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語ることの難しさとアセクシャルを名乗ることへの不安

※記事内で、性被害について触れています。フラッシュバックなどの心配のある人は、自分の状態に注意して閲覧してください。読まないことも一つの選択肢です。(*Trigger warning: sexual assault)

これまでの記事で、私がアセクシャルであることを書いてきた。当事者やアライの人たちなど、様々な人からコメントをもらえて嬉しく思う一方で、自分のことを語れば語るほど、「語る」という行為が難しいことに気づかされる。

―何を語り、何を語らないのか。結局、19世紀ビクトリア朝の自伝的小説ではないけれど、当事者が体験を語るとき、そこには必然的に語られない出来事が存在する。意識的であったり、無意識であったりと理由は様々であるけれど、語るという行為の中に、取捨選択という段階があるのは間違いないだろう。


実際、今までの記事で意識的に書いてこなかったことに、過去の性的トラウマがある。少し前からTwitterで私をフォローしてる方なら、フラッシュバックでどうしても辛いときに纏まらない文章をつぶやいたことがあるので、既に知っているかもしれないけれど。

昔、思春期を迎えるより前に、信頼していた人から性暴力を受けた。それから数年後、想いを寄せていた別の人に、性的に揶揄われたこともある。何をされたのか、何があったのか具体的にはここでは書かない。書くということは、必然的に思い出すということになるし、皆にわかりやすいように言葉にまとめられるほど、あの体験を乗り越えられていないから。ただ、どちらの出来事も私を強く捕らえて、なかなか放してくれないことだけは伝えておこう。 

アセクシャルとトラウマは、必ずしも関連性はない。包括的な視点で見た時に、それは間違いのない事実だ。誤解を受けないように何度でも強調しておく。けれど、もっとミクロな視点で、自分にだけ目を向けた時、本当に関連性がないのか、私は断言することができない。あの日がない世界線を生きてみることはできないし、あの出来事が自分に大きな影響を与えているのは否定できないから。

そんなトラウマとアセクシャルをうまく分けることのできていない自分が、ただでさえ性的トラウマと関連付けのされやすいアセクシャルを名乗ることで、他のアセクシャルの人たちの印象を悪くしてしまうのではないかという不安が拭い切れない。誰かから、特に当事者から、「あなたはアセクシャルじゃないよ。アセクシャルを名乗らないで。」と言われたらどうしようと。だからこそ、今までのnoteでは、過去のトラウマを書くことを避けてきたし、そうする勇気もなかった。



「過去に嫌な思いをしたことがあるの?」

アセクシャルが聞かれる無神経な言葉のトップ10には入るだろう。こう聞かれたら怒るべきだし、実際、Twitterでもフォロワーさんが苦言を呈しているのを時折見かける。けれど、もしこう聞かれたら、私は強く言い返すことができない。事実だからだ。

もし、あの経験がなかったら、あの日をやり直すことができたなら、自分は今と違ったかもしれない。隣を歩くパートナーとふと手が触れあって、ぞっとすることもなかったかもしれないし、夜道を何度も振り返って、半分過呼吸になりながら走って帰ることもなかったかもしれない。何度そう考えただろう。自分という人間のことは好きだし、アセクシャルという自認にも誇りを持っているけれど、そう考えを巡らせずにはいられない自分がいる。―もし、こうだったらと。

いつの日だったか、友人から、セクシャリティや過去のことについて、「向き合っててすごいね。自分だったら無理かもしれない。」と言われたことがある。おそらく友人は当たり障りないことを言って、私を肯定してくれようとしたのだろう。大好きな友人だし、彼女を批判する意図はない。けれど、そう言われた瞬間に、自分だって逃げられるなら逃げたいと思った。

逃げたくても影のようついて回る記憶。変えたくても変えられない過去。なぜ私だったのか。神様は乗り越えられない試練を与えないなんて、誰が言い始めたのだろう。知りもしない相手を強く強く恨んだ。時間が傷を癒すなんてそんなの嘘だ。あまりにも深い心の傷は、その傷を受けたのが幼い時であるほど、遡及的に深くなる。いっそのこと、そんな過去から逃げるには、むしろその過去を抱きしめてしまうくらいの方がいいのかもしれない。

***

今まで、過去のトラウマをほとんど誰にも言わずに自分の中に閉じ込めてきた。同じ経験をした人には説明するまでもないし、他の人には話したところで理解してもらえないだろうから。パートナーにもまだ伝えていないし、積極的に伝えることもないだろう。けれど、自分の中に閉じ込めたままにしておいたら、私はこのまま立ち止まったままだし、前に進めないとふと思った。だから、この投稿で前に一歩踏み出そうと思う。

ただ、依然として語ることは難しい。語る本人は、その体験の中で物差しが曲がってしまっているだろうし、客観的に見るには距離が近すぎる。『夜と霧』で、フランクルが語るように、自分の体験を当事者である私が判断するには距離が近すぎて、客観的な判断を下せない。だから、ふとネットの海に流そうと思ったのかもしれない。

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