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突然の訪問をすることは

大人になってから時々「いついつに電話をかけてよろしいか」という連絡を前もってもらいます。仕事をしていると基本的に相手を「忙しい」と仮定することがデフォルトとなっていて「お忙しいところすみません」といった語り口が生まれます。これは一般に言う社会的マナーということだと思いますが、話の内容はせいぜい10分そこらで終わることが大抵ですから、セッティングしようと働きかけてくれるその時にもう話してくれた方がありがたいことが多いと個人的には思います。

実は僕は「失礼ですが、今忙しいのですみません (ガチャ) 」という断り方をしたことがありません。もちろん都合がつけられない場合は明確にそこにはすでに予定が入っていますと伝えることはあります。ですが誰かの突然の連絡や訪問を自動的に迷惑に思うことはありません。くだらないと思われるかもしれませんが、営業の電話(足拭きマットや保険、カード決済の機械etc...)の人から電話がかかってきたら「話したことのない人と話せた」と思っています。そして情報として彼らが勧めてくる商品に関してその効用や、自分自身の抱いていた長年の疑問を質問してお礼を言ってお話を終えます(考えてみたら銀行の融資以外そこから契約に至ったことはないが)。

おそらく根底に、僕は昔からいつもふと思い立って誰かを訪ねてきたということがあります。もちろん大人になるにつれ少しそれは人々の常識ではないことに気がついてきました(特に女性のおうち)。今でも初対面の人に対してそのようにはしませんが、それは単に社会常識に合わせて行動しているだけです。
もちろんそうしてきた理由は意図的に相手を困らせたり、驚かせたり、迷惑をかけたいわけではありません。少し時間があったら話せるかな、という田舎の畑仕事の帰りにお友達の家に立ち寄るおばあちゃんの感覚です。そして、もし相手が取り込み中なら、どれだけ時間をかけてそこへ行ったとしても、また出直せば良いと考えている節があります。現に今来客中なので2時間後であれば、と言われたり、今から出勤するところですのでよかったら駅まで一緒に、ということはあります。お昼寝されてますのでお菓子とお茶を召し上がって待っていてくださいとか、また、単純に、よく来てくれたね、上がって、泊まって、と言われることもあります。


先日滋賀に帰っていたという話をしましたが、実は東京に帰った次の日、滋賀にまた用があり東京からもう一度今度は車を借りて滋賀に戻りました。その際少し時間があったので実家で自分の昔の子供部屋のクローゼットを物色してみたら、懐かしい、いとこの写真が出てきました。

僕は学生時代、ふと思い立って彼女の住んでいた街の駅で降り、彼女の元を訪ねたことがあります。彼女は社会人になっていましたがインターホン越しに驚いて、出てきてくれました。後年、子供の頃からの持病が悪化してしまい、僕より5、6歳年長だったくらいでしたが遠方だったこともあり実は残念なことにそれが彼女と会った最期となりました。

滋賀を出るとき、そのフォトジェニックな従姉妹の写真を記念に東京に持ち帰ろうかと一瞬考えました。でも結局その写真は子供部屋に戻しておいて欲しいと見送ってくれた母親に頼み、実家を後にしました。


アメリカ大学バスケの名将と言われているリック・ピティーノ氏の著書を若い頃に読んだことがあります。ピティーノ氏は後に選手の起こしたスキャンダルの責任をとって辞任し、確か以降は海外のチームを監督していますが、彼が愛する人の死をどのように捉えるべきかを「その人と一緒に過ごすことができた幸せな時間に感謝して、」という言葉にしていることが、若い頃ストンと心に落ちた気がします。そしてこの「その人と一緒に過ごすことができた幸せ」なるものは、相手が生きている間に、広義の意味で、相手に会いに行くことでしかおそらく経験し得ないのではないかなと思います。

誰かに会いに行きそこで過ごすという時間はきっと誰にとっても幸せなことだと思います。相手の忙しさを前提とすることはマナーではありますが、はじめからそう決めつけることで遠慮して誰かと過ごす時間を失ってしまわないようにしたいものです。

僕の場合ですと、若い頃ふらっと思い立って誰かを訪ねていた習慣の意義は、きっと彼女に最後に会えたことの一点に集約されている気がします。


( 文・西澤伊織 / 写真・滋賀県の田舎の風景 )

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