外皮の音楽(映画『ニューオリンズ』讃)
いま Amazon Prime video で『ニューオリンズ』を観たばかりなのだが、まさか↑こんなヤバいシーンが含まれているとは思わなかった。
上に抜いた場面でのピアニスト氏は、ひとまずラグタイムを演奏できる程度には race music に通暁している白人である。が、その彼でさえサッチモの演奏に「ダイアトニックスケールに無い音じゃないか! 逸脱だよ、フラットとナチュラルの中間っていうか……その音楽専用の秘密スケールかい、まったく」と苦言を呈する。
ここでピアニスト氏が明らかに取り乱しているのは、彼が鍵盤で弾くラグタイム(プレ・ジャズ、とでも言おうか)の中に突如としてサッチモのブルーノートが侵入してきたためである。再度強調するがピアニスト氏はこの時代のアメリカ白人にしては開かれた音楽的感受性を持つ者であるにも拘らず、サッチモの吹いた「その音楽専用の秘密スケール」に含まれた音を「矯正」せずにはいられないほどの恐怖を覚えた、ということになる。いかにも、恐怖である。「そんなスケール外の音が含まれちゃ『カノン』みたいにきれいな和声が進行しないじゃないか」、という既成秩序への保守性に根差した恐怖だ。そんなピアニスト氏の焦燥を前にしてサッチモが自らの楽器に対して語りかける、「あの紳士が仰ったことを聞いたかい?」。
このシーンを初めて観た瞬間、私は熱した鉄板の上を歩かされる鶏のようになってしまった。なんだこれ、すげえ。西暦1947年4月公開の映画で、まだ第二次世界大戦決着から2年も経っていないはずのアメリカで、ここまでジャズのヤバさが的確に抽出され得たとは。もちろん上述のくだりに孕まれた明晰性は、「ジャズは精神的または文学的に弄ばれるものではなく、純粋に音楽理論的な事件だった。それは西欧が自家薬籠中の物とし自明視していた和声秩序を内側から喰い破る質の危険性を備えていた」という要諦をど真ん中で射止めたことに存ずる。「あの紳士が仰ったことを聞いたかい?」とご満悦に微笑むサッチモが見据えていた射程も明らかだ。「この紳士が取り乱すほどの音楽をさ、アメリカ中、いや世界全土に広げてしまったら、いったい何が起こってしまうのだろうね?」。実際に20世紀中盤以降の音楽史で何が起こったかはご存知の通りである。
さらに『ニューオリンズ』前半部、ドロシー・パトリックとビリー・ホリデイとの何気ない会話シーンから引用しよう。「あなたが弾いていた音楽はなに?」、「ブルースですよ」、「ブルース? 憂鬱なとき唄うの?」、「ただの呼び名ですよ、憂鬱なときでも恋しててもブルースは唄いますわ。今のわたしは恋してるんです」。
この会話だけですでに、ブルースを「奴隷として搾取される黒人の憂鬱が生み出した情緒的な音楽」としてのみ称揚する錯誤は遠ざけられている(当然ながら、私はブルースから黒人奴隷制という歴史的事実を切除しようと試みる者ではない。逆だ。もしブルースの音楽性を奴隷制に組み敷かれたアメリカ黒人の「ルーツ」にのみ求めるならば、それはフランツ・ファノンが指摘したとおり〝呪われた哀れなニグロの発するしゃがれた叫びといったジャズのカテゴリーが、白人たち──人間関係の一タイプ、ネグリチュードの一型式の、停止したイメージに固執する白人たち──の手によってのみ擁護される"、つまり奴隷制という厳然たる歴史的事実への罪責感が白人・黒人双方に染み渡った結果として音楽から政治性が削除される事態を正当化しかねない。その倒錯を許さないためにもブルースと「ルーツ」の癒着には多大な用心が前提とされて然るべきなのだ)。メイドとして働くビリー・ホリデイから正確極まりないブルース定義を示された白人女性、そしてサッチモのブルーノートに恐怖を掻き立てられた白人男性。この二段構えによって、20世紀における「黒人音楽」の事件性を過たず記録することに成功した映画が西暦1947年公開の『ニューオリンズ』だった、と2023年時点の私は結論せざるを得ない。さながら、正鵠だけで調理されたフライドチキンの山のような映画である(「黒人文化」とフライドチキンの関係性については述べるまでもないと思われる)。
正直なところ、「ジャズについて知りたいんなら、もうこれ観てりゃいいじゃん。古典に全部あるよ。わざわざ新しいの探しにいく必要なんてない」と思う。ことに西暦2023年時点での日本国においては、なんとジャズを熱血スポーツ漫画かなんかと取り違え、「内臓をひっくり返す」ような演奏を理想とする「ジャズ映画」がたいへんな喝采を浴びているらしいのだから。まあ、敢えてファノンを捩るなら、〝ネグリチュードの一型式どころか藝術一般への、停止どころか腐食しきったイメージに固執する日本人たち"がその「音楽への情熱」だとか「青い炎」だとかに浮かされて白人よりも凄惨な事態を21世紀に招来しはしないか、と肩を竦めておくことくらいは許されるだろう。ジャズは外側の皮膚を見せるための音楽である。身に衣服をまとって立っているだけの人間がどれほどの凄まじい音楽を生み出しうるか、その外皮のありさまだけでも凄まじいのに身体の内部ではいったい何が起こってしまっているのだろうか、という戦慄を外側の姿のみで惹起させうる音楽がジャズであり、「内臓をひっくり返す」ような真似はジャズミュージシャンどころか藝術一般に携わる人間とは何も関係がない。そんな弁えも無しに「あっやべージャズちょっと解っちゃったっ」と軽率に萌える程度の能しかないお手軽な輩どもは、どうせ音楽から受けた情動を正しく行使して自らの仕事に向かう(つまり、自分自身で新たな音楽を始める)ことすらできないだろうし、ジャズどころか軍楽隊のビートに指揮される一兵卒として、野戦場にて「内臓をひっくり返す」ことくらいが関の山だろう。智慧はそんなところには宿らない。もしあなたが20世紀に孕まれた音楽における最も豊かで危険な精髄を源泉から汲もうと望むならば、まず『ニューオリンズ』を観て、しかるのちサッチモやレディ・デイやエラ・フィッツジェラルドの作品群にふれるべきだ。
↑ところで、 note を検索するだけで件のセリフを「内蔵」と表記した代物が散見されるのだが、なんというか、これらの「映画評論家」の皆々様は、音楽を理解しないどころか母国語すらまともに操れなくなってしまったのだろうか? と思わざるを得ない。義務教育で習うとおり、月(にくづき)の部首は肉体にまつわる意味を漢字に付与する。その偏を欠いたまま〝「内蔵」をひっくり返すのがジャズなんだぜヤベーよな"と燥ぎ切っているこれらのお歴々は、文字通り肉体性から見放された人間たちであり、それはバード無しのジャズ史のように、または鶏肉無しの唐揚げのように空虚な存在であるに違いない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?