随筆(2019/12/19):『副次的な箇所に惹かれるという感性』3-2(考察4~9),4(結び)

考察4:有性生殖と関係ない、外形的な魅力も、もちろん性欲のトリガーになりうる

例えば、子供とかの外見的言動的な「可愛らしさ」というのは、まあ外見的言動的な魅力なんですけど、有性生殖とは関係ないやつです。
しかし、実際には、「外見的な魅力が性欲のトリガーになる」なら、「有性生殖と関係ない外見的な魅力も、もちろん性欲のトリガーになる」わけです。
別に「有性生殖と外見的な魅力の2つの条件を満たしていないと、性欲のトリガーにはならない」という話にはならないんだから。
だから同性愛も小児愛も動物愛も物神崇拝もふつうに起きる。

とはいえ、これが小児愛のトリガーだと思うと、まあそりゃあものすごく嫌でしょう。
今の法体系では、子供に「フルセット」の「事理弁識能力」が「ない」という前提で回っている。当然、性行為の合意能力なんかないと見なす。つまり、性行為をしたら、それは合意としては成り立っていないので、自動的にそれは性犯罪になる。要は、小児愛は自動的に性犯罪となる。そういう考え方をします。
要は、「ガキは信用ならない」という立場を、社会は採っている。信用するやつはアホであり、何ならそれは自分の都合で信用しているフリをしているだけだ。もちろんそんなものは何ら信用ではない。
これを子供が読んだら、まあそりゃあナメられたと感じるだろうし、カチンとはなるだろうが、「実際に」こうなんだからな。しょうがない)

考察5:副次的な箇所に惹かれるという感性

(以下の文章は、やや抽象度の高い話をしている自覚はあります。自分の身の回りの実例をイメージして、それで読み替えて下さい)

とはいえ、「どうあるべきか」という話ではなく、その手前の「そもそも実際にはどうなっているか」という話として、
何か一個でも条件があれば、それで既存のシステムが駆動されることがある(例えば、性欲はある程度脳の中に埋まっているものであり、そういう意味ではこれも既存のシステムです)。
それは、主要な条件であろうが、副次的な条件であろうが、駆動されるまでのメカニズムや駆動の度合いはそれぞれ違うかもしれないが、どちらにしても、駆動される
ということはイメージしておいた方がよいでしょう。
「どんなに副次的な条件が顕著にあったとしても、主要な条件がなければ、何事も発生しない。発生したらおかしい」
というものばかりではないのです。

そもそも、「それがなぜ主要だと思ったか」ということは、少し冷静に考えた方が良いでしょう。
「歴史的にAがあり、それによってZが成立した。AがなかったらZはなかった。だから、AがZの主要な条件である。
他の条件B,C,D...はZの成立を強化する役割を果たしたが、なくてもZは成立しえた。だから、これらは副次的な条件である」

という話は、成立条件の話であって、別に
「いったん生じた既存のZは、Aをなくせば、いずれなくなる。場合によれば直ちに存在しえなくなる」
という存続条件の話であるとは限らない。
というか、いったんZが生じてしまったからには、Aがなくなっても、ふつうに存続する場合がある。
こうなると、主要と副次という概念を、存続条件と成立条件で、2×2で別々に設定しないとダメ、ということになってきます。
(多分この辺は、思考法のフレームワークを情報商材にしている、コンサルティング業者の方が詳しいのでしょうね。
しかし、私は今も昔も貧乏なので、彼らのあまり踏み込んだレベルの研修は受講してないんですよね…)

そういう訳で、「有性生殖」のような、一見主要に見える条件「ではなく」、「外形的な魅力」のような一見副次的に見える条件「だけ」が「あった」として、それに性欲が駆動されるのは、「ふつうにあること」です。
むしろ、「そんなのおかしいやろ」と思うのは、
「Aがなかったら、Zは生じなかった」
という成立条件の話と
「Aをなくせば、いったん生じた既存のZは、いずれ、あるいは直ちに消滅する」
という存続条件の話を混同しているからです。

たいてい、私たちが向き合っているのは、「もう出来上がった既存のもの」の「存続」にかかわることです。
そこでは、主要な存続条件がなかったら存続できず、それ抜きで副次的な存続条件がいくらあっても効かない。消滅する。それは確かです。

でも、その時に、主要な成立条件だの、副次的な成立条件だの、関係あるか? そういうのは、たとえ少しは関係あったとしても、偶然的にしか効いてこないぞ?
で、主要な存続条件の話をしたいのに、主要な成立条件を持ち出してくること、時々やってしまう。
それはカテゴリーエラーであり、効かない「ことがある」から、「そんな馬鹿な。これは効くに違いないのだ」と強弁すればするほど、その話は無意味になる。ここは気を付けないといけない。

考察6:条件を洗い出して定義しようとしても、連想による逸脱は常にありうる

それどころか、関係のある全条件をいったん洗い出して、成立や存続のために最低限必要な組み合わせがうまく彫り出せたとしても、それらの条件は、そのうち、勝手にいくつか増えたりすることがある。
こうなるともう、全条件の洗い出しや、組み合わせの彫り出しを、たとえ首尾よくしたところで、それはある程度の参考にはなるが、正解にはならない訳だ。明日には事態は進展し、事前情報は部分的にしか正しくなくなる。陳腐化する。うわー面倒っちい。だが、よくある話だ。

例えば、ジョルジュ・バタイユの言うような、『禁止』と『侵犯』が『エロス』の要だという話があります。
これ、個人的には「禁止能力と侵犯能力がないやつはエロスがないという話なのか? 理解に苦しむが…」という印象ですね。
とはいえ、「エロスが社交的処世的社会的に禁止されていて、そこの禁止を侵犯して初めてやれた」という話は、確かにしょっちゅうあります。
で、だから、そこから『禁止』されているものを『侵犯』すると、それがもはや有性生殖と何ら関係なくても、有性生殖に伴うものに通じる興奮をもたらしてしまうようになったんでしょうね。
有性生殖に反して「殺害すると興奮する」パターンがあるんですが、要するに
「興奮する有性生殖を禁じられた、
禁止を侵犯して有性生殖をやると興奮した、
有性生殖に限らず何らかの禁止を侵犯すると興奮するチャンネルが拓かれた」
というメカニズムが働いていると考え得る。

こういう、元々の由来からは外れる、新しい心的機能の在り方は、ある種の進化の結果、心の中に埋まっている、連想能力によるものです。
連想能力は、便利だし、新しいものを作ってくれたりするのです。それは途方もなく大切な創造行為のリソースでもあります。
が、それら新しいものは、元々の由来から外れて出来たものであり、新しいものに関わりを持たない人たちには、通じなくて当たり前だ。という覚悟はしておいた方がよいでしょう。

考察7:類似した概念が同一視されると、元々の概念は放っとくとどんどん拡大解釈されてしまう

あと、バタイユの考える、禁止と侵犯によってもたらされる「何か」については、
「これをエロスと類似したものと見なし、というか同一視する」
というメカニズムが働いていると考え得る。
これをすると、
「それは、禁止能力と侵犯能力がないやつはエロスがないという話なのか? 理解に苦しむが…」
という話との間に摩擦が生じる。

だが、そこであえて同一視を強行すると、摩擦は一見消える。
その代わり、元々の概念は放っとくとどんどん拡大解釈されてしまう。

そしてその結果、問題のカテゴリーエラーに引っかかっちゃった人が、
「元々そういう話ではないはずだが、なぜこんな話になっているのか…? それが当てはまらないことの方が多いのでは…? 少なくとも今、目の前の問題には、まるで当てはまってないように見えるが…???」
と首を傾げたりして、いつまで経っても誤った解決方法しか手に入らないので、いつまで経っても問題を解決出来なくなる。
もちろんこれでは、問題に巻き込まれている人たちはとても困るんだが、残念ながら本当によくある話だ。

なので、私にとって、禁止と侵犯のエロスは、
「たぶん分かるし、広く通用していることも分かるけど、元々の由来からは外れた、後から作られたものであり、完全に一般化できない、通用しない事例が多い、そういうもの
です。
それは、性欲の拡大解釈と認める分にはやぶさかではないが、その文脈に乗らない類の性欲に適用したら最後、何もかもデタラメな解決になる。そこは私は眉に唾つけて見ている。

考察8:その条件は、それにしか効かない専用の手段であるとは限らないのではないか? 副作用は常にありうる

条件の話で、もう一つ気を付けなければならないのが、
「その条件は、何かを成立させたり存続させたり、それらを強化させたりするかもしれないが、それにしか効かない専用の手段であるとは限らないのではないか? 平たく言って、副作用は常にありうる
ということです。

例えば、手短に言うと、
「性欲は有性生殖に対してメリットがあるものだが、性欲は有性生殖の手段に終始している訳ではまるでなく、しょっちゅう他のところに影響が出る」
ということです。

有り体に言って、有性生殖の手段であった性欲は、その後心理や社交や処世や社会に、抜きがたい影響を及ぼしている。こんなもん明らかだ。否定する方がおかしい。
例えば、倫理の中には、性欲に関するトピックが、まず必ず含まれている。ふつうそれは「無制約な性欲の実践は忌避される云々」という性質のものであり、あるいはその拡大解釈の産物だ。

「性欲は有性生殖の手段に終始するものであり、それが当たり前であり、そうでなかったら筋が通らない」
という意見の方が、個人的にははるかに理解に苦しむ。
現に、心理や社交や処世や社会は、性欲によってガリガリ書き換わっとるやんけ。
それを見なかったことにするなよな。ちゃんとそれらには向き合っていかねばならんやろ。

考察9:安全な場所に引きこもり、体力を回復させたら、後はもう問題解決から逃げない方が良いし、副作用も順次埋め合わせていかねばならない

そこでシレッと無視して「こんなものは幽霊だ、なくそう」とやってる人、あなたがたのやってることは、端的に言って、ただの現実逃避ですよ。
そんなことをすると脳のメモリは食わないかもしれないが、現実の問題があなたがたを丸ごと呑み込んじゃいますよ。
「おかしい。こんなはずでは…???」と首を傾げながら死んでいくのか? そのどこが嬉しいのか? よう分からん。
「楽になれるなら騙されたまま死んでもいい」のか…??? 何であなたがた、そんなデスマーチ中のプログラマみたいなことを思うようになった…???

(俺は俺を騙すやつのことが、心底許し難いし、大っ嫌いなので、そういうのされるの、絶対に嫌なんですけど…)

病気でも社会でもそうだが、「これはこの症状にだけ効き目がある副作用のない薬である」という、本当に使い勝手が良くて便利なものが、もしも「ある」のであれば、話は簡単ですよ。
しかし、「ない」のであれば、ある程度は副作用は起こり得るし、そういうのが起きたら、我慢して凌ぐか、別の対症療法で散らすか、ということをするしかない。
原因療法? それはどうでしょうね。問題が発生したのは、たいてい、別の問題を解決したことによる副作用なのだから。前の問題を塩漬けにして、目の前の問題を止める、というのを、根治と言っていいものかどうか…

まあ、だから、「そういうのが面倒だ」という労力のコストが支払えないと、対症療法による症状軽減であっても、原因療法による根治であっても、問題解決は、出来ない。
少なくとも、思い通りにいくわけがない。そのような手を使っていないのだから。
だから、そうなると、後は、自然治癒しかなくなり、要するに我慢して凌ぐしかない。つまりは、ますます、思い通りにはいかなくなる。
もちろん、そういうのをやるしかない局面は多々あるが、それはふつうは「嬉しくない」状況だ。
やはり、安全な場所に引きこもり、体力を回復させて、問題解決が出来るようになるのが「嬉しい」状況なのではないか?

問題解決が出来るようになることが望ましい。
だとしたら、「問題解決の副作用から逃げない、それは順次埋め合わせていく」ということは、やはりある程度は避けられないのであろう。

結び:性欲の話だか、性欲の条件の話だか、条件一般の話だか、分かんなくなってきた

ということで、性欲の話だか、性欲の条件の話だか、条件一般の話だか、分かんなくなってきた。

あー、えーと、例えば今回は性欲の話になったのですが、性欲の話は、込み入ってるし、こじれるんです。
そういうこじれる話を考える時に、快刀乱麻を断つとまではいかなくても、乱麻をある程度ほどくようなことは、出来るとものすごく便利な能力だし、結果として見通しはだいぶ良くなるだろう。

「性欲は有性生殖由来なのに、直感的に有性生殖と関係のない性欲の在り方がたくさんある。なぜか?」
という問いかけですが、
「性欲は有性生殖によって成立したものではあっても、有性生殖によって存続しているものではないので、有性生殖という条件を欠いても、既にある性欲の脳内回路そのものは、何ら問題なく存続する」
「性欲は、有性生殖以外にも、他の条件がなんか一個でもあれば、ふつうに成り立ちうる」
「性欲というか、性欲と同一視されるものは、有性生殖を前提の一つとしている元々の性欲とは違い、有性生殖を最初から前提としていないことすらふつうにありうる」
「性欲拡大解釈概念、条件がどんどん増えていく性質のものだし、そうなるとますます有性生殖の重要性は低くなる」

などのいろんなケースの回答がありえます。

キーボードと指に任せてつらつらと書いていたら、結果的に信じられないほど長文になってしまいました。
しかし、これで「性欲」という名の乱麻が、少しはほどけたのであれば、それはたいへん嬉しいことです。出来ていればいいが…

(以上です。ここまで読んで下さった皆様方、誠に有難うございました。お疲れさまでした)

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