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日記(2024/6/11):数学独学で大きな一里塚を越えた


1.数理論理学の本を一通り読み終えた

今まで浴びるほど数理論理学の本を読んでいましたが、ようやくこれらについて
「一応しゃぶっておきたいところは全部しゃぶった」
と言えるようになりました。

2.数理論理学は数学においてどういう立ち位置か

2.1.裸の論理学を道具として見慣れた数を作る

論理学というと
「彼は座っている、などのふつうの文は、正しいか誤っているか論じることができる」

とか
「AとBが正しいなら、AまたはBは正しいし、AかつBも正しい」
とか
「正しい前提があって、正しい推論をして、正しい結論を出す」
とか、そういうことが連想されます。

***

数学と関係のない、初歩的な、いわば裸の論理学で扱うふつうの文なんらかの性質を表わしており、上のたとえで言うと
「座っている『性質』の人の『集合』
とか
「彼が座っている人たちの中に『所属』しているということ」
とか
「座っている人たちの中の『要素』としての彼」
とかについて想定できます。
物事を言い表す際に、上の『集合』『所属』『要素』の三位一体セットの話はしばしば出て来るものです。
これを推し進めて考えると、物事を言い表す時に、それを
「なんらかの性質を持つ集合か、その要素」
とみなすことが、ふつうは可能だったりします。
逆に言うと、論理学は集合についての説明として使えます。

物事を、「なんらかの性質を持つ集合か、その要素」として表現できる。
差し当たり、抽象度の極めて高いものである数学的対象を、「なんらかの性質を持つ集合か、その要素」で、概ね言い表すことが可能なのではないか?

これは、実際に、できます。
集合・所属・要素等の概念を以て、数学のほぼ全部を記述できる、集合論というジャンルがあります。数学において非常に根本的なジャンルです。

いろいろなものを作る際に、集合にいくつか性質を付け加えたくなります。
「ある性質のものだけを持つ集合を認めろ」(今まで言ってきたことです)
「空の集合を認めろ」
「複数の集合の要素だけを抽出した大入りの集合(和集合)を認めろ」

などなどです。
実は、これらの追加条件により、我々にとって見慣れた自然数が構成できます。

2.2.見慣れた数やそれ以前のいろいろを使って、見慣れた数学を作る

自然数を作るにはまあまあ根気のいる工程が必要なのですが、ちゃんとやっておくと、数学を構成するのに便利なたくさんの道具が得られます。

そして、これらで見慣れた数学を構成したくなります。

「裸の論理学や、その成果物でもある集合論で模倣された、似せ物の数学が、果たして本当に数学と呼べるか?」
という問がありえますが、これは
「数学的対象に期待される性質を満たしているなら、その論理学や集合論での説明は、その数学的対象を説明したものとして扱う」
という割り切りで考えます。
そうだとしたら、正にそのように数学的対象を構築していて、上手く行っている場合、申し分なくそれは目当ての数学的対象と見なせる。

一例を挙げると、これまでの道具を上手く使うと、数学における多種多様な抽象的な空間が構築できたりします。
数学における空間や、その中の図形等を扱うジャンルを、幾何学と呼ぶのでした。

小学校で学ぶ算数においては、様々な図形を扱います。
数の非常に初歩的なもの、自然数は、もう作れました。
様々な抽象的な空間も作れます。
では、図形について考える時に、非常に初歩的な、しかしかなり考えやすいもの、例えばについて考えたくなります。
これもゆくゆくは作れるのですが、線の持つべき性質を捉え切るために、以下の工程を踏まねばなりません。

2.3.見慣れた数学を使って数理論理学を作る

さて、今まで裸の論理学を振り回して数学を作っていたのですが、ここで別のものを作ります。
裸の論理学は、裸の論理学用の言語や文や推論によって成り立つものです。
さて、今までの道具立てで、「論理学用の言語等の似せ物」を作ります。この工程に関する、数学のジャンルを、数理論理学と呼ぶのです。
まず、結論からいうと、これは作れます。しかもこれで裸の論理学に求められている性質は基本的に全て何の問題もなく実現されます。

このこと自体が素晴らしい。
論理学はある種の正しさに関する学問です。
もし自分の成果物によってラップされて、なんかどうしても挙動がおかしかったとすれば、論理学か、その成果物か、要するに元はと言えば論理学がおかしい。
でも、まともな挙動をする論理体系が得られている以上、元々の論理学のおかしくなさは、かなり保証されている、と言えるでしょう。

2.4.数理論理学によって数学の理論を作り、従来の論理学や数学では解けなかった問を解く

さて、数学的対象によって模倣された論理学、数理論理学には、ある応用があります。
論理学で数学的対象を模倣できるのでした。この数理論理学を使うと、数理論理学によって模倣された数学的対象が作れます。
具体的には、その条件となる前提一式を設けて、そこからもたらされる帰結一式の集まりを考える。
これで、数理論理学の道具立てにより、数学的対象の似せ物を記述した、つまりは作ったことになる。
この前提と帰結の一式を、(数理論理学における)理論と呼びます。
数理論理学のまともさにより、理論のまともさも、かなり保証されます。
最終的には、様々な個々の理論の寄せ集めによって、数学全体を理論と化し、数学の理論を作ることすら可能です。

では、何故そんなことをするのか?
1つは、既に述べたことと同じ論法になりますが、ここで問題なく数学の理論が構成できたら、それは途方もなくまともな数学として扱えるからです。
もう1つは、裸の数学的対象をいくら眺めても分からない性質が、数学的対象の理論を見たら、明らかになることがあるからです。

***

今回紹介するのはススリンの問題と呼ばれるものです。

自然数よりだいぶ高等な数の概念として、実数があります。学校でやったことで、なんとなく覚えているかもしれません。
これは、数学的空間を追加で考慮した結果、ある種の線、数直線として捉えられるのでした。
これがあれば2次元グラフや、日常生活でいつも見ているであろう3次元ユークリッド空間や、さっき触れたように我々にもなじみ深い図形が作れるという寸法です。
数直線が構成できれば、小学校で扱う数学的対象を、最終的には構成できた、と考えて差し支えないところです。

さて、数直線に期待される条件を羅列したくなります。
そしてこの時、
「羅列したは良いが、本当にそれは必要な条件なのか、もっと弱い条件でもよいのではないか」
という問題提起があり得ます。
今回の事例で言うと、
「数直線に対して求める条件をもう少し弱めることができるか、できないか」
というのが考えられます。
数直線に対して求める条件を弱められないなら、条件を弱めると数直線より弱い何かができるはずです。これをススリン線と呼びます。
条件は弱められるし、数直線「より弱い」ススリン線は生じず、それは結局数直線と同じものになる、というのがススリンの仮説です。
条件は弱められないし、ススリン線は生じ、数直線より弱くなる、というのがススリンの仮説の否定命題です。
ススリンの仮説と、ススリンの仮説の否定命題、どちらが正しいのか、という問がススリンの問題です。

***

ススリンの問題を、数理論理学で調査すると、三つ意外なことが分かります。

数理論理学で集合論の理論を作ることも可能です。デファクトスタンダードとなる集合論、ZFCの理論もです。
ZFCは数学における多くのものを表現できる集合論で、これを理論とした場合、やはり数学における多くのものを表現できます。
ZFCの理論からススリンの仮説またはその否定命題を証明出来たら、それは直ちに答が得られたと言って差し支えありません。
ところがなんと、どちらも証明出来ません。
ある命題から別の命題が証明できないこと「を」証明するプロセスは独立性証明と呼ばれます。
ZFCの理論からの独立性証明は、当然ながら熱心に行われたテーマで、結果として、有名な謎めいた命題のいくつかは、ZFCの理論から独立であることが明らかになったのでした。
ZFCの理論は、数学の多くのものを描けるほど万能ではあるものの、全てのものを描けるほどには全能ではなかったのです。
ZFCの理論から正誤のいずれも証明できない命題があり、だから判定もできない問題があり、ススリンの問題は正にそういう問題の一つなのでした。

困ってしまいますが、もう少しヌルい手を考えることもできます。
ZFCの理論と、調べたい命題か否定命題が、矛盾しないかどうかを考えればよいのです。
片方が矛盾し、もう片方が矛盾しないなら、少し歯切れは悪いですが、前者が誤りであり、後者が正しい、と言えます。
ところがなんと、どちらも矛盾しないで成立する。ということが証明出来てしまいます。

三つめは、なんと
「それでも特段実務上は困りはしない」
という話です。
人によっては怒るかもしれませんが、
ススリンの仮説が成り立つ状況の場合、ススリン線の条件を満たせば成り立つし、ススリンの仮説の反対命題が成り立つ状況の場合、ススリンの仮説より強い数直線の条件を満たせば成り立つもの
を、数直線とすればよいのです。
数学でススリンの仮説が成り立つか、ススリンの仮説の反対命題が成り立つかは、数理論理学と、数学の大半を描きうるZFCの理論では知りようがないし、どちらが成り立ってもおかしくはないのです。
「状況を問わず、真実はどうであるのか」
にこだわりたくなるかもしれませんが、状況を問わないススリンの問題の真実、ひいては数直線の真実とやらを、我々は知りえないし、扱えません。
知りえないし扱えない真実にこだわってはいけません。知りえないし扱えないんだから、その奥のものについての説明は、ほぼ確実にデタラメになるでしょう。少なくとも、デタラメを真実と呼ぶな。くらいのことは言いたい。
だとしても、状況によって場合分けして、どちらでも扱えるようにはできます。それが、上のやや長い括弧書きの説明に他なりません。
状況を問わない数直線の真実は、分からないし扱えない。
だとしても、状況に応じた数直線の性質と、それぞれの状況は、分かるし扱えます。
そして、数直線分かるし扱える。
数学の実務上、大事なのは数直線そのものであり、性質の話は二の次です。
「ありうる性質には、状況によって左右される二つのパターンがあり、いずれにせよ適正な処理の上で数直線は問題なく成り立つ」
というので、実務上は全く問題なくなります。

2.5.数学の理論は、数学の素晴らしい代替物であり、他ジャンルに使い回せる

とはいえこの数直線は、実際には数直線の理論ではないか、これらを乱暴に同一視していいのか、という話はあります。

ただ、これを言い出したら、数学の全ては数理論理学で理論として描き直すことが可能なはずです。
むしろ、このようにして作られた数学の理論は、きちんと動作するし、謎もかなり明らかにされているし、素性もかなりまともな、数学の素晴らしい代替物して、大いに歓迎すべき代物でしょう。
これを例えば物理学の説明に使う分には何の問題もないはずです。数学の理論は、実用上無駄であるどころか、信頼性の保証された安全な道具となります。なくてもいいかもしれませんが、あったら嬉しい。そういう立ち位置に立つことができます。

数学は、他のジャンルの説明として多用されることで、ある種の立ち位置を確保している。それは事実です。
ならば、説明を必要としている側としては、道具としての信頼性が保証されているとなお有難い。という話があり、これを鼻で笑えません。

私がプログラマの頃は、周りにもいたんですよ。こういうのを笑う人が。
「プログラムは動くことが何より大事で、デバッグしてあるかではない。
何より、動いているということがプログラムの正しさの保証そのものであり、つまりは俺のプログラムは正しい。
デバッグ、開発期間と人件費の浪費。害悪」

という。
私個人は、デバッグは本当に正確な動作のために要ると思っているプログラマの端くれでありました。単体テストのテストケースはみっちり書いて動作確認する手合いなのです。

そんな私の思考では、数理論理学がデバッグ済みの数学なら、それは大きな有難味がありますよ。

2.6.数学における数理論理学の位置付け

数理論理学について考えないなら、数学の構成とその後の一般的な展開は、こうです。

論理学
→(説明の道具)→
集合論(の一部)
→(説明の道具)→
数学
→(説明の道具)→
物理学

数理論理学について考えた場合は、こうです。

論理学
→(説明の道具)→
集合論(の一部)
→(説明の道具)→
数学(の一部)
→(説明の道具)→
数理論理学
→(説明の道具)→
数学の理論
→(説明の道具)→
物理学

3.これからどうするか

3.1.長期的な話

さて、ようやく手が空いたので、別のジャンルをやります。
何か? ベクトルと微積分です。
数学の方の大事な道具であるこれらを、今までやれてこなかったのです。それはひどい。ちゃんとやろう。
(あと1つ、大事な道具である位相幾何学は、もうやりました。実はこれは数理論理学でも有用だからです)

3.2.短期的な話

それはそれとして、正直、ここしばらく数学書を読みたくないんですよ。(言いにくいことをあっさり口に出したなこの男)

んで、しばらくポケーとしていようかな、と思います。
パソコンやタブレットやスマホ(AmazonKindle閲覧のため)から離れて、疲れ目に蒸し小豆袋を乗せてリラックスさせて、緑や青空を見て、脳を休ませて。

あと、東京単身エスニック料理食べ歩きツアーを、2024/6/21(金有給休暇)-23(日)に計画しております。
その際、ネット上の知人と会ったりもします。楽しみです。

そうして元気になったら、また頑張ろうかな、と思うのです。

***

数学、やりたいように、しっかりやろうな。
そして、やりたいことをやって辛くてボロボロになるのは愉快ならざるから、楽しいことをやったり、健やかに過ごせるようにもなろうな。

さあ。
これからも、そこそこ長い間、人生だ。
頑張ろうな。

(以上です)


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