な男女平等の恋愛と看做すことができるし、和也が千鶴をたった一回のつもりでレンタルしたことを契機に人間関係が展開していくというプロットも、「レンタル彼女」を社交の結節点として機能させていると言うことができる。
 このように本作は丸谷の議論に親和的であるが、自由な男女交際のハードルが高いという点のみをもって、日本における市民社会の欠如を主張する丸谷の議論は一面的・粗雑に過ぎるとの謗りは免れないだろう。しかし、日本文学史上、花街柳巷(及びその亜種)を舞台とした作品が繰り返し現れてきたという事実は否定できないため、本稿では「市民社会」の用語法の適否については立ち入らず、本作を「花柳小説」の伝統を承継した作品と位置づけるにとどめる(これを「新々花柳」と呼ぶか否かは読者に委ねる)。いずれにせよ、瀰漫する純愛志向に一石を投じている点で、本作は恋愛アニメ史上に独特の地歩を占めていると言うことができる。なお、一見純愛志向に対立するように思われる「寝取られ」というジャンルも、パートナーの存在を前提としている点で純愛志向のヴァリアントに過ぎないことには注意を要する。

物語のif:本作の周辺に広がる「花柳小説」の深淵

 続いて、本作から響いてくる暗いエコーに着目することで、「花柳小説」の系譜に属する本作の魅力を具体的に掘り下げていくことにする。その過程で、本作がいくつかの深淵の際にあることが明らかになるだろう。
 まず、作品全体に関わる点だが、千鶴は源氏名で「レンタル彼女」をしていることを、祖母・一ノ瀬小百合は勿論、同じ大学に通う友人にも明かせない。友人も千鶴の「秘密主義」には干渉しようとせず、私生活に対して突っ込んだ質問はしない。そうすると、千鶴は自分を指名し続ける和也――大学が同じで、住まいがアパートの隣室で、本当の彼女という嘘を共有する客――とは、一段深い関係に入っているということになる。嘘を共有する弱い二人は、他の誰にも言えないことを思わず打ち明け合う。二人の間に流れる時間が金銭の対価として与えられたものだとしても、そこには却って飾らない「本当」がある。
 千鶴は和也に、自分が女優志望であることを明かさざるをえなくなる。千鶴がアクターズスクールの学費の資金繰りのために、演技の練習を兼ねて「レンタル彼女」をやっているという設定は、大岡昇平「黒髪」(1961年)を思わせる。主人公の久子は女優を志望しており、一時的にダンサーという花柳界まがいのところにも籍を置く。しかし、久子は結局女優になることはできず、何人もの男を遍歴した挙句、尼寺に流れ着いて物語は終わる。こうした物語のifが既に存在している以上、本作からも、千鶴は本当にデビューできるのか、女優として自己実現を果たせるのかという暗いエコーが静かに響いてくる。
 和也と千鶴の関係の行き着く先を示唆する先行事例は、大岡昇平「黒髪」だけではない。作品の全体から部分へと目を動かしながら、その他のエコーにも耳を傾けてみよう。本作の物語が大きく動くのは第5話だ。和也は「レンタル彼女」という時限のワリキリに本気になっていること、「バーチャルで、仮初めで、本当に好きになるなんて許されない相手」である千鶴に「ガチ恋」していることを自覚し、「とっくに返却不可」な自分の思いを独白する。キャストに「ガチ恋」すると直ちに問題になるのが、他の客との関係である。既に述べた通り、疑似恋愛商売においては金銭を支払うことでキャストとの時間を独占できるという形式的平等がある。だからこそ、第6話で「顧客は対価に見合ったサービスを受ける権利がある」「他のお客さんの手前もあるから」という千鶴の台詞が示唆するように、「レンタル彼女」には特定の情夫がいてはならないのである。こうして、「ガチ恋」した客とキャストの間には厳しい緊張関係が生じる。本作の根幹に関わるこの点は、第8話で明確に定式化される。他の男と千鶴の逢瀬を目撃してしまった和也は、「水原千鶴に彼氏はいるのか」という疑念に駆られ、一日中千鶴を付け回してしまう。ストーカーと化した和也に対し、千鶴は逢瀬の相手を「役者仲間」と紹介する。和也へのクリスマスプレゼント選びを、「役者仲間」に手伝ってもらっていたというのだ。ここでは、泉鏡花『黒百合』(1898年)における「藝妓の兄さん、後家の後見、和尚の姪にて候ものは、油断がならぬ」(『鏡花全集 巻四』岩波書店、1941年、270頁。漢字は新字体に直した。以下同様)という一節が示唆するように、果たして本当にただの「役者仲間」なのか、という含みは残る。千鶴の説明に安心している和也はまだ甘いのである。このエコーも滑稽さと哀れさが同居していて趣深い。
 そして、ストーカーという要素に関連して取り上げたいのが、近松秋江の連作小説「黒髪」「狂乱」「霜凍る宵」(通称『黒髪』三部作、いずれも1922年)である。あけすけで精密な心情・情景描写から「痴情小説」として名高いこの作品は、京都の娼婦(おそらく公娼)に入れ揚げた男の悲喜劇だ。四年に亘って娼婦に貢ぎ続けた男(秋江自身)が、女のつれない態度や情夫の影に嫉妬・煩悶し、費やした金銭の甲斐無さを知って逆上するも、どうしても女のことが思い切れず、執拗に女を付け回すようになっていく様子を丹念に描いている。

「あの、喰ひ付いてやりたいほど好きでたまらない女は、しまひには本当に自分の物になるのか知らん。いつまでこんな不安な悩ましい思ひに責め苛まされてゐなければならぬのであらう。もう何時までもこんな苦しい思ひをさせられてゐないで早く安らかな気持になりたい。」
……その自分の気持には、ひとりでに眼に涙のにじむやうな悲しい憤りの感情が込み上げてきた。それは卑しい稼業の女に飽くまでも愛着してゐる、その感情が十分満足されないといふばかりでなく、どうして此方のこの熱愛する感情がすこしでも霊感あるものならば、それが女の胸に伝はつて、もつと、はきはきしさうなのに、彼女はいつも同じように悠暢であつた。
(近松秋江『黒髪 他二篇』岩波文庫、1952年、24-25頁)

二人の男の写真は仏壇の中から発見されたのである。それが、もう現世に居ない人間であることは、ひとりでに分つてゐるのだが、かうして、死んだ後までも彼らが永へに、彼女の胸に懐かしい思出の影像となつて留まつてゐると思へば、やつぱり、私は、捕捉することの出来ないやうな、変な嫉妬を感じずにはゐられなかつた。そして今、何人にも妨げられないで、彼女を自分ひとりの所有にして楽しんでゐる限りなき歓びが、その為に忽ち索然として、生命にも換へ難い大切な宝がつまらない物のやうな気持になつた。
(同書48頁)

 男は四年に亘って、女の前借金を清算して女を自分のものとするため、東京から京都の女に送金し続けてきた。しかし、四年が経過しても女の未清算残高が一向に減っていないことが発覚し、男は激昂して説教を始める。

「ねえ、私の送つて上げた金は一体何に使つたの、……そりや、こんな着類をこしらへるにも入つたらうが、私自身にも欲しい物や買ひたいものが幾らもあるのを、そんな物より何より私には、唯々お前と云ふ者が欲しい為に、出来ぬ中から私の力に能ふ限りのことをして来たのぢやないか。まとまつてゐないといつても、二百円三百円と纏つた金を送つたこともある。それは、あんたも覚えてゐるはずだ。私にとつては血の出るやうなその金を、これと云つて使ひ途のわからぬやうなことに使つて、今になつてもまだそんなに借金がある。……」(同書52頁)

 一気にまくしたてる男に対して、女は「わたし何も、引いてからあんたはんのところへ行く約束した覚えありまへん。」「あんたはんが、たゞ自分ひとりでさうお思ひやしたのどすやろ。」「そない金々て、お金のことをいはんとおいとくれやす。」などと言い放つ。男は女に対する憤怒と、女との破局だけは避けたいという臆病心で相半ばして、ひたすら醜態を晒し続ける。

「いや、私は金が返してほしいのぢやない。今お前がいふやうに、私がこれまで為たことが、よう解つてゐるなら、少しも早くその商売を止めてもらひたい。」
女はそれに対して確答を与へやうとはしないで、
「お金をお返しさへすりや、あんたはんに、そんな心配してもらはんかてよろしいやろ。」
私の静まりかけてゐる心は又しても女の云ひやうで激してくるのであつた。
「お前は、お金をどれだけか私に戻しさへすれば、それで私と今までの事が済むと思つてゐるのか。」(同書54-55頁)

 口論の末、その日は一旦解散となったが、それから暫くして女は姿をくらましてしまう。女が自分に何も言わずに去ったことで、男の執念はさらに燃え上がることになる。男は探偵さながらの執拗さで、女とその親類縁者を求めて、女の勤める廓から山科・南山城の村々に至るまで、戸籍と照合しながら虱潰しに調査していく。その過程で女の母親、法律職、近隣住民とトラブルに発展していく一連の流れは滑稽ながらも恐ろしい。こうした男の行動・思考パターンはまさに「非モテコミット」であるが、以下に引用するように自己正当化に終始し、反省の契機がないのは実におぞましく、同性として興味をそそられる。

それにしても私のこれほど血の涙の出るほどの胸の中がどうして彼女の胸に徹せぬのであらう。私は自分で自分の事を思つてみても昔の物語や浄瑠璃などにある人間ならばともかくも今の世に凡そ私くらゐ真情を傾け尽して女を思ひ詰めた男があるであらうか……。(同書171頁)

 本作の主人公・和也についても、いつでもこのような自己正当化、反省の欠如に陥りかねないと言わなければならない。街で見かけた千鶴をつい尾行してしまい、「役者仲間」との映画談義を盗み聞きしたり、「役者仲間」を男子トイレでつぶさに観察したりする和也の姿は、『黒髪』三部作の前段階のようにも感じられ、それだけに秋江の先進性が際立つ。なお、大杉重男のブログ記事によると、秋江の次女は父が「ストーカー」と呼ばれることに大変憤っていたとのことだが、少なくとも『黒髪』三部作が「ストーカー」を扱った現代劇に対する試金石となることは否定できないだろう。

 さて、近松秋江(本名・徳田浩司)はそのペンネームを近松門左衛門から取っており、近松門左衛門を愛読していたことで知られるが、近松秋江、そしてオマージュの対象たる近松門左衛門には重要なカウンターパートが存在している。それは刃傷沙汰に発展する作品群であり、本作から響いてくる最も暗いエコーに関わっている。『黒髪』三部作にも、男が自身を近松浄瑠璃の主人公(『心中天の網島』の治兵衛や『冥途の飛脚』の忠兵衛)に準えて悦に入るシーンが散見される。だからこそ、『黒髪』三部作は自分のものにならない女や周囲の人間を惨殺するという奈落へ落ちることはなく、ぎりぎりのところで踏みとどまっている。
 男が痴情のもつれから、疑似恋愛商売を営む女を惨殺する作品としては、浄瑠璃『国言詢音頭』(天明8(1788)年5月初演)歌舞伎『籠釣瓶花街酔醒』(1888年5月初演)の二作品がよく知られている。『国言詢音頭』では、大坂堂島の蔵屋敷に勤める薩摩藩士・八柴初右衛門が曾根崎新地の遊女・菊野ほか、合計五人を斬殺する。菊野に入れ揚げる初右衛門は、ある日菊野が間夫に宛てた恋文を目にしてしまう。そこには「野暮な客」である初右衛門への悪口が書き連ねられており、失意の初右衛門は逆上する。深夜になり、菊野の寝泊まりする屋敷へ忍び込んだ初右衛門は「粕売女」の菊野の首を切断して、血染めの唇をねぶり廻して念晴らしをするのだった。『籠釣瓶花街酔醒』では、豪農の子息で絹商人を営むあばた顔の佐野次郎左衛門が吉原の花魁・八ツ橋を斬殺する。次郎左衛門は商用で江戸に出たとき、吉原で八ツ橋を見初め、身請けしようと通い詰めるようになる。しかし、八ツ橋には以前からの間夫がおり、身請けの話に機嫌を損ねた間夫から客を断るよう迫られた八ツ橋は、満座の中で次郎左衛門に愛想尽かしをする。仲間の前で大恥をかかされた次郎左衛門は失意のうちに帰国するが、四か月後に江戸へ再来して八ツ橋を斬殺するのだった。なお、両作品はいずれも実際に起こった事件に取材したものであり、近年小金井で起こったシンガーソングライター殺人未遂事件(2016年5月)などを思うにつけても、「ストーカー」や「ガチ恋」の行き着く一つの極としてアクチュアルであり続けている。
 このように「ガチ恋」を起点として見ていくと、本作の周辺には、女の挫折、情夫の影、徒労に終わる男の蕩尽、そして女の惨殺といった深淵が広がっていることが分かる。その深き地の底から呻き声のように響いてくる暗いエコーは、我々を戦慄させるとともに、却って刺戟的な趣で深淵へと誘ってくる。本作の魅力は、いわば表面張力の働く液体のように、深淵の際で持ちこたえるスリルにあると言うことができる。

「レンタル彼女」という役柄の難しさ

 ここまで述べてきた危うい魅力を体現するのが、声優であることは言うまでもない。そして、本作の聴きどころは何をおいても、千鶴を演じる雨宮天の獅子奮迅の活躍だ。千鶴という役柄は考えれば考えるほど重層的で難しい。女優志望の「レンタル彼女」という役柄を、声優が仕事として務めるという構図は大変ややこしく、雨宮天がいま何になりきっているのか、千鶴の本心は一体どこにあるのか、視聴者が把握しきることはほぼ不可能だ。役者の側にとっても、役柄と完全に合一することができない以上、千鶴の振り幅を表現する基準点を固めるのは至難の業である。しかしそれだけに、これほどやりがいのある仕事もなかなかない。
 第9話で、千鶴は「あなた、私のこと、好き?」と和也を問い詰め、和也が照れ隠しに否定すると、「だよね……あなたに気持ちがあるとなると話が変わってくるもの。節度を持って大人の付き合いをしましょう」と突き放す。第10話では、他の客(和也の友人・栗林)に対して「私、男の人、好きですよ」「私たちにできることは本当の彼女よりは少ないけど、傷口に貼る絆創膏くらいにはなりたいなって」と微笑みかける。千鶴は「彼女モード」に入っている時でさえ、当然ながら「レンタル彼女」のルールに縛られている。しかし、「そうはいっても、ないだろ? 客に本気になるなんて」と問う栗林に対して、千鶴が逡巡の末に出す答えは「そう……だね……。どう……かな?」なのだ。限りなくゼロに近くとも、客と懇ろになる可能性を頭ごなしに否定はしない。ルール違反を匂わせることは、営業上マイナスなようでいて、「ガチ恋」の情念を燃え上がらせる発火剤にもなる。このように客の間にたゆたう千鶴の基準点を、雨宮天は野暮ったさに置いている。それにより、婀娜っぽくない、丸谷の表現を借りれば「玄人なのか素人なのか判らぬ」魅力が溢れ出し、千鶴が女子大生だという設定にも説得力が備わってくる。本作最大の功労者は、雨宮天であると言うほかない。
 とはいえ、本作は和也と千鶴の一対一の関係に終わらない構成を取っており、複数のヒロインが主人公を取り合うラブコメとしても成立している。この構成は配役の妙によっても支えられているため、他の出演者についても少しだけ触れておく。
 和也の「元彼女」である七海麻美を演じる悠木碧は、「さすがに感」のある掻き回しで安定した圧をかけてくる。麻美は、和也と別れた後も思わせぶりな態度を続け、和也に他のヒロインが近づくや、「ぜってー別れさす」と裏アカウントに投稿するような陰湿な役柄だ。悠木碧はアニメイトタイムズに掲載された雨宮天との対談記事(2020年7月9日公開)の中で、麻美が自分の対極にある女性であるという認識を示しているが、この距離感(あるいは知性)が麻美を却って毒々しく際立たせているのは想像に難くない。

麻美は絶対に負けない女の子ですね。千鶴が真っ向勝負で白黒ハッキリさせるタイプだとしたら、彼女は心理戦で全てをグレーにしてしまう。私自身、白黒ハッキリさせないと気持ち悪いし、オブラートに包むことが苦手ということもあり、私のなれなかった類の女性だと感じました。
ただ、麻美は裏表が激しく、ラスボスのような描かれ方をしていますが、自分を偽って生きているという度合いで言うと、レンタル彼女たちと同じなのではないでしょうか。本作を楽しむにあたって、その点をどう捉えるのかが大事だと思います。

 「レンタル彼女」から本当の彼女への飛翔を望む更科瑠夏を演じる東山奈央は、主人公に尽くす女の子を抑えめに仕上げている。瑠夏は徐脈を患っており、心拍数を上げてくれる体験を求めて「レンタル彼女」を始めた。そして、初めて自分をドキドキさせた和也に惚れ込み、本当の彼女に立候補する。表面的に見れば、瑠夏は積極的な後輩のような役柄だが、ここで東山奈央が抑えめのトーンを徹底しているのは流石に巧く、「男の理想」を煮詰めたような「いかにも感」で視聴者が胸焼けするのを防いでいる。主人公を一方的に好いてくれる女の子の存在は、本作の危うい魅力をオブラートに包み、大衆受けを喚起する重要な要素であるが、雨宮天から主旋律を完全に奪ってしまえば本作の核心は崩壊してしまう。東山奈央の弁えた仕事ぶりは、本作の構造を読みきったものとして高く評価できる。
 そしてもちろん、主人公の和也を演じる堀江瞬の功績も大きい。雨宮天は前掲対談記事の中で、役作りの当初は和也へのイライラが止まらなかったが、収録現場で堀江瞬が演じる段になって、和也への苦手意識が和らいだと述べている。

私は千鶴の立場で読んでいたこともあって、前半は和也へのイライラが止まらなくて!……千鶴に頼らない決心を何回したんだと! 甘えっぱなしで情けないったら……もう悪口が止まらない(笑)。いちいちみんなにドキドキするところとか、「しっかりしろよ!!」と怒っていました(笑)。

でも、アニメでは堀江瞬さんが演じることで、苦手意識が少し和らいだ気がします。「この人(和也)も必死なんだな」と、頑張っている感が伝わって(笑)。

 堀江瞬の力によって、和也という役柄が弱毒化されたのは確かであろう。堀江瞬の主演といえば、『デスマーチからはじまる異世界狂想曲』(2018年1月期)のサトゥー役が記憶に新しいが、引き続き新世代のナヨ感はこれだと言いたくなる好演だ。端的に言って、堀江瞬の声で喋る和也は気持ち悪くなく、性欲や邪念を感じさせない。劇中で何度も繰り返される自慰行為のシーンですら、迸るまでのボルテージの上昇ではなく、ピークアウトの自己嫌悪に焦点を合わせる調整がなされており、脂汗の滴るような臭みはない。雨宮天が前掲対談記事の中で「千鶴は和也にとって男前の師匠ですからね」と述べていることからも明らかなように、本作を牽引するのは和也ではなく千鶴である。あたかも大坂の旦那と御寮さんのような二人の関係に説得力を与える上で、堀江瞬の醸し出す巻き込まれ感は絶妙であった。堀江瞬の「ならでは感」によって臭みが取れた本作は、「花柳小説」の初心者から上級者に至るまで幅広く唸らせる声優アニメとして、今後も語り継がれるべきであろう。

おわりに

 本作は、日本において疑似恋愛商売が未だに大きな存在感を持っているという問題を投げかけ続けている。有償の男女関係は、時代によって名称や形態を変えながら、現代まで生き残ってきた。そしてそれゆえに、リアリティ(モノとしての現実)を切り取る作用を持つ文藝は、この不安定な関係を主題とし続けてきた。丸谷「花柳小説論ノート」の発表から約50年が経過した現在も、丸谷の提唱する「花柳小説」という枠組みは清新さを失っていない。いや、むしろ価値観がアップデートされたと信じられている現代だからこそ、鋭利に日本社会の歪みを切り出してきて、我々を苛むのである。
 とはいえ、疑似恋愛商売の深淵に引きずり込まれる男性の姿を活写する「花柳小説」は、その大半が男性の作家によって、すなわち女性を買う側の視点から書かれているため、制度上・事実上隷属させられる女性の存在は所与のものとなっており、男性優位の構造を問い直し再配置するような効果は持ちえない。そこで比較対象として、宇佐見りん『推し、燃ゆ』(河出書房新社、2020年)のような、男性アイドルに入れ揚げる女性ファンの破滅を描く作品は注目に値するが、この系統の作品が「花柳小説」との関係でどのような位置を占めるのかについては、いかんせん本稿の主題を外れるため別稿を期したい。
 最後に、近年のリアリティとの接点を探ってみると、真っ先に思い出されるのは、出会い系サイトを通じて知り合った女性に金銭を渡す「自由恋愛」に勤しんだ元新潟県知事の例だろう。有償の男女関係が政治家にすら浸透している事実は、「贋の市民社会」として花柳界を位置づける丸谷の議論が、用語法の難はあれど一定の妥当性を有していることを示唆している。ここで改めて秋江の『黒髪』三部作に立ち返ると、元舞妓の老婆が口にした以下の一節は、主人公の男を貫通して、我々に向けられたかいちょくとすら見えてくる。これは、本作の放つ鈍い輝きに眩惑されたとき、常に立ち返るべき金言ではないだろうか。

「……向うは人を騙さにや商売が成り立ちまへん。それを知つて騙されるのは此方の不覚。それを又騙されんやうでは、遊びに往ても面白うない。……」(近松秋江『黒髪 他二篇』、139頁)

参考文献(2022年1月12日追記)

『鏡花全集 巻四』岩波書店、1941年(「黒百合」を収録)。

『大岡昇平全集 3』筑摩書房、1994年(「黒髪」を収録)。

近松秋江『黒髪 他二篇』岩波文庫、1952年(「黒髪」「狂乱」「霜凍る宵」を収録)。

丸谷才一編『花柳小説名作選』集英社文庫、1980年。

『丸谷才一批評集 第四巻 近代小説のために』文藝春秋、1996年(「花柳小説論ノート」を収録)。

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