私はあのガラテアじゃないから
自身のアセクシャルというアイデンティティを振り返っていると、ふとある言葉がこみ上げてきた。
—私はあの彫刻のガラテアじゃない—
ギリシア神話の中に、ピグマリオンとガラテアの話がある。あの有名な『マイフェアレディ』の原作となった戯曲の名前が『ピグマリオン』であることからご存知の方もいるかもしれない。
ある時、現実の女性に失望したピグマリオンは、自ら彫刻で理想とする女性をつくり、ガラテアと名付けた。そのうち、彼は彫刻であるガラテアを本物の人間であるかのように世話をし、愛するようになる。そんなピグマリオンの望みに答えるような形で、ガラテアに生命が宿り、喜んだピグマリオンはガラテアと結婚する。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ピュグマリオーン
一見ハッピーエンドに見えるこの物語には問題点がある。それは、
ガラテアには意思もアイデンティティもなく、ただピグマリオンの気持ちに従う存在である
という点だ。
ガラテアは、ただ単に受け身で、意思もなく、ピグマリオンが望んだから人間になることができ、そして彼の妻になる。
けれど、ここでのガラテアの気持ちは、アイデンティティはどこへ行ってしまったのだろう。ガラテアは本当に人間になりたかったのだろうか。ピグマリオンの妻になることは彼女も望んだことなのだろうか。そして、どうしていつも西洋の物語では、創造主が男性で、創造物は女性なのだろう。
そんな気の毒なガラテアの話を思うと、ふと過去の自分のことを思い出した。
「相手が望むから、相手が自分を欲しているから、自分の気持ちはわからないけれど、それに答えよう」
自分のセクシャリティに迷っていたが故、受け身の存在になっていた。相手に望まれるがまま、それに答える。それでは、ガラテアと一緒じゃないかー
* * *
だけど、私は彫刻じゃない。
意思のある人間だし、アイデンティティだってある。嫌なら嫌だって言って良い。それで、離れる人がいるなら、それは私の問題ではなく、相手の問題だ。
私は、彫刻ではなく、人間なのだから。
読んでくださり、ありがとうございます。皆さんから頂いたサポートは、資格勉強や書籍購入のために大切に使わせて頂きます。