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理解度を測るすべ

他者のある物事の理解を測るために「テスト」というものが存在すると思うのですが、その「物事を理解しているかを測るすべ」もまたどのように理解すれば良いかということを考えることができます。つまりテストは何を見るためにどのように作られているのか、ということです。今回は自身のテスト作成の経験からお話を進めていこうと思います。

例えば "china(チャイナ)" という文字を見ると、ほぼ世界中の人がそれは「中国」を指す、ということが分かります。これがもし「中国という国名を英語でなんと言うか」ということをテストするのであれば、これは中学生の英語テストです。

しかし「PRC」という文字列を見たとき、それが「中華人民共和国People's Republic of China」を指すのだということがわかる人というのは中学生になると5%を割ってきます。製造業を除くと、大人でも知っているか知っていないか、と認識度にバラつきが出てきます。中国という国は知っているし、chinaは中国だとわかるのに、です。ここでは一番最初のChinaがわかるか、は単語テスト、後者は(国際感覚)常識テスト、とでも言えるでしょうか。両者がともにテストであれば、測っている力が異なってくるわけです。

さらに話を進めると china が陶器を表す英語であることを理解している人の数も同じく激減します。ここまで来ると実はこれは英単語の知識のテストでも、常識のテストでもありません。その人物の英語の運用実績を測定する領域に突入していきます。なぜならこれがわかるという「状態(シチュエーション)」はその人がある時英語を用いた会話の中で、chinaが中国という意味以外に陶器を指すのだということを発見していったという経験があるかどうかという話になるからです。そしてchinaが陶器だとわかる人間はかなりの割合で海外においてソーサー付のコーヒーカップ、ティーカップで飲み物を出す習慣を持つ人間とある程度の交流があった、もしくは自宅に招かれた経験がある人間だと言える場合が多いです。するとその単語を認識するという事実から、この人間の社交性、渡航先での行動パターンを推測していくことができます。


とある有名な辞書を出版している外資系企業に勤務する友人は日本語の非常に流暢な欧米人ですが、東京の自宅に招かれた際、彼の1歳の息子が健康器具のようなトゲトゲの突起のついたボールをやけに気に入っており、食事中も決して手放さない様子を見て彼はあえて日本語で「多分触るが好きなんだね。」とつぶやきました。実はこの文章には決定的な日本語の理解における間違いが含まれています。そしてここで即座に彼の日本語の運用能力を測定すると共に行動パターンを推測することができます。何を彼が間違えているか皆さんはお分かりですか?

もう一度問題の文章を見てみましょう;「多分触るが好きなんだね。」という文章です。

おそらく大抵の方がその場合は「触る」ではなく、「触ること」だよね、とお答えになると思います。しかし先にお伝えした通り彼は非常に流暢に日本語を運用することができます。「流暢」というのは実は語彙力ではなく「骨組み=文法」で測定することができます(その根拠を述べると、6歳児は日本語の骨組みを理解していますが語彙は60歳の人間よりはるかに乏しいです。しかしそれを理由に「6歳児は流暢に日本語が話せない」、とは言いません。流暢さは骨組みの理解度によるところが大きいと言えます)。ですから彼は「きっと〜が好きなんだ」に加えて語尾に「よね」をつけるところから骨組みに関して十分な理解があることが分かります。

ではどこに問題があったかと言うと、「touch(タッチ)=触る」であることは知っていたけれど、「感触=touch」であることを彼は知らない、つまり彼は日本語は名詞と動詞がしばしば異なる表現を持つことにまでは理解が及んでいない、ということが分かります。

簡単な単語で例えるなら;

fish ・・・名詞 魚 / 動詞 釣りをする / 動名詞 (fishing) 釣り

shop ・・・名詞 店 / 動詞 買い物をする / 動名詞 (shopping) 買い物

先ほどの彼の言葉からはこの変化を理解できていないということが判断できます。また、ここから推測できる彼の行動パターンとして、彼は日本にいる間もほとんど英語で会話をしているのだということが分かります(日本語で過ごしたとしたらこの手の認識不足は訂正を受けることが不可避でしょう)。すると例えば彼の奥さんが日本人であったとしたら、その女性にはきっと留学・駐在経験があるのだろう、ということが推測できます。つまり結果的に日常の中にこの家庭は欧米の文化の感覚を持っているのだということまでが分かります。するとおそらく妻はchinaが陶器であることを知っているだろう、(というところに強引に話を戻すことも可能です笑)きっと代官山の朝ごはんにAM8時に誘っても差し支えのない家族だろう、ということが分かります。


僕はTOEICの擬似問題作成の仕事を過去にしていたのですが、主に「これくらいを理解できれば500点を狙える」というエントリー/ 中級レベルのカリキュラム作成の依頼を引き受けていました。僕の問題を作る方法としては、過去問というよりは先に述べたような推論、蓋然(がいぜんー)性をほとんどの場合用います。そこで「500点の人はきっとここから先はやったことがない、遭遇したことのないシチュエーションだろう」という部分を削っていくと中級レベルのカリキュラムというのは出来上がってきます。そして例えば自分自身の若さゆえの社会人としての経験不足からビジネス上の常識的な認識を取りこぼしたり、誤解したりするという危険性に対して慎重に対処していくことで精度の高いTOEICの擬似問題を仕上げていきます。


(その当時自分自身の英語力を測定しに行った時にもらった診断結果。問題作成者側は何であれその分野に長けていることは必須となるかもしれない)



この仕事の経験を通じて、僕は推測の能力は語学を越えて、様々な測定の前提となるものだと思うに至りました。なのでそのような「受験者」を相手にする仕事をする人間(テスト作成者・面接官etc...)は非常に丁寧に日々を生きる力を持っていることが奨励されるだろうと思います。様々な職業や地位の人たちと様々なテンションの会話をしていくことがそのような引き出しを増やし、測るべき能力の測定方法を編み出すヒントとなるからです。

そして僕なんかは近年演劇を若い学生たちに教えてきましたが、これも手法としては先のものと同じで、別にグループ分けして、ああだこうだと演技のイロハ(?)を教えてきたわけではなく、そのような推論の力を目の前の脚本と向き合いながら若いうちから培いましょうと伝えてきただけです。


最後にとってもくだらない話をして終わろうと思います。

若い頃、ある女性の友人がいたのですが、彼女は決して自分の自宅の位置を他人に教えない人間でした。もちろん僕も彼女の多くいる友人の一人に過ぎなかったので、聞くことはありませんでした。ある時誰かの誕生日パーティーの帰り道にたまたま方向が一緒ということで深夜にタクシーに乗り合わせることになりました。そこで彼女は僕よりも先に降りたのですが、その際とあるコンビニで降りますと言いました。自宅付近まで行かなかったのは僕が同乗していたからでしょう。その後彼女と最後に会った時(その人は海外に引っ越す予定だった)、僕は「最後なので言ってもいいと思うんですが、僕はあなたが皆に隠し続けていた家を一歩も自宅から外に出ることなく見つけてしまいました」と言いました。彼女は「そんなことはあり得ない。あなたにも、他の誰にも、私は自分がどこに住んでいるのか明かしたことがない。では試してあげましょう。なんという名前の建物ですか」と彼女が言ったので僕はその名前を言うと、彼女は「あぁ。あなたは頭がいいから」とだけ言いました。


「物事をスライドさせる力」と昔から僕は呼んでいるのですが、蓋然性を取り扱う職業に就いた人間は時にイタズラであれそのような推論の能力を応用してしまうことができます。しかし僕自身はそういった力を悪用することは決してないとは言え、それではただの不気味な人間だと思われて不必要に警戒されてもいけませんから僕はかなり意図的に自分自身の情報を先に公開するようにしています。


ふと文字数に目をやると意図せず今まで書いたエッセイの中でこれが一番長いものとなりました。ここまで読んでくださった方にお礼申し上げます。何かご意見や批判があればコメント欄へどうぞ。お返事します。

( 文・写真 / 西澤伊織 )



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