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随筆(2020/7/28):才能→風格→自信→魅力→ロマンティック特大感情(1)才能から風格に持っていく

0.はじめに

しばらく書いてては、ああでもない、こうでもない、と直している記事の原稿があり、かれこれ半年が経とうとしています。

何かというと、「自分や相手の気持ちがある中で、どうすれば相手と付き合い続けることが出来るか」という記事です。

うわっ生臭い! 鬱陶しい!

そうなんですよ。だから脱臭にものすごい時間がかかっているのです。

(というか、本当は私のお見合いの失敗の教訓を集めたものになります。この失敗を活かせば、次はもう少しマシになるのでは、ということです)

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またお見合いの変遷があって、転ばぬ先の杖のようにその記事原稿を読み返していましたが、手直しがありました。

このままでは、元の原稿を公開出来るの、だいぶ先になっちゃうので、メモも兼ねて、小出しにしていこう、という気持ちもあります。

今回のテーマは、「才能→風格→魅力→ロマンティック特大感情」です。


1.子供の仲間内での立ち位置を得るための、ある種の「才能」

ドブのような話をします。

恋愛以前は、たいていは仲間内との社交や処世をしなければなりません。小学生でも、ストリートチルドレンでも、そこはあまり変わらないところでしょう。

これが出来ないと、社会生活に引きずられて、生存そのものが不利になります。

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非常にプリミティブな話をすれば、子供は、粗略に扱っても構わないと認識した相手を、特に歯止めなく粗略に扱います。

「遠慮しなくていい」と思い込んでいる人のやる剥き出しの「粗略」、かなり危険ですよ。

大人の考えるような制約が働かないし、あっても逆張りして蹴飛ばすんだから、大人の虚無(シャバ)い想像を、軽々と呆気なく絶する暴行陵虐が、ふつうに起こりうると考えるべきだ。

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そういう状況における「才能」とは、何か。

それは、仲間内での社交や処世を容易にするための、立ち位置の確保のための手段としての「才能」である。ということです。

えげつなく言えば、仲間内での社交や処世に効いてこない才能の話は、ここではいかほどの価値もない訳です。

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仲間内に存在している状態
→仲間内での立ち位置を確保したいという動機
→そのために効き目のある限りにおいての才能
→実際の仲間内での立ち位置

こういう関係があると思って下さい。


2.才能と立ち位置が一体化したものとしての「風格」

ここから、嫌な話をしなければなりません。

つまりは、単に才能がいくらあっても無駄で、それは仲間内での立ち位置に効き目のある才能でなければならないし、それは実際に、仲間内での立ち位置に効いていなければ意味がない。

逆に、メチャクチャイヤな話をしますが、仲間内での人気者は、どんなやつだったかというと、たいていは、
「こいつは遊んでて楽しい」とか、
「こいつは話してて楽しい」とか、
「こいつは陽気で面白い」とか、
「こいつは人を和ませる愛嬌がある」とか、
「こいつはカッコイイ」とか、
「こいつは運動神経が優れている」とか、
「こいつは断固やっていく度胸の持ち主だ」とか、
「こいつは頭がいい」とか、
「こいつはリーダーシップがある」とか、そういうのだったでしょう。
これらの才能がない人気者、いたとしても、それはなんかさらに別の才能があったからです。才能のない人気者? そんな人が本当にいたのか? いなかっただろう?
これは、才能であると共に、それに基づいた、肯定的に承認された立ち位置でもあります。というか、こういう在り方なのだから、才能と立ち位置は区別できない。

こうした、才能と、肯定的に承認された立ち位置が一体化したものを、個人的には「風格」と呼びたい。
「こいつは、それなりの風格があり、少なくともザコではない」と思われたら、その人は「それなりにはすごい人」になる。
これで、そのうち、揺るぎない「自信」で、自分を支えられて、立てるようになる。
また、仲間以外にも「魅力」として評価されるようにもなりうる。
こうなったら、恋愛以前の人間関係では、ある種の「和了(あがり)」の役になります。

仲間内に存在している状態
→仲間内での立ち位置を確保したいという動機
→そのために効き目のある限りにおいての才能
→実際の仲間内での立ち位置
→才能と立ち位置が一体化したものとしての風格

こんな感じ。

(また長くなりそうな気配があるので一区切り)

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