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例えのありがたさ

難しい話を分かりやすく説明しようと、例を挙げたり、何かに例えてみたりすることがある。日本語だけの会話であれば、相手と文化的背景を共有しているので、理解しやすい。その例えがあまり的を射ていなくとも、雰囲気で理解できることもある。しかしこれが英語話者と日本語話者の会話の場合、例えがまずいとますます分からなくなってしまうような気がする。

以前アテンドしたある外国人クライアントは、とても理論的で分かりやすく英語で話してくださる方だった。内容が複雑で私が理解できない時は、もう一度ゆっくり説明してくださったり、例を挙げてもう一度丁寧に説明してくださる。しかし、この例がなぜか毎回、分かりにくいのだ。それまでの説明とその例が結びつかないというか、どう考えても例えになっていないのだ。申し訳ないが、その方の「例えばね・・・」が始まると私の心の耳がシャットダウンするようになった。
しかしまた別の外国人クライアントとスピーチの事前打合せをしている時に、「その表現はどういう意味で使っていらっしゃるのですか?」と伺ったことがあった。英語ではそういう言い回しをする、ということだったが、そのニュアンスを日本語で伝えようとすると、説明も入るので少し長くなってしまうし、日本人感覚ではピンとこない。同席していた別の英語話者が「それをそのまま説明したら良いのでは?」と言ってくださったが、スピーカーは「いや、そもそも日本語では一言で表現できないということは、日本人にはその概念が存在しないということなんだと思う。ならば無理してこの例を使わなくてもいいよ」と、違う表現に差し替えてくださった。

通訳者としては、もちろんこの二人目の方のような話し手だと嬉しい。しかし一人目の「例えばね・・・」も、その業界事情や文化的背景に私がもっとなじんでいたら、一見すると関係がない事柄をなぜ例として話そうという気になったのか、うっすらとでも理解できたかもしれない。(単なる思いつきでやはり関係がなかったかもしれないが。)いずれにせよ、理解し合えたとしてもそれはたまたま共通項があったからで、特に異文化間の相互理解はそれ相応の覚悟と準備が基本なのだと思うようにしている。

執筆者:川井 円(かわい まどか)

インターグループの専属通訳者として、スポーツ関連の通訳から政府間会合まで、幅広い分野の通訳現場で活躍。意外にも、学生時代に好きだった教科は英語ではなく国語。今は英語力だけでなく、持ち前の国語力で質の高い通訳に定評がある。趣味は読書と国内旅行。