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〈intoxicate 148 特別版〉與那覇有羽ロングインタヴュー「暮らしのなかで育まれてきた与那国島のうた」interview&text:大石始

最新号のintoxicate148より、本誌およびMikiki(https://mikiki.tokyo.jp/articles/-/26797)には収まりきらなかった與那覇有羽さんのインタビュー記事を、noteにて特別公開いたします!ライター大石さんが、與那覇さんの魅力や与那国の音楽について深く深く掘り下げてくださいました。ゆっくりとご覧ください。

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 台湾からわずか111キロ。日本最西端の島である与那国島には、沖縄の他の島々とも異なる独自の唄文化が息づいてきた。そんな与那国の世界を瑞々しく描き出したのが、與那覇有羽の初アルバム『風の吹く島~どぅなん、与那国のうた~』だ。
 與那覇は1986年、与那国生まれ。琉球古典を学ぶために一時期沖縄本島に移り住んでいたこともあるが、故郷に戻って以降、与那国の伝承文化を探求し続けてきた。クバ(枇榔)を使った民具の製作にも励むなど、探求の対象となっているのは島の文化全般に及ぶ。
『風の吹く島~どぅなん、与那国のうた~』では与那国の暮らしのなかで歌われてきた多種多様な歌が、まるで島に吹きつける潮風のように大らかに流れている。自然体で伝承文化に取り組み、歌の楽しさを全身で表現する與那覇有羽にインタヴューを試みた。



――有羽さんは幼いころから祭りや三線に触れて育ったそうですね。

與那覇有羽:島に溢れてますからね、音が。じいちゃんが三線を多少弾けたし、母ちゃんも踊れたんですよ。

――有羽さんも小さいころから歌ってた?

與那覇有羽:歌っていたというより、お祝いのときに踊ったり、カンカンを叩いて遊んだり、そんな感じでしたね。僕自身は音楽は苦手だったんですよ。三線にとっても興味があったもんだから、一生懸命勉強したんです。

――高校は(琉球芸能を総合的に学ぶことのできる県内唯一の学科である)沖縄県立南風原高等学校の郷土文化コースに進学されたんですよね。

與那覇有羽:郷土芸能クラブがあるところはあるけど、授業で学べるのは南風原高校だけです。もともと高校に行かずに仕事をするか、専門学校に行くつもりだったんですけど、郷土文化コースのある高校があることを知って、おもしろそうだなと思って。

――もともと郷土芸能の道に進むつもりだった?

與那覇有羽:そんなつもりもなかったんですよ。プロのミュージシャンとして仕事にするつもりは今もなくて。だから、(今回のアルバムのプロデューサーである)小浜さんから「CDを作りたいと言ってる人がいるよ」と聞いたときも「本当に?」と答えたぐらい。酔狂な人がいるもんだなと思いました(笑)。

――じゃあ、音楽でお金を稼ぐつもりもなかったと。

與那覇有羽:そうなんですよ。でも、那覇にいるときに芸能の裏方の仕事を振ってくれる人と出会ったり、少しずつ音楽が仕事になっていくんですね。当時やってたのは音響さんの荷物運び。余興で三線を弾いたりもしました。

――当時はまだ高校生ですよね?

與那覇有羽:そうそう。高校生だったけど、酒の場で歌うので、お教室では教えないようなものも歌うんです。たとえば…(と、三線をもって下ネタを歌う)こういう歌でみんな大笑いするんですね。

――高校卒業後は沖縄県立芸術大学で琉球古典を学んだそうですね。

與那覇有羽:三線を弾くうえでひとつの目安になるのが、「地謡をできるか、踊りの伴奏をできるか」ということがあるんですね。島に帰ったときに踊りの伴奏ができないとだめだと思っていたので、だったら古典をきちんと学ばないといけないなと思って。民謡をやる場合も幕開けの古典2、3曲は弾けたり、舞踊曲は弾けないといけないんです。

――なるほど。

與那覇有羽:あとね、高校を出て島に帰るかどうか悩んでいたとき、いつもアドバイスをくれていた方が「あまり硬く考えないで大学に行ってみたら?」と言ってくれたんですよ。進学してみたらいい仲間や先生と出会えたし、そこから世界が広がりました。でも、その一方で島のことがずっと気になっていて。

――というと?

與那覇有羽:島から出てみると、僕自身のなかの与那国の要素がどんどん薄くなってる感じがしたんです。与那国と那覇では喋る言葉も違うし、このままここで暮らしていると、那覇の人みたいになっちゃうんじゃないかって。

――そのことに怖さがあった?

與那覇有羽:うん、ありましたよ。嘘っぱちを歌ってるなと思って。もともといつかは与那国に帰るつもりでしたし。

――与那国に戻ったのが2011年。琉球古典を学んだうえで与那国に戻ると、島の文化がまた違って見えたんじゃないですか。

與那覇有羽:ただ、僕の場合は琉球古典にどっぷり浸かれなかったんですよ。琉球古典に入り込みすぎると古典に縛られちゃうだろうし、自分は琉球古典ができる人間なんだ、という余計な目線が出てきちゃうと思うんですね。そうなると島の文化に対して真摯に向き合いにくくなってしまう。自分はよくも悪くも不真面目にやっていたので、それがちょうど良かったなと思う。

――アルバムの話に移りたいんですが、与那国のさまざまな伝承歌が取り上げられていますよね。与那国の歌の特徴とは、どのようなところにあるのでしょうか。

與那覇有羽:言葉自体が他の島と違うというのがひとつと、もうひとつは「三線の歌になりきれていない」というところですね。

――三線の歌になりきれていない?

與那覇有羽:与那国の歌はもともとアカペラで歌ってたんですよ。それが戦後になってから三線が入った形で録音されるようになった。他の島に比べると、録音されたのが遅かったこともあって、与那国の歌には雑多な部分がまだ残っているんですね。僕はそこに大事なところがあると思ってるし、魅力があると思っているんです。三線で歌うのもいいんだけど、アカペラならではの良さもあって、それは島の年配の方だと分かるんです。「昔っぽいね」という。

――言葉についていうと、沖縄のさまざまな言葉のなかでも与那国のものが一番難しいという話を聞いたことがあります。

與那覇有羽:普通は会話不能だと思います。何を言ってるかわからないと思う(笑)。単語がまったく違うんですよ。

――イントネーションも違う?

與那覇有羽:ああ、大きいですよ。最近仕事で石垣島に行ったことがあって、与那国で仕事をした経験がある人たちとお酒を飲む機会があったんです。僕は気を使って日本語っぽく喋ってたんだけど、「あんた、あーあーって(語尾を上げて)喋らないね? 通じるから普段通り喋っていいよ」って言われました(笑)。

――八重山の他の島とも違うわけですね。

與那覇有羽:そうそう、与那国は独特ですよ。与那国は喜怒哀楽すべてを「やー」という言葉ひとつで表現するんです。イントネーションを変えながらね。「たー」という言葉も前に促音が入るか入らないかで意味も違ったりする。

――那覇にずっといると、そうした細かいイントネーションやニュアンスを忘れちゃうわけですね。

與那覇有羽:うん、それはありますね。ちょっとしたことだけど、細かいところがとても大事。与那国でも僕ら世代は、そうした違いはそこまで分からないですよ。でも、お年寄りには分かる。このCDも最初、与那国出身の70代の方に聞いてもらったんです。したら、「歌はうまいとはいえないけど、与那国に住んでる人の感じが出てるね」って。僕にとってはそれが最高の褒め言葉なんです。

――それって一生懸命勉強してもなかなか習得できない部分でもありますよね。島で暮らすことで初めて身につくものだという。

與那覇有羽:そうそう。そういうことです。



――今回のアルバムには与那国に伝わるさまざまな歌が披露されていますが、1曲目の「どぅなんとぅばるま」は奥様である桂子さんとの掛け合い歌、それも楽器の一切入っていないアカペラですね。こうした掛け合い歌を歌ううえで、一番大事なこととはなんでしょうか。

與那覇有羽:息の合わせ方ですね。「とぅばるま」は石垣でも歌われているんですけど、そっちは切々と、朗々と歌うんですよ。だけど、与那国の「とぅばるま」は、もう少しリズミカル。ひとりが歌うと、もう一方は待たずに歌を続けていくんです。石垣のほうは優しくしっとり重ねていくような感じなんですよ。

――間を置かないことでリズミカルになっていくわけですね。

與那覇有羽:そうそう。与那国の「とぅばるま」はもともと畑で歌う作業歌だったんですね。でも、石垣のものは仕事が終わったあとに歌うものだったみたいで、そこも違う。冬の寒いなか畑仕事をするとき、黙って作業をしていると身体が冷えてくるじゃないですか。冷えないように声を張り上げ、歌を歌うんです。そうするとちょっとハイになってきて、トランス状態みたいになる。そういう状態で畑仕事をやっていくんです。

――「どぅんた(今日が日節~すゆりでぃ節)」は豊年祭など祭りの際に歌うものだそうですね。

與那覇有羽:祭りが終わったあと、みんなで手を繋いで踊るんです。中心になる人があるフレーズを歌うと、他の人が同じ調子で続いていく。そういう歌です。

――手を繋いで輪になって歌うんですか。台湾原住民の歌みたい。

與那覇有羽:以前同じことを言われましたね。踊り方も台湾の人が見ると少し似てるみたい。

――あと、今回のアルバムで驚いたのは、ヤマト(内地)から伝わってきた歌がたくさん取り上げられていることです。「六調節」は奄美大島の踊り歌として知られていますが、ヤマトグチ(標準語)の囃子言葉がたくさん入ってますよね。

與那覇有羽:ヤマト歌だからね。遊び歌だからいろんなお囃子を入れていくんです。たとえば…(三線を弾きながら)「みかんキンカン夏みかん/青いうちから見初められ/赤くなるのを待ちかねて/箱や籠に詰められて/駿河の富士山後見みて/東京新橋日本橋/吉原女郎屋に身を売られ/客の前では丸裸」みたいなものもあるんですよ。他の人はやらないけど、僕はウチナーグチの歌詞を入れたりもする。

――そういう歌詞は本来、即興的に入れていたもの?

與那覇有羽:そうそう。別の歌の歌詞も入れていくんですよ。物産展の客引きでやったことがあるんだけど、そのときなんかは「ちょっと待て待てちょっと待て/美味しいお酒はいらんかな」とやりました。お店の人からとても喜ばれました(笑)。

――香具師の口上みたいですね。おもしろい!

與那覇有羽:いずれにせよお教室では教えない歌ですね。沖縄の歌の大事なのは、即興で歌詞を入れていくところなんです。楽しい場だけじゃなくて、お葬式のときに歌うこともある。僕はそういう歌のあり方に楽しみを感じてきたんだけど、そういう風に歌える人が少なくなってきたんです。

――「ゆさぐい節」は高知の「よさこい節」が元になってるそうですね。

與那覇有羽:僕もびっくりしました。マイナー調の「よさこい節」も、沖縄に入ったら明るいメジャー調になるんですね。「六調節」や「ゆさぐい節」だけでなく、与那国にはヤマトのいろんな歌が入ってきたんです。

――与那国にはどうしてヤマトの歌が入ってきたんでしょうか。

與那覇有羽:明治に入ると、沖縄は琉球処分という形で日本に組み込まれていくじゃないですか。そのころ、沖縄の人たちが遭難して台湾で殺される事件があって、その賠償問題がもとになって台湾に攻めていくんですね。与那国から一番近い都会というと、120キロ離れた石垣、500キロ離れた那覇になるんですけど、台湾が日本に組み込まれると、与那国からたった100キロ少ししか離れていない場所に東京や大阪なみの大都市が生まれることになるんですね。そんな島にヤマトモンが入って来ないとは、まず考えられない。そんななかでヤマトの歌が入ってきたんだと思います。

*琉球処分/1871年(明治4年)、廃藩置県によって琉球は鹿児島県の管轄下に置かれると、1879年(明治12年)、政府は武力を背景に強制的に琉球を統合。沖縄県の設置を宣言する。一連の事件を琉球処分という。
*台湾で殺される事件/1871年(明治4年)の宮古島島民遭難事件のこと。同年12月、首里政府に年貢を納め、帰路についていた宮古島の船が遭難。台湾東南海岸に漂着したのち、生存者のうち54名が台湾原住民によって殺害された。この事件をきっかけとして、日本政府は1874年(明治7年)、台湾出兵を行った。

――西表島には炭鉱もありましたよね。九州から労働者が入ってきたという話を聞いたこともありますが、そうした炭鉱労働者が与那国まで入ってきたということは?

與那覇有羽:残された記録はないですね。ただ、(西表島炭鉱に)台湾人がいたという話は聞いたことがあります。彼らが与那国まで逃げてきて、島の人たちが追っ手から匿ったと。そのお礼として鐘が送られてきたそうなんですよ。戦争が始まると鉄が不足したことから、その鐘も持っていかれてしまったみたいで。

――へえ! それはすごい話ですね。

與那覇有羽:ウチナンチューや八重山の士族のなかにはヤマトの狂言を嗜んでいる人も多かったし、漁民の移動もあったわけで、さまざまなルートからヤマトの歌が伝わってきたんだと思います。

――ところで、今回のアルバムで初めて与那国の歌に触れる人もいると思うんですが…。

與那覇有羽:ま、そんな大それたことをしたという感じはないんですけどね(笑)。

――(笑)今後の活動についてはどう考えていますか?

與那覇有羽:(リスペクトレコードの)社長が与那国のわらべ歌に関心を持っているようなので、わらべ歌をまとめるのもいいんじゃないかという話も出てます。あと、コロナが落ち着いたら今回のレコ発ライヴもやりたい。興味を持ったら与那国にも遊びに来てほしいですね。歌ってくれと言われれば、いくらでも歌いますよ。このCDに詰め込みきれなかったこともあるので、島に来て歌を感じてほしいですね。


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■與那覇有羽プロフィール
1986年生まれ、沖縄県八重山郡与那国町出身の民具作家。幼少より昔ながらの物作りと島の芸能に囲まれて育つ。15歳の時に那覇へ移り、23歳に与那国島に戻る。クバの葉を使った伝統的な工芸品や民具、道具作りなどを行ないながら、祭や行事にて地謡を務める。唄や三線を奏でるほか、舞踊の与那覇桂子ら與那覇ファミリーとともに各地で演奏・講演などを展開。2020年9月に『風の吹く島~どぅなん、与那国のうた~』をリリース。

■大石始プロフィール
世界各地の音楽・地域文化を追いかけるライター。旅と祭りの編集プロダクション「B.O.N」。著書・編著書に『奥東京人に会いに行く』(晶文社)、『ニッポンのマツリズム』(アルテスパプリッシング)、『ニッポン大音頭時代』(河出書房新社)、『大韓ロック探訪記』(DU BOOKS)他。サイゾーで「マツリ・フューチャリズム」連載中。
Twitter:@OISHIHAJIME




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