「ダサい人をバカにする服好き」と「高い服を笑う服に興味がない人」
衣服は“実用品”と“作品”の境界線上に存在する
わたしはファッションを極めてフラットに愛好しているつもりだ。ユニクロも着れば、マルジェラも着る。
四つ糸のついたシャツの上にユニクロのアウターを羽織ることもザラだ。
そんなわたしの周りにはおしゃれに傾倒し、月何十万円(あるいはそれ以上)も服に使う「服好き」も少なくない。
一方、そのすぐ隣には服に対して全く興味がない人もいる。袖を通すことができ、外に出られればそれで良い。そんな人もたくさんいる。ここでは「服に興味がない人」と呼ぶことにする。
しかし、この両者は共通して「衣服を身に纏う」という行為を日々行なっている。
ここで厄介なことが起こる。
服に出費を惜しまない・感度の高い一部の「服好き」が「服に興味がない人」に対して「ダサい」と言ってしまうことがある。
あるいは逆に一部の「服に興味がない人」が値段の高い服に対して「たかが服なのになぜこんなに高いのだ」と言ってしまうこともある。
両者はあまりに視点の違う話をしているため、このような決定的なすれ違いを生じさせる。
まず毎日「衣服を纏う」我々が理解しておかなければならないこと、それは『衣服は“実用品”と“作品”の境界線上に存在する』ということだ。
服は「まとうことで、身体を保護するもの」と機能的側面から理解するのが「服に興味がない人」。
服は「まとうことで、表現するもの」と芸術的側面から理解するのが「服好き」。
両者に優劣はなく、服をどのような側面から把握するかの違いだけが存在する。
大切なのは、ファッションを一義的に定義せず、互いの視野を持つこと。
衣服は実用品でありながら、同時に作品であるからこそ面白い。
衣服は作品でありながら、同時に実用品であるからこそ面白い。
そう思う筆者です。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?