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きっと何者かになれる私たち 〜「10年先を見据えた発達障がいエンジニアの生存戦略」というタイトルで発表してきました〜

発表してきました

2022年2月18日(金)に Developers Summit 2022 で「10年先を見据えた発達障がいエンジニアの生存戦略」というタイトルで講演してきました。

私は広汎性発達障害という診断をDSM-4の時に受けていますが、今改めて考えるとADHD要素の強い人だと思っています。その診断を受けたのは社会に出た2007年で、それまではいろんな人に迷惑をかけつつ苦労してきた人生だったと覚えています。

今回、発表のタイトルに「生存戦略」というワードを入れたのは明らかに「輪るピングドラム」の影響です。奇しくも、私の名字も「高倉」ですが、「輪るピングドラム」はいろいろ考えさせられる作品でした。とりわけ、「きっと何者にもなれない」というワードは「誰かにとってかけがえのない存在になれなかったこと」なのだなと思っています。その、「誰かにとってかけがえのない存在」って何でしょうか。そのひとつに「生まれてくる子どもの親になること」も含まれているのかな、と思いました。

発表をする事になったきっかけ

今回の Developers Summit 2022 の前には女性エンジニアにフォーカスした Women Developers Summit というイベントがありました。現在、ダイバーシティが注目されていますが、どうもダイバーシティというと女性活用が注目されがちで、もう一つのダイバーシティとしての障がい者雇用にスポットライトを当ててみようと応募したのがきっかけでした。

しかし、当時はまさかロシアによるウクライナ侵攻が起きるとは思ってもいませんでした。それに対し、私は抗議文となる記事を書きました。

その中で、私が伝えたい気持ちは次の一文です。

私は、注意欠陥多動性障がいおよび自閉スペクトラム障がいを持ち「精神障害者保健福祉手帳」を発行されている発達障がい者でもあり、ナチスが障がい者に行ってきた蛮行のことも知っています。ナチス治下のドイツでは、障がい者は「生きるに値しない命」とされ、多くの障がい者が「処分」されてしまいました。おそらく、私のその場にいたら「生きるに値しない命」として「処分」されていたことでしょう。だからこそ、ナチスの蛮行を是とすることは決してできません。

「Statement of Protest Against Putin's Invasion of Ukraine」より

このホロコーストでは多くのユダヤ人のみならず、多くのロマや多くの障がい者、多くのLGBTの人たちの人生が失われてしまったのです。私は、日々流れてくるウクライナからのニュースに心を痛めてしまいました。

それだけではありません。世の中には様々な対立も深まっています。例えば、SNSにおける「オタク」と「フェミニスト」の論戦です。お互いが相手のことを全否定し、共感もせずにただただ憎しみあっている状態に、私は半ば疲れかけています。もうちょっと謙虚になって相手を尊敬し、信頼して対話することができれば、今の状況は違ったものになっていたかもしれません。私もかつては「オタク」側として2010年の東京都青少年健全育成条例改定問題に関わっていましたが、その時感じたのが「敵を作るな、味方を作れ」ということです。しかし、今、SNSで繰り広げられていることは敵を作るばかりで傲慢になり、相手を徹底的に論破しようとしたり、憎しみのあまり怒りにまみれている世界です。これでは、プーチン・ロシアとまるっきり変わりません。相手の痛みを理解し、分かち合うことができればこんなことにはならなかったんだと思っています。それをふまえて言えば、「輪るピングドラム」も痛みを分かち合い、そして赦し合うという物語だと思います。

でも、この「悲しみと憎しみばかりを繰り返す、救いようのない世界」でよいのでしょうか。私はそう思いません。「魔法少女まどか☆マギカ」の12話には、以下のような台詞があります。

希望を抱くのが間違いだなんて言われたら、私、そんなのは違うって。何度でもそう言い返せます。きっといつまでも言い張れます。

「魔法少女まどか☆マギカ」12話、鹿目まどかの台詞

そして、先ほどの言葉に対し、先輩魔法少女のマミさんは次のような言葉をまどかに返しています。

あなたは希望を叶えるんじゃない。あなた自身が希望になるのよ。私達、全ての希望に……。

「魔法少女まどか☆マギカ」12話、巴マミの台詞

この言葉を受け取ってから今考えてみると、私は生きて、エンジニアとして活躍しつつ、様々なことで「表現」を遺していくことが大事なのかなと思っています。自分に対して謙虚になり、相手を尊敬し受け入れ、信頼して「味方」として共に繁栄していくこと、それが私の使命なのではないかと思っています。

僕たちの愛も、僕たちの罰も、みんな分け合うんだ。

「輪るピングドラム」24話、高倉晶馬の台詞

今だから考えてみると、この言葉の重みが分かります。悲しいこともつらいことも、楽しいこともうれしいことも分かち合うことが大事なんだと思います。このことに関して、『落ちこんだら 正教会司祭の処方箋171』という本において、ギリシャ正教会アメリカ大主教区の司祭であったアントニー・M・コニアリス神父は以下のように述べています。

127 誰かに話せ
自分自身への語りかけに加え、友人を見つけ出して、自分の落ちこみを彼らと分かち合ってもらいましょう。大切なのは落ちこみを誰かに話すこと。表現されないままでは絶望は、最後には肉体の病として表現されてしまいます。「落ちこみ」(depression)脱出の最良の道は「表現」(expression)です。昔から、悪性腫瘍は生物学的に体験される絶望、細胞レベルで表現される絶望と呼ばれています。
分かち合われた喜びは二倍になりますが、分かち合われた悲しみは半分になります。神であるイエスでさえ、弟子たちとの分かち合いが必要でした。ゲッセマネの園で弟子たちは、誰一人目覚めておれませんでした。見捨てられたイエスは、ひどく意気阻喪しました。主の苦悩を分かち合う者は一人もいませんでした。人には人が必要です。
だからこそ、他の人々と共にいるのはとても大切なのです。これが「教会」のより深い意味です。教会は「丸屋根や尖塔が乗っかった煉瓦造りの建物」以上のものです。教会は人々の集まり、「神の民」の集まりです。あがなわれた共同体、キリストのからだ、キリストを信じる仲間、キリストにある兄弟姉妹、互いに支え合い、愛し、分かち合い、耳を傾け合う民です。
『宝島』を書いたロバート・ルイス・スティーブンソンは日記にこう記しました。
「今日は教会に行った。憂鬱は晴れた」。
そこでは、一人が傷つけばみんなが痛みます。互いが依存し、互いが必要です。悲しみであれ、落ちこみであれ、何であれ、重荷はすすんで分かち合われます。精神的に「引き潮」になったら、多くの人がそうするように、遠慮なく司祭の所に行きましょう。それは司祭の職務の一部です。いえ、司祭だけのものではありません。互いに耳を傾け合うことは信徒すべての者のつとめでもあります。
何度も私は人々がこう言うのを聞きました。「神父さん、普通ならこんなことは自分一人で切り抜けられるんですが、どうやら今度は誰かに話さなければ前へ進めない所に立っているようです」。
忠実な友は人生の良薬です。

アントニー・M・コニアリス 著、松島雄一 訳『落ちこんだら 正教会司祭の処方箋171』p215〜216より

実に、分かち合うことが大事なのです。これこそ、「ピングドラム」じゃないですか。私は様々なオープンソースコミュニティなどのITコミュニティに参加してきましたが、コミュニティの中にいることこそ、私にとって何よりの糧だったと思っています。

コミュニティとコミュニケーション、ふたたび

そして、「コミュニティ」も「コミュニケーション」も、元々は「分かち合う」という言葉から派生した単語です。私は発達障がい者にしてはコミュニケーションはできる方だと思っていますが、それ故にアジャイル的なコミュニケーションを押しつけようとしてしまいました。発達障がい者の中で、アジャイルコミュニケーションに適応できる人は少ないと思います。私は、その現実に気付いていなかったのです。そこは、相手とそのコミュニケーション方法を尊重した上でじっくり対話していくしかなかったのです。そこは、私の失敗だったと思っています。

まとめ

今回登壇できて、本当によかったと思っております。
今回書き足りなかった「コミュニティとコミュニケーション」、および「輪るピングドラム」に関する考察については今夏に行われるコミックマーケット100目指して、いろいろ書かなければならないと思っています。
そして、今回発表したことが私の糧となることを心から祈っております。

謝辞

最後に、今回の発表の機会をくださった Developers Summit 2022のスタッフの皆様、そして今回の発表に快諾していただいた上司の皆様、そして会場で私と出会えた全ての人に感謝の意を伝えつつ、この記事をセルフアンサーとさせてください。
皆様、ありがとうございました。

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