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【小説】例え雨が放射状に降ったとしても。

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「どうして人間が一人もいないんだ!」
 私と正反対の色をした、黒のオーバーを着た男とすれ違ったとき、私はその男に声を掛けようと決心した。

 001

 六月の終わり、スラムダムアカデミーの廊下は、静かな雨音と、午後の語学へと向かう生徒で溢れかえっていた。

 そこに人はいなかった。

 私がそう思うと『よく来れたね』と声を掛けられたような気がした。

 振り向いても誰もいない。

『メルちゃん偉いね』また聞こえてくる。寒気と悪寒が走る。思わず首に巻いたチョーカーを握りしめる。


 私は常に幻聴と戦ってきた。ある日を境に世界が壊れた。知らない人が私のことを知っていた。世界中が暗号だらけになった。解かなければ、幻聴の地獄が延々と続いていくような気がした。私はある日、マンションの下の階の人にハッキングしているのではないかと苦情を言った。それからのことは覚えていない。いつのまにか補導に捕まり隔離病棟という名の牢屋に入れられた。

 私が壊れたのだろうか。
 違う私は壊れていない。
 壊れたのは世界の方だ。


 そして、私は世界に負けてしまった。
 耐えられなくなったのだ。なぜか相談する相手がいなかった。《《人ではない》》という拭い去れない感覚は、どんな魔法も化学も薬も私を救いはしなかった。

 雨が上がった日、メル・アイヴィー。
 草木をかき分け角ばった山の岬へと歩いてきた。
 何の思考もしていなかった。
 何も聞こえてこなかった。
 鷹を見た。なんで私は人間なんかに生まれてきたのだろう?
 言葉なんて雑音でしかなくて。
 私をここまで追いやった。
 本当に人間に生まれなければよかったな。
 次に生まれるときはヒヨコがいいな。
 そんな風に妄想して、涙が止まらないまま。
 何も付けずに、メル・アイヴィーは崖の下へと転落していった。


 002

 転落している最中である。
 遠くから、メル・アイヴィーの自殺ともとれる行為をもし眺めている人物がいたとするならば、きっとこう述べるだろう。
「転落している最中、白い何かは黒い闇に吸い込まれていった」
 まるで、救いを求める必然の方程式のように、あるいは磁石のプラスとマイナスが引き付けあうように。
 同じ性質を持ちながら、欠けた部分を持ち合わす。そんな出来すぎな出会いがあるということを、我々はいずれ知ることとなる。

 003


 私が目を覚ましたのは、白い天井のある空間だった。
 腕に何かが刺さっている。
『神さまー』幻聴が聞こえてくる。『神―神―神―』止まらない。止まらない。

「ああ、あああああああああああ!」私は髪をぐしゃぐしゃにして叫び声をあげた。


「あ、目を覚ましました? て。落ち着いてください。さくらさん。ゆっくり呼吸をして。はいそう。リラックスリラックスー」

 さくら?
 誰それ?

「違います、私の名前はメル・アイヴィー」

 すると目の前の看護婦は困ったような顔をした。後ろにいた白衣を着た男性が残念そうに首を横に振る。

「君の名前はね、しおしまさくら、言うんだよ。年齢は一七歳」

 違う。
 けれど抵抗する気になれない。何というか私の周りには大勢の人が集まっていて、全員が、私が塩嶋さくらであることを当たり前の事実として認識しているようだった。

 この世に人間なんていないのだから。
 人間に合わせる振りなら散々トレーニングしてきた。

 私は十月から二か月間そこの閉鎖病棟で療養を続けた。

 それから数ヶ月、自称親と呼ばれる人たちに二ヶ月ほど共に暮らした。

 三月。

 私は京都に旅立った。

 どうやら、同志社大学、というところの生徒として登録されているらしかった。


 004

 実験主体のアカデミーとは違い、座学が延々と続く講義地獄。

 中間テストというよくわからない、得体のしれない化け物が襲ってくる六月のことだった。

 湿っぽい雨が降っていた。
 新町キャンパス独特の新築の臭いが漂っていた。

 彼に出会った。

「どうして人間が一人もいないんだ!」

 心の底から這い出るような、それであまり人に聞かれないようにすごめた低く響く声で。

 黒のオーバーを着た男はすれ違った。

 私は思わず、オーバーに手をかけた。

 男の眼はすでに腐れていた。視点が合わない目で私を見た。

 が。物理的な事象が起こったことに驚いたのか、少し目を見開く。

 と同時に彼は笑った。

「どちらさん?」

「あなたの言葉を聞いて思わず止めました。私の名前はさくらと言います」

「あーそうかい。もううんざりなんだ。そうだな今日六月三日、誰かと出会うと言っていたな。それがお前か。じゃあ名のろうか。俺の名前はケイだ。ココロネ、ケイ」

 ココロネ、という言葉で漢字が思い浮かばない。

「心に音だ。実家が寺なんだ。ところであんたの恰好かっこうすごいな」

 恰好。
 いつか言われると思っていた。
 なのに誰も二ヶ月経っても一度も指摘をしてこなかった。人間が一人もいない証拠だと思った。
「このチョーカーは……大事なものなの。あと、いつも帽子をかぶっているのは」

 私は帽子を脱ぐ。編み込んだ髪の奥にリボンを仕込んでいた。

「このリボンを隠すためのもので。このリボンも大事なもので……あの訊きたいのですが」

 私は矯めて訊いた。

「あなたは人間ですか?」


 005

 ケイはハッと声を出し笑った。
「ついに到達したのかよ。あー地獄だったぜ。俺しか知らねえはずのことを逐一報告されるしさ。テレビとは会話ができる。ポケモンGOだって暗号を提示してくる。うんざりだ。いつ終わるのかと思っていた。やっと終わるのかよ。質問に答えよう。

 俺は人間だ」

 人間。
 世界を超えてようやく会えた。
「あ、あの新町キャンパスの食堂で少しお話しませんか」
 私はあわてて提案した。
 彼はフッとまた鼻息を鳴らして答えた。

「俺ももちろんそうしたいね。ちなみに俺のことはケイでいい」
 私は一瞬何のことか分からなかった。きょとんとしてしまった。
「ははっ。呼び名だよ。下の名前、ケイで呼んでいいって言ってるんだ」
 ケイはおおっぴろげな性格だった。
 ケイとは対称的に私はまだ本名を名乗れずにいた。


 そういうわけで、私たちは新町キャンパスの食堂に来ていた。
「俺はミールがあるからよ、奢ってやるよ」
 とのケイの計らい。

 私は焼きプリンタルトを八個お盆に乗せた。

 ケイのお盆がひっくり返る音がした。

 ケイの行動の意味はわからないけれど、ついでにサラダと佃煮もお盆に乗せた。

 私が席に着いた頃、ケイが恐ろしいまなざしで私を見ていた。

「お前、やっぱり人間じゃねえだろ」
 さすがにこの言葉にはムッとした。
 人間探しの最中の私が人間を否定される?
 たかが焼きプリンタルト八個食べるくらいで?
「私の名前はお前じゃない。私の名前はメル・アイヴィー。

 愛称はメル。

 ミライヴィーじゃないからね。繋げて読まないでね。ミロでもないからね。どこかのカルシウム粉末と同じにしてもらっても困るわ」

 打ち解けるには冗句が必要だ。
 以下の冗句は果たして通じるか。

「もしかしてプリンのことで驚いてるの? リボンという少女漫画雑誌で読んだわ。『少女とは神秘の胃袋を持った子猫ちゃんのことですって』」

「それは少女漫画雑誌リボンではなくて、少年漫画雑誌ジャンプの中の作品、リボーンに出てくる名台詞めいぜりふだ!」

 通じたか。
 これでお互い打ち解けたと思われる。
 だから本当のことを話そうか。

「私の名前はメル・アイヴィー。実は別の世界から来たの。そこで、いわゆる統合失調症になっちゃって、耐えられなくなって崖から飛び降りたの。そしたら……塩嶋さくらとしてこっちの世界にやってきたの。統合失調症をたずさえて」

「ふーん」

 全く驚いていない。
 その反応で分かる。ケイもまた普通でない人生を歩ませられているということを。

 あり得ない常識を過ごしているということを。

「自殺しちゃったんだね」ケイはぽつりと言う。「強いんだなメルは」

 強い? 私が?

「それと同時に無関心すぎるのかもね。メルはこう考えたことはないの? 《《自分が死ぬのと世界が終わるのとが同じ》》だっていう風に」
「いや、一回も」
 関係ないでしょう。世界と私なんて。

「観測者がいなくなったらさ、この世界あってもなくても変わらないんじゃないかって。統合失調症になって、まるで世界の中心のように扱われるようになってそう気が付いたんだ」

 だから、僕は自殺しない。
 世界を滅ぼすことと同義だから。

 ケイの言葉が私に突き刺さる。
 ならば私のいた世界は。
 今頃は。

「こんにちは」

 ふと。
 なんの前触れもなく。

 灰色の山高帽をかぶりステッキを携え、仮面をかぶった人間らしきものが、私たちの前に現れた。


 006

「私の名前はハイイロと申します。ケイさんの推理は大体当たっています」

 ハイイロと名乗る男が私たちの会話に割って入ってきた。

 唖然として見入る私たち。
「人間は時として取り返しのつかない過ちを犯してしまうものなのです。世界が明らかに自分に対する態度を変えたのならば、自分も世界に対する態度を改めなければいけない。なぜならば選ばれた可能性が存在するから。答えを言ってはダメなんですけれど、メルさんはどうせ死んでいるので答えを言います」

 その時気付いた。
 音がしない。
 どころか目の前のケイは目を見開いて止まっている。
 食堂にいる皆がすべて止まっている。
 私だけが認知できている。

「あなたは歌で世界を救うはずだった。あなたの歌声は戦争を止め、生命の息吹を復活させ、ラーベルをより穏やかな世界へと変えるはずだった」

 ラーベルとは私の母星のこと。

「見ますか? あなたの死んでから三十年後のラーベルを」

 見せてくれた。
 緑の星は茶色くなった。
 水が存在しなくなった。
 生き物がいなくなった。
 雨が降らなくなった。
 海がなくなった。
 雲がなくなった。

 何があったのかは分からないけれど、三十年後のラーベルは世界が終わっていた。

 私は首に巻いたチョーカーを握りしめる。
 父さんがくれた、真珠付きの黒いチョーカー。
 私はリボンを解いて見てみた。
 涙で滲んだ視線のその先には、母さんがくれたくれたリボンがあった。
 魔法のかかった、絶対に切れない世界で一つだけの大切なリボン。

 私とラーベルを結ぶもの。
 リボン。
 チョーカー。
 私の名前、メル・アイヴィー。
 ストレスで白くなったとされる髪の毛は、種族の誇りを表す、光を照り返す銀の髪色。

 私はすべてを失って、一人のうのうと別の世界で生き残ってしまったのだった。


 007

 説明が終わり、時が動いた。
 ハイイロは消えていた。
 私は泣いていた。
 声も出さずに涙が落ちていた。
 ケイから見たら急にほろほろ泣き始めたかのように見えたのだろう。「お、おい大丈夫か?」と柄にもなく心配の声をかけてくれた。

「ケイの言う通りだった。私は死んじゃいけなかったんだ」

 私はハイイロから聞いて、実際に見たラーベルの未来をケイに話した。歌声で世界を救うこともケイに話した。
「歌声ねえ……そんなもんで世界が動くとは到底思えねえが、俺の家で一回試してみるか?」

 ここは新町キャンパス食堂、ここで歌うわけにもいかない。
 それに先ほど見た映像も重なって、早く何でもいいから早く物事を進めたくて、二つ返事で承諾した。


 西陣。
 三階建ての鉄筋コンクリートのアパート。
 その一角にお邪魔した。


「さてと、何を歌うかなんだが……」ケイが思案する。
「俺の好きな歌はのぼる←さんの『ポジティブシンキング』っていう歌なんだが、PV見てくれるか?」

 夢ならありません!
 希望もありません!
 お金もありません!

 かわいい!
 かわいすぎるよ! 歌詞とイラストのギャップがすごすぎるよ!

「じゃあ、歌ってもらえるか?」
 私はうなずき、声に出す。

「夢ならありません!
 希望もありません!
 お金もありません!」

 そこまで歌った時だった。
 ケイがふらっと立ちくらんだ。

 えっ、と思い歌を止めた途端。
 私はケイに押された。
 グイグイグイグイ押し込まれる。
 私はグイグイグイグイ後ろ歩きで下がっていく。

 やがて壁まで到達した。
 それでもなおケイは私を押し続けた。
 思わずしゃがみ込む私。
 私は見上げる。
 ケイが見下す。
 ケイはそのままするするすると、私の顔の横までしゃがみ込んできた。
 ケイのあごが、私の肩に乗る。
 ケイは耳元でこう囁いた。

「絶対に助けてやる」

 008

 どうやら私の歌声は、ヒトの脳を麻痺させる効果があるらしかった。

 私の歌声を聞いたケイの瞳はとろんと溶けそうな、黒鉛筆で斜めに走り書きを繰り返したか後のような、魂のこもっていない眼になっていた。

 人前で歌うなど気恥ずかしい真似を全くしてこなかった私にとって、その現象とは衝撃的な出会いだった。

 だからと言ってケイを利用するわけにはいかない。

「待った待った待ったケイ。ケイ。ケイ。ケイは今催眠状態におちいったようなもので……、簡単に物事を決めちゃダメだよ」

「うん。そうだね。でも決めたんだ。僕はもう大学へは行かない。僕はやらなくてはいけないことを知っている。だから、それをやる。一ヶ月だけ時間をくれないかな。そしたら必ず、メルを助ける。メルがいた世界を必ず救う」

 ああ。
 思った。
 もうこれは止められない。
 幻術にかかったかのように。
 まるで運命に運ばれるように。
 ケイは言葉を紡いでいた。

 それからケイを大学で見ることはなかった。
 そして私も一週間程度で授業へ行くのを止め、図書館でひたすら本を読む生活へと切り替えた。


 一ヶ月が過ぎた。


 ケイから連絡がきた。
『やるべきことは終わった。またアパートに来てくれ。ハイイロに会いに行く』

 ケイのやることとは、『一冊の本を書ききること』だったらしかった。

 まだ『らしい』としか言えないものの、本人は確信を持っていた。

 ケイは能力として書くこと以外何も誇れるものがないと割り切っていた。
 だから辿《たど》り着いた生きる意味が『一冊の本を書ききること』だった。

 知らなかったがケイは二十歳の頃にオートマの免許を取っていたらしい。

 自動車でハイイロに会いに行くらしい。

 どうやって?

 自殺した私がハイイロに会えたのだから。
 ケイも自殺するとハイイロに会えるのではないかという算段だった。

「ケイが自殺するなら、私もいっしょに逝く。私もハイイロに会いに行く」

 私は選ばれし者の自覚をさすがに持っていた。
 死の経験で死ななかったこと。
 死んでしまって祖国を失ってしまった愚かさ。
 私はもう逃げない。
 それに今はケイがいる。同じく選ばれしものの仲間がいる。


 三時間かけてやってきた先は京都北部、若狭湾。
 海岸沿いに車を駐車し、大きなリュックサックを背負い、岸壁のふちを歩いて行った。

 飛び降りたくはない、とケイは言っていた。せめて原型をとどめたまま死にたいね、そう言っていた。

 岸壁の淵で、私たちは両腕両脚におもりを付ける。
 七月初夏の穏やかな海だった。小魚が群れを成して泳いでいる。ヒトデもいる。ウニもいる。

 私たちは生命の祝宴のなかをゆっくりと歩いて行った。


 頭の先まで海に浸かって三分ほどたっただろうか。ケイが私を抱きしめた。

 私も抱きしめ返した。このまま硬直するのならば、白衣と黒衣を身にまとった、海に沈んだギリシア彫刻のようになれるのかな、なんて思った。

 それは図書館で見た、地球の美しい光景の一つだった。


 意識が朦朧もうろうとし始める。
 波に揺られる意識の中で、視界が黒い泡でポツポツとさえぎられていく。

 黒い泡と自然の光の白が調和し、混濁する。
 視界が灰色になったとき。

「ワタクシに二度も会うのは歴史上あなたが初めてです。メル・アイヴィーさん」

 例の山高帽が現れた。


 009

 海にいたはずだった。
 若狭湾の底にいたはずだった、のだが。
 そこでは会話ができないからなのか。
 《《どこか》》にいた。
 多分、どこでもいい。
 隣にケイがいるのだから。

「お初に。心音《こころね》経《けい》さま。あなたも自殺したのですか」
「取引《とりひき》しにきた。ハイイロ」
「取引⁉」
 大きな声だった。そんなに驚いたのか。仮面で分からないが『そんな馬鹿な人間がいるのか』とでも言いたげな、焦りかただった。

「書ききったんだよ、ハイイロ。『僕たち昭和アクト』を書き終えて予約でアップデートを完了した。

 一九六四年東京五輪、一九七〇年大阪万博。そして二〇二〇年東京五輪、二〇二五年大阪万博。

 バブル崩壊を頂点とし、《《これら二つの時代の狭間に生きる俺らの将来を予測した小説を書ききった。》》

 俺、心音経は役割を全うした。違うか?」
「違います。まったく全うしていません」
 えっ。
 じゃあこの自殺の意味は。
「なんで自殺したのですか? ケイさんの推理はほぼ当たっていたのに。それなのにたかが一か月程度の人間の頑張りで役割を全うできるはずがないでしょう?」

「じゃあ二つの世界が滅んだだけ……」
 私がつい口を挟んでしまった。悲愴な現実を述べてしまった。

「そんなわけないでしょう。選ばれたにしては考えが浅いですね。今この瞬間も役割は続いているのですよ。だから取引という言葉ではなく、お願いでしょうね。ケイくん。君は何しにここに来た?」

「メル・アイヴィーをラーベルへ返してほしい。俺の役割やったことの分の報酬とでもいうべき何か。対価とでもいうべき何か、を使って」

「使わなくても返してあげます。

 メル・アイヴィーがラーベルへ戻る条件
 心音経が地球へ戻る条件

 それは、二人が同時に自殺すること」

「俺の頑張りは無意味かよ……」
「それは違いますよケイ君。人生で欠けていい時間なんて一つもないんだ。これは大切なことだから覚えておいてほしい。

 欠けていいことなんてひとつもない。

 覚えたかい? 多分、もう二度とワタクシ、ハイイロは君らの前に姿を現すことは無いだろうから」


「さようなら、メル・アイヴィー。心音こころねけい。それぞれの世界で選ばれた役割をしっかりと全うするのだよ」

 ハイイロは遠くへ離れていく。
 私とケイとの間に稲妻が落ちた。
 それと同時に空間が割れ始めた。
「ケイー!」
「メルー!」
 互いに手を伸ばすが届かない。
 それぞれに落ちていく空間に引っ張られていく。

「ケイー! 私、絶対ケイのこと忘れない。あなたのおかげで私は、世界は救われた!」

「メルー! もう一度でいい! もう一度だけでいいから、あの歌声を響かせてくれ!」

 互いは言いたいことを叫びあった。その後、その空間は闇に閉じられた。


 010

 朝。
 私はいつものようにスラムダムアカデミーへと向かう。
 いつも通り幻聴が聞こえる。なぜ昨日見たテレビの番組のことをお爺さんが知っているのか分からない。看板変わっていた。その看板からは、路上で歌え、という意味の暗号が読み取れた。

 いつも通り、人々というよりはメッセンジャー達は、抜群のタイミングで私にメッセージを送ってくる。

 嫌にはなるが、ある日を境に以前ほど嫌ではなくなった。

 なんというか、自分が選ばれているような、使命を果たさなければいけないような、そんな気がしているのだ。

 以前だったら本当に死を考えていた。
 今はどこから発せられるかは分からないが、発せられる使命を果たそうと前向きに捉えられるようになっていた。

 ただ一つだけ、願いが叶うとしたならば。
 このようにシステム化してしまった、周りの人間がただの暗号発信の機械に成り下がってしまったかのように見えるこの世界で。

 人間に出会いたいと強く思うようになっていった。

 それからというものの、ラーベルが滅びないようにという願いと、誰かに出会いたいと思うたびに小さく歌うようになった。

 それだけで、ラーベルは惑星全体で、徐々に戦禍の激しさを失っていった。


 011

 夜空を見上げた。月光のような蒼白い瞳をどこかで見たような気がした。

 その想像と同時に失われていたはずの、人間の温もりもまた、なぜだか思い出すのだった。

 蒼い瞳をしたあの人にもう一度会いたい。もう一度触れたい。

 その思いのために、月を題材とした小説を書いた。書いて書いて書いて書いて書きまくった。普通の人間では見えない存在を書いた。普通の人間では聞こえない声を書いた。自分が普通ではないことを書いて伝えようとした。

 その果てに、本当の人間に会えることをいつの日か信じられるようになっていった。


 012

 人間に出会いたいと、歌い続けることにした。

 空に向かって、天に向かって、どこかにいるはずの人間に向かって。
 私は歌い続けることにした。


 人々の脳は正常な判断を失っていった。やがてラーベル全体が進歩を止めた。惑星は原始時代に戻り戦争はおろか火薬兵器、鉄器も使うことができなくなった。

 メル・アイヴィーという伝説の歌姫はそれでも歌い続けた。本物の人間に会うために。自分の役割を超えて、心の中にある欠落した本当の人間の温もりを求めて。

 013

 人間に出会いたいと、書き続けることにした。

 誰に向かって書いているのかは分からない。地球上すべての人間が人間ではなく暗号を伝えるためのシステムとなってしまった以上、俺は一体誰に向かって書いているのだろう。

 人間がいることを信じて。

 もしかしたら世界が一つではないのかもしれない。メタな世界があるのかもしれない。

 そこになら人間がいるのかもしれない。

 ならば、そこにいると思われる人間に向かって。

 俺はここにいると発信し続ける。
 俺はここにいるんだ。
 生きて、いるんだ。

 014

 メルはいる。
 メル・アイヴィーはここにいる。


 015

 ケイはいる。
 心音経はここにいる。


 016

 ワタクシの名前はハイイロと申します。

 ワタクシは何者かと問われれば、ただの闇でございます。

 数百年に一度テストするのでございます。
 急なたとえ話になりますが、凄腕のピッチャーがいたところで、誰もキャッチができないのならばそのピッチャーは無駄骨となってしまいます。

 例えば人間が十しか知らなければ、無限の星空は単なる光点に過ぎなくなるでしょう。星図も星座も神話も創られず、ただあるだけの無生物に成り下がるでしょう。

 ワタクシがテストしたいのはそこなのです。

 ランダムに選んだ世界から、生物として正しいかどうか。無いということに気が付けるかどうか。それがワタクシが求める最大のテストなのです。

 さて、お二人はお気付きになるのでしょうか。

 なぜお二人を近づけたのか。

 メル・アイヴィーを統合失調症に追いやったのも、飛び降り自殺に追いやったのも、空間に闇を生じさせて、心音こころねけいのもとへと出会わせたのもすべてワタクシの策略にすぎません。

 そこまでは予定調和。

 メル・アイヴィーが飛び降りたあの瞬間、二つの世界は、人間が一人通れるほどの接点を得たのです。

 そして、後に二人は同時に自殺しワタクシと再会する。

 それを最後に、二つの世界は、ちょうど細胞分裂をなすかのように、メル・アイヴィー、心音こころねけい、二つの核を持ち合わせて徐々に離れて行きました。

 果たして二人は気付くでしょうか。

 互いの細胞の染色体には、一本ずつ欠けた染色体があるように。

 互いの心には、一つずつ欠けた存在があるということに。


 017

 私は一度だけ人間の温かさに触れたことがあるらしい。

 暗号で聞いたこと。

 でも私は定義した。この世界に人間はいないということ。

 じゃあ、その人は一体誰だというの?

 親でもない。友でもない。子供でもなければ自分でもない。

 他人という名の人間はどこにいるの。

 私は。
 希望を。
 絶対に捨てない。

 誰かの言葉が、一本の線として私に届いた。
心音こころねけいはここにいる!』
 ココロネ?
 誰なの?
 聞いたことあるその言葉。
 ケイ?
 私はケイと呼んでいた?
 ケイに対して私は歌う。
『メル・アイヴィーはここにいる!』

 言葉の束が何本も何本も何本も何本も私を貫いていく。
 人はそれを幻聴と呼ぶ。
 私はそれを信じた。言葉の束を信じたがゆえに聞こえるたびに歌で答えた。

 空の彼方から、誰かの言葉の雨が放射状に降ってくる。
 私も負けじと空の彼方へ歌の雨を放射状に降らしてやった。

 ハイイロはもういない。
 ハイイロがいたらこう言うだろう。
『まるで世界を頂点とするラグビボールみたいですね』
 言葉と歌のあめあられ

 一体いくら交わし続けたことだろう。

 ある日、遂に。
 放射状の雨が一束いっそくした。
 放射でいることに耐えられなくなった真実の言葉たちが中心へ収束した。

 言葉が現実を追い抜いた。

 私の部屋に、ある日、鏡のドアが現れた。

 開くとそこに、心音こころねけいが待っていた。

 018

「昨日の金曜ロードショー、紅の豚だったってね。ちゃんと録画撮ってある?」
 私は鏡を開いて、ケイに話しかけた。

 何でもないそんな会話が今の日常。


                (了)


☆☆☆
 
 (注意)

 この小説は2018年、統合失調症になってすぐの頃に書きました。統合失調症とはこのような特別な人間になったから、病気になってしまった、という作者の願望が入り混じっています。とにかくフィクションです。統合失調症になったからといって、このような冒険談や特別なことは一切起こらないことを考慮に入れてもらえると、作者としても助かります。

 この小説には実在の団体、組織名などが登場しますが、中傷する意図や攻撃する意図は全くありません。また、自殺をする場面などが描かれていますが、そのような行為を助長する意図もありません。ただのフィクションとして、現実から乖離してお楽しみいただけたら幸いです。

☆☆☆

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