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数学(2023/2/26):記号をゲーデル数ではなくもっと弱い何かで代替した方が良いのではないか

1.自然数(より正確には正の整数)と記号を一対一対応させるゲーデルの「ゲーデル数化」のアイデア

記号というものは、どうにも謎のものです。

しかし、有名な数学者、ゲーデルは、面白い発明をしました。
0以外の自然数、いわゆる正の整数を、記号と全単射(一対一対応)させる「ゲーデル数化」というアイデアです。

ここでは正の整数には初歩的な数、順序数としての性質が含まれています(広義の個数=基数の性質は必要ありません)。
だから、
「何番目にある何らかのラベルが、すなわち何という記号である。
というか、元々の数学的対象と、番地として使われている正の整数の対が、数学的対象を表す記号ということにしてもいい。
いっそ、実務上は番地として使われている正の整数が記号であると考えても良い」

ということができるのです。

ここでは、記号は、ある意味、数です。

2.ちゃんと記号というものを捉えようとするなら、実は数として捉えるのではダメだったりするのでは?

ゲーデル数は対象に対して全単射である(一対一対応する)ラベルであり、ゲーデルの考える限りでは記号の正体とも言える代物でした。

が、対象記号は全単射(一対一対応)どころか、単に多価函数(多対多対応)であることしか保証されていないのではないのか? ということを考えると、この路線にも不安が生じてきます。

何かというと、日常生活では同じ対象を複数の記号で言い表したり、同じ記号で複数の対象を言い表したりすることは多々ある、ということです。「『今川焼』とか『大判焼』とか『七越焼』とかいろいろな呼び方で呼ばれている例の和菓子」とか、逆に「『花』が植物の器官の名前だったり曲名だったり人名だったりする」とか、そういうあれです。

そうである以上、ゲーデル数の全単射の箇所を多価函数まで弱めたなんかの新しい記号概念を用意しないと、現に使われている記号の実態というものを捉えそこなうのでは?
(そんな記号の一般的な運用にゲーデルが興味を持っていたかどうかは別として)

とはいえ、実際にこれで数学的に機能するようにするには、大改造が要るはずです。
この場合まず、全単射でなくてよくなるので、通常の連番は使いものになくなるはずです。
つまり、初歩的な数、順序数としての性質すら持たなくなるでしょう。
そうなると、記号の正体は、正の整数よりも数一般よりももっと初歩的な数学的対象になるはずです。

(とはいえ、説明しませんが、言語を言語たらしめる「記号や記号列を連結して別の記号列を作る演算」には、依然として正の整数が必要なので、記号の構成の際に正の整数が要らない、という話ではありません

3.ゲーデルの不完全性定理

そもそもゲーデル数化は、ゲーデルの不完全性定理に効いてくるテクニックです。
ゲーデルの不完全性定理とは、
「(自然数のある種の体系をゲーデル数化で翻訳したものを組み込んである)全ての体系には、証明不能な命題が常に存在する」
という、頭の痛い定理です。

実は、非常に面白いことに、
「自然数のある種の体系の中で、ある文と、その文をゲーデル数化したものを代入した、別の文があったとする。
両者が同値である事態を想定して、これをその体系の中で証明できる」
のです。
「この文は、記号化された自分自身について、なにがしかのことを言い表せている」
ということだと考えてもらえばよいでしょう。
これを自己言及文と呼びます。

すると、気持ち悪いのですが、「この文は証明不可能である」も自己言及文にできます。できますが、まあ気持ち悪いですね。
そして、ここからが困るのですが、同じ体系で同じ「この文は証明不可能である」

「この文が証明不可能であることは証明不可能である」
の同値、および
「この文が証明不可能であることは証明可能である」
の同値がそれぞれ言えてしまいます。
(「証明不可能」と言い張るためには「証明不可能であることは証明済」でなければならない。
同時に、「この文」が「この文が証明不可能である、という文」である以上、「「この文が証明不可能であること」は証明不可能である」という書き方はできてしまうし、これは避けられない)

文と否定文を同時に言える場合、それはつまりは矛盾した体系に他なりません。
「YESかNOかはっきりしないとダメ」

という立場を取った場合、これでは当然困ります。
ある記号体系が無矛盾であることにこだわる場合、「この文は証明可能である」ということを記号化してその体系の中に持ち込む路線は、非常に残念ながら、放棄せねばなりません。
(ふつうは、新たに証明可能性を記号化して持ち込むことより、現に今の体系が無矛盾であり問題なく使えることの方が、こだわりたいポイントであるはずです)

***

自然数のある種の体系「抜き」で作れる程度の数学体系では、そこまで実りのある数学はできません。
それに応じて、自然科学の記述も大々的に不可能になります。
これは困る。

でも、証明不可能な命題が常に存在する体系が、信用に値するか? 値しなくないか? と言われるのも、まあ分かります。
こんなもんで数学の全体を記号化できても、それが本当に数学を言い尽くせているということには絶対になりえない。
証明できないがために言いそびれている数学的命題が何かしらありうる
ということですし、それはその体系ではそもそも発見できないということですし、だからそういう脆弱性はなくせないのです。
数学における記号化を徹底して扱い切りたい学派(当時の数学界の西の巨人、ヒルベルトとそのシンパたち)にとっては、詰んでる。ということです。

4.タルスキの真理定義不可能性定理

また、ある意味もっと頭の痛い話もあります。
タルスキの真理定義不可能性定理、いわゆるタルスキの定理というのがあります。
真理を言い表している数学的対象をゲーデル数化したら矛盾が生ずるという問題です。

どういうことか?

「真理を言い表している数学的対象」
として、
「○○は××である。というのは真である」
という形の文を考えます。
長い長い哲学(真理論)の中間成果物によっても、率直に言って、真理とは何かについて直接語ることはできていません。
が、真理というなんかを想定したら、常に上記の文が正しいということは、まあ納得いくのではないでしょうか。
だからこれは、「真理のある性質について語った文」と呼べるものになります。

で、当然この「真理のある性質について語った文」をゲーデル数化してみたくなります。
さっきの自己言及文に、ゲーデル数化した「真理のある性質について語った文」をあてはめたら、体系の中に真理のある性質を持ち込めたということになります。大成功!

といいたいところですが、これは矛盾をもたらす重大な例外が存在するため、成立しないことがわかってきます。
これがタルスキの定理の意義です。

「この文は嘘である」
という嘘吐き文を考えてみましょう。
これを、真理のある性質について語った文に代入すると、
「この文は嘘である、という文は本当である」
という、またしても気持ち悪い文ができてしまいます。
真理のある性質について語った文に、嘘吐き文を代入していいのか? と一瞬思ってしまいますが、まあできるのでやってしまいます。
さっきの話だと、こんなねじくれた文を言い表す自己言及文もやはり探せば存在するし、それは体系の中で証明できるのです。
さて、嫌な予感がしますが、どうなるかだけ書きますと、
「この文は嘘である、という文は本当である」

「この文は嘘である、という文は本当である、という文は本当である」
の同値、および
「この文は嘘である、という文は本当である、という文は嘘である、という文は本当である」
の同値がそれぞれ言えてしまいます。
(「嘘」と言い張るためには「嘘であることは本当」でなければならない。
同時に、「この文」が「この文が嘘である、というのは本当である、という文」である以上、「「この文が嘘である、というのは本当である、という文」は嘘である、という文は本当である」という書き方はできてしまうし、これは避けられない)

またしても矛盾しています。これが困るなら、無矛盾か、真理のある性質について語った文の記号化か、どちらかは諦めねばなりません。
さっきと同じ路線で行くと、真理のある性質について語った文を諦めることになります。
真理の性質の文の具体例にはこういう重大な例外があり、だからこれを使うことはできないのです。

勘弁してほしい。
証明不能
である以上、「ちゃんと証明しても何らかの答にたどり着けないことがある」のです。
真理定義不能である以上、「どうせその答は常に成り立つ真理などではありえない」のです。
「体系が無矛盾である、つまりYESかNOのいずれかが必ず言える以上、この二つはそういうものだから諦めろ」ということです。
そもそも真理を記号化して持ち込めないし、さらには何もかも証明しきれたりはしない。となると、たとえ無矛盾であろうが、そんな体系、そもそも、信用ならないぞ。と、そういう不信の目で見られても、ある意味しょうがないのではないでしょうか。

というか、自然数を使うとこうなるのか?
ほとんどの体系が、真理を持ち込めないし、たどりつけない答を前にしたら無力なのか?

そんなに事態は深刻なのか?
それでは、自然数を使う体系、何も信頼できないんじゃないのか?
ほとんどの数学や自然科学の厳密な正しさ、ほぼまるっきり保証されなくなるんじゃないのか?

冗談じゃないぞ。

5.多価函数による新しい記号で、ゲーデルの不完全性定理やタルスキの真理定義不可能性定理を克服出来たら嬉しい(果たしてそんなことができるのか?)

んで。(ここからは寝言みたいな思い付きです)

こうなってるのは、ひょっとしてゲーデル数による記号概念の部分が悪さをしているからなのでは? (していないなら言いがかりになってしまいますが)

だとしたら、新しい記号概念を使えば、ゲーデル数による悪影響をなくせて、ゲーデルの不完全性定理やタルスキの真理定義不可能性定理を弱くした定理を作れて、何らかの成果が出るのでは?

できれば
「ちゃんと真理を新しい記号概念で記号化出来た」
とか
「新しい記号概念なら自然数のある種の体系を使っても命題は全て証明可能になる」
とかだと、非常に有用性があるのですが…
(じゃあやお前がやれよ)(やってる暇も気力もねえんだよ)


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