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「魂」を哲学する

前回は「心」を哲学してみたが、今回は「魂」。

まず、魂を使った一般的な言葉を挙げる。

三つ子の魂百まで。一寸の虫にも五分の魂。魂が抜ける。仏作って魂入れず。大和魂。一球入魂。鎮魂歌。

これらをガチャガチャ揉んでいると、魂の定義らしきものが出てきた。

「魂とは、体とは別に存在できる人格」

理由:体を物質と考えるなら、上に挙げた言葉はみな、物質とは別に「魂」が存在することを言っているように思われる。

当てはまるかどうか微妙なものも1つ2つあるが、まあ、これは考えるとっかかりなので気にしないとして、

こう考えると、心と魂は違うのかという問いには

「心」は体と密接に関係していて、体の動きに影響するもの。

「魂」は体から離れたり体が死んだりしても存在する「その人」。

・・とでも言うかな。

うーん、言葉では言えるけど、心が今こうしてものを考えている自分の中で感じられるのに対して、魂の存在証明は極めて困難だな。

体から魂が離れた状態を自分で体感したこともないし、死んでも残るものだからと言って、試しに死んでみるというのも、試しでは済まないことになりそうだからなあ。

要するに「魂」は、仮定はできても感覚的には実感できない。

体から離れて存在できるのが魂だとすると、それが本当にわかるのは死んだ後だ。誰もが幽体離脱するわけではないが、幸か不幸か、誰もが死ぬ。だから魂と死はセットで論じられる。

魂を巡る最たる議論は、死んだら「自分」は無になるのか(=魂はない)、輪廻するのか(=別な体と結びつく)、永遠の行き先があるのか(=魂は一つの体としか結びつかない)、ということ。

「心はこういうものです」と言われたら、自分の感覚と比較して検証できそうだけど、「魂」は実感できないから検証しようがない。

そうすると、実感とは別なもので検証することになる。

魂に関するある主張は「スピリチュアル」に属する。魂に関するある主張とその検証がパッケージされたものは「宗教」に属する。

・・なのかな。スピリチュアルって、検証を前提としているの?そっちはよくわからないや。

また考えよう。