随筆(2020/1/22):一対一の人間関係における地位の在り方4-6(対等のためのコストを強いられたくない、とはいえ対等のためのコストを払わない人が対等に扱われる訳がない他)

4.対等のためのコストを強いられたくない

ということで、一対一の人間関係において、偉そうにしてほしくないし、卑屈そうにしてほしくない。そこまではいい。

しかし、これによって得られるのは、「偉そうにしない、卑屈そうにしない」相手でしかない。
何が言いたいのかというと、「それは別に、対等の人間関係というものではない」ということです。
「え?」と思う人もいるでしょう。偉そうにしないし、卑屈そうにしないのに、なぜ対等ではないのか?

実は、「相手が」偉そうにしないことや、卑屈そうにしないことに「加えて」、「自分が」偉そうにしないことや、卑屈そうにしないことが、対等ということには必要だからです。
これが出来ていなかったら、それは「してもらっている」だけだ。何ら対等ではない。

「げえっ」となる人もいるでしょう。自分が何らかのコストを払わなければならない!
この時点で「コストを払うことを強いるな」と言いたくなる人、当然います。
対等は嬉しいが、そのためのコストを同意なく突きつけられるのは嫌だ。
じゃあ、「コストは払わない代わりに、対等は諦める」か、「コストを払う代わりに、対等をやっていく」か、「対等をしながらコストを払わない」ということをするかしかない。
ちなみに、「対等を諦めたのにコストは払わせられる」のが、一番最悪です。そんなことしたら損しかしない。誰がそんなことをやりたいものか。
これを余儀なくされることはよくありますが、たいていある日キッツいしっぺ返しを食らわして、何もかもぶち壊しにしたくなります。そういうものです。

そんな訳で、対等というのも、面倒なのです。
そこまでやらなならん、という認識がないと、「対等のためのコストを強いられたくない」とは言いたくなるでしょう。

それを無視して、単に
「対等は良いものであり、そのために払われるコストはそれほど悪いものとは思わない。
だから自分はこれを払う。
そして相手にもこれを払うことを要求してよい。当然であろう」
ということをする人、話にならないんですね。

そりゃあそうでしょうよ。相手の話を聞かないんだから、話になる訳がない。

5.とはいえ対等のためのコストを払わない人が対等に扱われる訳がない

さて、何で「対等を諦めたのにコストは払わせられる」という謎の最悪の事態が発生しているかというと、もちろん「対等をしながらコストを払わない」人がいるからです。

で、「対等であろう、対等であるための条件をやろうとしない人を、人間扱いしたくない」という回路の埋まっている人、います。
これは、さっき言った「対等を諦めたのにコストを払わせられたら、ある日キッツいしっぺ返しを食らわして、何もかもぶち壊しにしたくなる」回路同じカテゴリーのものです。
私はこのカテゴリーを「報復の公正の徳」と読んでいます。

これの前段階に、「公正取引の徳」と呼べるものがあり、何かというと、「相手のために何かしたら、返礼がある(何ならそれには少しサービスで割り増しがある)」というやつです。
で、「公正取引の徳」を破り、侵す、盗人猛々しい人というのも、もちろんいます。何かさー。そういうのが得だから賢いから善いとされている、そういう文化だか何だか知らないけどさ。いるんだよな。いっぱい。
彼らをシメないと、公正取引をしようとする人、単純に際限なく食い物にされて、いつか何もかも粉々にされて搾りかすみたいになって飢えて干からびて死にます。
だから、「報復の公正の徳」というものが、副次的にどうしたって出てきてしまうんですね。

これを刑法レベルで素通しすると、治安は際限なくメチャクチャになりますので、もはや今ではこれはそのままでは採用されません。
ですが、刑法に抵触しない、私闘私刑にならないレベルでは、これは今でもふつうに通る話です。

平たく言うと、「対等であろう、対等であるための条件をやろうとしない人を、人間扱いしたくない」というのは、ふつうに採用されます。
これをやらないと損しかしないし、究極的には死ぬので。
これを止める? 何で? 相手はたいてい、法的な人間扱いとしての基本的人権を重んじる公僕などではなく、またこれは刑法のフェーズでもない。じゃあ、素通しされる。

6.一対一の人間関係の本懐は『ナメられたら殺す』を防ぐために『人をナメない』ことにある

要するに、「相手をいかなる場合にも人間扱いしなければならない」ということが大事なのです。

少し前に流行った言い回しで、
「侍の本懐とは『ナメられたら殺す』」
というのがあります。
鎌倉時代後期~南北朝時代の戦争漫画で、『バンデット』というのがあり、その中で鎌倉幕府を転覆させて足利幕府を目指す(最終的には次の世代に託すことになるが)、足利貞氏という有力な武士がいました。彼が(漫画の中で)言ったセリフです。

このセリフは一般に
「わー鎌倉武士はパワフルな蛮族だー」
と単純に受け取られています。

ですが、別の読み方もされています。
「権威を損なうということは非常に重いことである。
権威は生死がかかっているときがよくある。
これを軽々しく蹴飛ばしてただで済むと思う方がおかしい」

という読みです。

分からない? まあそうでしょうね。
「かなり多くの人はナメてる相手を面白半分に害していいと思っている」
ということなんですよ。
面白半分に害されかけて、身に覚えのある人は、よくわかるでしょう。例のバターンの話です。

まあ、そう考えると、野蛮と言いたくなる「侍の本懐とは『ナメられたら殺す』」、「そりゃそうだろうなあ」と分かってくる。
ナメるやつ、面白半分に殺しに来てる可能性がかなり高い。
安全牌としては初手で先制して殺すのが最適解だった時期、間違いなくかなり長くあっただろう。
そして、ナメられたら殺す、というのが迷惑極まりなかったとしても、それをやめさせるのにも、やはりものすごい血が流れたはずだ。
そんなことが出来るのは、強烈な警察力のある中央政府くらいしかないんだから。
そして、そんなものがないような社会で、躊躇ったら全滅させられるまであるとなれば、「やらないと損をする」という話にしかならないんだよな。

で、今、人は誰しも、ふつう殺されたくないでしょう。
だったら、人をナメるの、やめた方がいいですよ。
「私はあなたをナメており、あなたを面白半分に害していいと思っている」
という人、そりゃあ世が世ならテキパキ駆除されてたレベルの邪悪生物であり、今でもふつうに危険人物ですよ。
あなたはそうではない? なるほど。ならば身の証を立てねばならない。
つまりは、人にナメた態度を取らない。『人をナメない』。ということです。

(続きは、また明日)

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