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過去は全て過ちという受け売り / 覚えるよりも思い出すほうが大事

 2023年5月20日(土)。14時15分。

 こんにちは。井上和音です。

 何か急に「覚えている単語を増やして文章による表現力を高めよう!」とか思い付いてしまって、かつて買っていた「建築知識 2020年9月号 建物用語図鑑」をぱらぱら読んでみました。ところで2020年9月号ということは、カクヨムに再登録する前から「文章を綴るうえで単語の力は大事だから買っておこう」とか思っていて、更に言えばそのうちカクヨムに復帰することを心の中では願っていたのかもしれません。

 小説はもう二度と書けないと思っていながら何かしらの文章を綴っていく未来を実は過去の自分も希求していたというのは。なんというか、やっぱりどこかで諦めることも出来ていなかったのかなあと思ってしまいます。この文字だけのブログ『統合失調症(本物)になると、起こること。(雑記ブログ)(とうおこ)』の前半では「統合失調症になったら諦めることが一番大事」と何度も何度も書いてあると思いますが、諦めはしていたものの行動に移していないだけで。捨て去ることが出来たはずのことをまた結局拾い直すという行為に辿たどって今に至るのかなあと思っています。

 単語の話なのですが、「覚えている単語を増やして文章による表現力を高めよう!」と思ってしまったことにより、Amazonにおいてまた大学受験の参考書だったり、「TOIECプラスマガジン」という雑誌だったり、「法学教室」という雑誌だったり、分野を特に問うこともなくまた買ってしまいました。英単語を増やしてなんになるの、法学の入門書を読んでなんになるの、と冷静になって考えてみたらまた意味のない出費として加算されてしまうかもしれません。しかしながら、「建築知識 2020年9月号 建物用語図鑑」をぱらぱらと読んで楽しかったのは事実ですし、買ったものを廃品回収に出さなければまだ楽しめるものが本だったりするのかなと思います。

 統合失調症の話をすると、腕とデスクマットが湿気で吸着するたびに「違う違う」と聞こえてきます。

 「違う違う」と言えば、村上龍さんの「五分後の世界」をちょこっと読みました。「五分後の世界」は冒頭から読もうとしたら全く読めなくて自分の読解力の無さに悲しくなりましたが、自分流の読み方である「ぱっと開いてぱっと読む」を実行してみると、ぱっと開いたところが文体が全然違っていて面白く読めたので、ようやく「五分後の世界」の面白いところが読めたような気がします。

 なんで「違う違う」から村上龍さんの話になったかというと、あとがきで「書いている途中で目の前に設計図が具体的に現れて、文章を書いていて余分な文を書いていると『違うよ』と訂正を入れてくれる」と書いてあって、そういう現象に出会う作家さんも居るのだなあと思いました。自分の場合は名作でもなんでもなくただの統合失調症の幻聴に過ぎないのですが。

 なんか、名言っぽいことを2つほど思い付いつき、1つを会話文の中で紹介したかったと思ってなんとなくカクヨムを開いたのですが、書きたかった1つの名言っぽいことは忘れてしまい、いつか書くためのネタにでもしようと思っていた文章しか思い出すことが出来ません。あ、思い出しました。

 「覚えるのではなくて思い出す訓練をしろ」

 でした。思い出しましたね。思い出した、という言葉が二重に使われているようですがたまたまです。

 あと、2つ。また一つを思い出してしまいましたが、どうでしょうか、書いたほうがいいのでしょうか。

 もう思い出したので書いてしまうと、これは西尾維新先生の受け売りにすぎないのですが、過去という言葉にはあやまちという言葉を含んでいることから、過去は全て過ちなのか、という言葉ですね。端的に言ってしまえば、かつて書いていた【歌評】の記事を、その歌のYouTube動画のコメント欄に貼り付けていたのを、先ほどYouTubeで音楽を聴いている時に発覚しました。発覚と書くと今まで忘れていたかのような書き方になりますが、いや、忘れていました。放置していました。ただ、動画を開いた目の前に自分の歌評へのリンクが貼られているのは客観的に見て「これはダメだ」と思いました。その貼り付けたのは一年以上前と書いてあって、note ではなくてカクヨムのリンクだったわけですが、カクヨムではもう既に【歌評】の記事は全て下書きに戻してあるのでリンクの役割すら果たしていませんでした。

 とりあえずは早急に、コメントを消して、それでも過去の自分は何をしていたか、どこにリンクを貼っていたかも分からないので、YouTubeのアカウントごと全てを非表示にしました。これでコメントは消えてくれたはずです。

 統合失調症が発症した時は、「自分は王になるのだから自分の残した痕跡は全て消さなくてはいけない」とグーグルアカウントからクレジットカードまで全てを消し去り、破り去りをしましたが、それと似たような感じ……と言ったら統合失調症になりたての自分に「そんな軽い気持ちではなかったよ」と怒られてしまいそうですね。ただ、過去の自分の残してきた跡を今すぐに急いで消さなくてはいけない、といった感情は「本当にそれをしていいのだろうか。これまた統合失調症の症状と思われてしまわないだろうか」といった感情があったことも事実です。

 過去の自分と今の自分では価値観が全然合わないことが多々あるのが事実です。過去は全て過ちなのでしょうかという気持ちになります。

 過去の話はここで区切って、「覚えるのではなくて思い出す訓練をしろ」の話に移ろうかと思います。短く終わりましょう。

 「覚える」って具体的にどういう状態を表すのでしょうか。めると同じ漢字を当てますが、何か強烈なインパクトとして認知されることが覚えるという意味なのでしょうか。私はWISE-3の結果からも記憶の分野が非常に苦手なのですが、WISE-3の検査結果の前から「覚えるってどういう意味だ?」と疑問を持っていました。英語の Memorize なら意味が分かるのです。Memo- なので「具体的に言えばメモをしろ」という意味だと思われます。ただ、覚えろ、という日本語の単語はよく分かりません。覚えるという単語は「認知」→「思い出す」の二つに分かれるかと思われます。じゃあ、「単語をたくさん覚えよう!」と冒頭で思い立った時には、果たして具体的に何をしたら良いのか。結局のところ「認知」の段階では、目立つように色付けをしたり、繰り返しその記号に触れたりすることが工夫の一つだと思いますが、本当に記憶力が良い人は「思い出す」力が他人とは群を抜いて能力が高いのだと思われます。

 覚えるというのは勉強の成績に直結する力だと思いますが、具体的に訓練するならば、思い出す訓練を何回も何回もするのが実は脳にいい刺激を与える訓練なのかなと思っています。例えば、何回も何回も同じ単語をノートに書き殴るとか、実は苦労して努力して労力を使っているので「これが覚えるという動作の根源だ」と勘違いしそうな気がしますが、何回も書き殴ってもテストの時に思いだせなければ何の意味も無くなってしまいます。また、テストのレベルが上がっていくにつれて、「ただ見ただけで覚える」というくらいまで覚えることの効率化をはからなくては確実に勉強で挫折してしまいます。勉強する際には時間を掛けてじっくりやるよりも、「どうやったらこの単語を思い出すことが出来るだろうか」と思い出すことに自分なりの工夫をしていくことが、テスト対策の勉強なり私みたいに日本語の単語を多く覚えようかとするときに大事な脳の使い方の焦点なのかなと思いました。

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