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一人暮らしデビュー(洗濯物は自動的に畳まれて戻ってこない)

私がはじめてひとり暮らしをした街は所沢だった。大学のキャンパスがあったからで、進学とともに引っ越した。

部屋は家賃4万5000円のアパートの1階。間取りは1Kで、ロフトがあるのを気に入って選んだ。築10年だが、リフォームしたばかりできれいだった。

3月下旬、私は姉と一緒に広島から出てきた。姉は引っ越しの手伝いで来てくれた。

からっぽの部屋につぎつぎと段ボールが運ばれてくる。私が荷物を受け取っているあいだ、姉は近所の大型スーパーで食器やキッチン用品をそろえてくれた。

その夜、姉はロフトで、私は1階のフローリングで寝た。3月でもいぜんとして夜は寒く、エアコンの暖房をつけていた。

暖かい空気はロフトがある高い天井にたまり、1階は真冬のように底冷えがした。
うず高く積まれた段ボールの影におびえながら、私は眠れぬ夜をすごした。

次の日、姉は1週間分のカレーをつくって冷凍すると、広島に帰った。私はついに知らない土地で一人きりになった。

夕方、スーパーで無洗米を買って、はじめて炊飯器で米を炊いた。一人でカレーを食べていると、なぜか涙がこみ上げてきた。

私は騒音に悩まされるようになった。一戸建ての実家に住んでいたときには経験したことがないものだった。

夜になると、上の階から爆音で熱唱する男の声がした。私は新品のじゅうたんの芯に入っていた竹で天井を突いて抗議したが、カラオケは毎夜つづいた。

たまりかねて大家に電話したら、ピタリとやんだ。逆ギレした男が怒鳴りこんで来やしないかと不安になった。

私はロフトにふとんを敷いて寝ていた。夜中になると、薄い壁のむこうからカップルの夜の営みの声が聞こえた。こちらはそっとしておいた。

カップルのせいで、しだいに寝る時間が遅くなり、起きるのは昼すぎになった。何時に起きようと、誰にも怒られない。私は自由を感じた。

1週間が経つと、せまい庭にはごみ袋と段ボールの山ができていた。
朝起きられず、曜日ごとにごみの種類も決まっているので、うまくごみ出しができなかった。ちらほらとゴキブリの姿を見るようになった。

ある日、目が覚めてエアコンをつけると、吹き出し口から結婚式の鳩のようにゴキブリが飛び立った。
私は殺虫剤と大量のゴキブリホイホイを買って武装した。ひとり暮らしは苦労がたえない。

カレーがなくなり、スーパーでお惣菜を買うようになった。夜9時ごろに行くと、なんと半額だった。
はじめは揚げ物ばかり買っていたが、おひたしや煮物のおいしさが染みるようになった。

閉店まぎわまで粘ると、寿司も半額になった。私はよろこび勇んで寿司を買った。

スーパーの袋をぶら下げ、民家のあいだの夜道を帰る。窓には灯りがともっており、家族が幸せそうに笑っているような気がした。
ごちそうを買って帰っているはずなのに、自分がひどく惨めで孤独に思えた。

炊事・掃除・洗濯とひとり暮らしは面倒なことばかり。親のありがたみが身に染みた。

食べ終わった食器は水に浸けておくように、母に何度も言われてきたが、ろくに守ったことはなかった。
自分がお茶碗を洗うようになると、どれだけご飯粒が取れやすくなるかを実感した。母には申し訳ないことをした。

アパートはバストイレ一体型のユニットバスだった。浴槽を洗うのが大変なので、お湯をはらなくなった。
私はブルブルとふるえながら、浴槽のなかでシャワーを浴びた。肩までお湯に浸かったら、体の芯から温まるだろうと思ったが我慢した。

いままで当たり前だったことが、当たり前ではなくなった。浴槽に張りついたシャワーカーテンを見ながら、せつない気分になった。

これまで洗濯物をかごに放ると、自動的に畳まれてタンスのなかに戻ってきた。もちろん〝自動〟でなく〝母〟がやっていたのだが、自分でやるとなると大変だった。

とくに畳むのが面倒で、自然と庭に干しっぱなしになった。着るときはそこから直接とった。Tシャツのすそがごみ袋の山にふれて汚れた。

洗濯機はアパートの外廊下に共用のものがあった。柔軟剤をキャップで計量していると、うしろから声をかけられた。

「こんばんは」と女性の声だ。振りむくと、女性は出かけるところで、隣のカップルの部屋から現れた。年は同じくらい、とてもかわいかった。

私は挨拶を返したが、恥ずかしくて目を合わせられなかった。昨夜の声を思い出したのだ。

ロフトの壁に耳を当てると、カップルは美容系の専門学校生で新潟から一緒に出てきたことがわかった。

地方から上京してきて(埼玉だが)、がんばっている彼らに共感を覚えた。ふと視線を移すと、足もとには冷たいシーツが広がっていた。

翌日、私はひさしぶりに早起きをして、東京の美容室に行った。

予備校時代は姉が髪を切っていたが、カリスマ美容師に切ってもらった。髪を染めてパーマもかけてもらった。入学式はもうすぐ、大学デビューの準備はできた。

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