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随筆(2022/10/24):自尊心や自信がないと、謙虚になるかもしれないが、卑屈にもなるし、他人の善意が全部悪意に見えてくる_2.善意で指導することに真剣ならば、感じるのは誇らしさより何より、まずは責任の重さではないのか

2.善意で指導することに真剣ならば、感じるのは誇らしさより何より、まずは責任の重さではないのか

指導して善導すると、自分が他人と世間に貢献したような気がして、手ごたえと誇らしさを感じる。
という人、います。

まあ、本当に貢献しているのなら、それもいいでしょう。

***

ですが、その人に一度訊いてみたいのです。

「誇らしさを感じるのは、そういうものなのだと理解はできます。
ところで、責任の重さとかは感じるものなのですか。
それは誇らしさ「より」強く感じるのか、それとも誇らしさ「の方が」強いものなのでしょうか?」

大事な問いです。
ここで
「責任は重いが、誇らしさの方が、やはり強いね」
と誇らしげに答える人、個人的にはだいぶ厳しい気分にさせられてしまいます。

指導をやっているのは自分であろう。
が、ここで重要な人は、当然ながら、相手、ひいては相手が貢献している場の中の人たちですよね。
自分じゃあないでしょう。
自分の気持ちの方が重い、ということを言っている時点で、相手や場は添え物になっている。
それを、指導や善導とは、よもやいうまい。
それは、単なる、我意(害)の垂れ流しだ。

指導って、責任を終えない他人に何かして、他人の責任を自分も部分的に負う話じゃないですか。
「ああ、面倒くせえ。
俺は他人に責任なんか持てんぞ。
でもこれやったら責任が生じてしまうんだよな。
それに、他人のために、コスト割いて手を動かして、しかも
「テメーに責任があるんだよ。やって当たり前やろ」
と言われたら、まー愉快ならざるよ。
やりたくねえなあ。
だが、相手と、相手の貢献する場のためだ。そしてそこは何なら俺の場でもあるんだ。
じゃあ、やるしかないだろう。」
とか、その辺の思考がシリアスに生えて来なかったのだとしたら。
それは、自分がやっていることが、指導という行為が、ちゃんと分かっていないのです。

覚悟を決めてやることで、慣れてきたら成功と失敗の体験が積み重なるからだいぶスムーズになってきて、これらについてもそこまで考えなくなります。
だが、慣れる前は、まずはこういう感情になるのが自然なのではないでしょうか。

だから、初手からやりたくてやるやつはあまり信用ならないのです。
「他人の責任を自分が部分的に負うことの怖さ? 何言ってるのか理解できません」
という態度で、他人に責任を部分的に負う指導なんか、やらないでほしいものだ。

(続く)

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