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ニューヨークで受けた教育、日本で受けた教育



唐突に幼少期のことを思い出したので、書きます。

私は1977年にニューカレドニア島ヌメア市で生まれました。父母は日本人で、父の仕事での赴任期間中に生まれました。

私は1歳になる前に日本に来ました。日本で4歳まで過ごし、次はアメリカ合衆国のニューヨークに移りました。

最初の教育はニューヨークで受けたことになります。そこはモンテソリー式の幼稚園でした。 小学1年生になり、ニューヨーク市立の小学校、PS24に入学しました。

私の住んでいた地域は隣町がユダヤ人街で(私はそこのベーグルが香りが強くて硬くて苦手でしたが、今ではとても食べたいです)、PS24にもユダヤ教の子供たちが多く通い、クリスマスとともにハヌカなどのユダヤ教のお祝いもしたりしました。

PS24では教師による体罰が横行していました。今のニューヨークの教育からは想像つかないかもしれません。体罰、人種差別、宗教差別など、多くの問題を肌で感じました。 同級生から「日本は民主主義国家じゃないんでしょ?」と言われたこともあります。その時は言われてカッとしましたが、今は日本は民主主義と言い難い側面もあるかもしれないと感じています。

PS24で小学4年生になった頃、私は日本に帰国することになりました。 帰国前の最後の登校日のことをよく覚えています。私は授業中も風船を膨らましたり、歌を歌いながら、好きなように過ごしていました。校長先生が教室に立ち寄った時、担任に「なぜ授業中に遊んでいる子がいるんだ?」と聞き、担任は「あの子は今日が最後だからいいんです」と言ってました。

私は普段から授業中に遊んだり、他の子の席に歩いて行ったりしていたので(今思えば多動症の表れだったのだと思います)、担任の先生としてはもう私に手を焼きたくないという気持ちもあったのかもしれません。それか、ただ大らかに接してくれていただけなのかもしれません(父母が先生との面談で「あなたの息子さんはとてもとても自由でして」と皮肉交じりにいわれたこともあったそうです。父は「自由で何が悪い」と言い返したとか。)

日本で過ごした期間よりアメリカで過ごした期間の方が長かった私にとって、「帰国」した日本はまさに外国でした。学期の区切りの違いにより私は小学3年生のクラスに編入されました。席を割り当てられ、隣の女の子に挨拶をし、普通に会話したことでクラスの子供たちの私への対応方針が決まったようでした。その女の子はいじめのターゲットになっていたのです。

その日のうちに、私はその女の子とともにからかわれるようになりました。アメリカでは意地悪な子供はいたものの、クラス一丸となってのいじめというのは初めて体験したので驚きました。

私は、これほどクラス全員から嫌われるこの子は、過去に大変なことをしたに違いないと思い、距離を置くようになりました(「いじめ」がどういうものか知った今、「それは誤解だ!」と子供の頃の自分に言いたい)。すると私に対するからかいも収まり、私は自然とそれが正しい対応であるかのように学んでしまいました。

日本での小学校生活に慣れず、仮病を使って学校を休むようになりました。この間の記憶はあいまいなのですが、家では「なぜ生きなければいけないのか?」「自分と他人はどう違うのか?」「自分が見ていない間世界はどうなっているのか?」といったことを非常に長い時間をかけて考えていました。今思うと哲学的な問いですが、このころは哲学など知らず、ただこれらの答えがわからないことが苦しくて、悩み考えていました。

その頃、考えすぎておかしくなってたのか、「幻覚遊び」をするようになってました(みなさんも子供の頃やった記憶ありますか?)。目の前の空間に黒や青の小さな点が現れ、それが次第に大きな球体になり、やがて自分自身を包み込むほどの大きさになるというものです。球体に包まれた「中」は驚くほど静かで、自分の耳の中の血流の音が耳鳴りのようにうるさく聞こえたのを覚えています。

最初に球体が現れた時は怖かった記憶がありますが、次第に慣れて球体を大きくしたり小さくしたりして遊ぶようになっていました。あれが何だったのか今もよくわかりませんが、自分の立体物をイメージする力はあの時に養われたと思ってます。

小学6年生になった頃、パタっと哲学的苦悩が落ち着き、普通に小学校に通うようになっていました。

何のオチも無い話ですが、以上です。読んでくださってありがとうございます。❤️やコメント、励みになります…!

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