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映画館で観る『ショーシャンクの空に』

先日、映画館で『ショーシャンクの空に』を観た。都内に住んでいる頃、映画館といえば週に一回は行っていた場所だが、山奥に越してきてからは車で1時間ほどかかることもあって、1、2ヶ月に一度くらいには減ってしまっていた。

今、映画館の話をしようか、『ショーシャンクの空に』の話をしようか迷っている、とりあえず『ショーシャンク…』の話を、


『ショーシャンクの空に』とは1990年代前半に劇場公開されたアメリカの映画で、ティム・ロビンス、モーガン・フリーマンという名俳優によって描かれる刑務所内での人間ドラマを描いた傑作。

映画好きなら一度は見たことがある作品だと思うし、1番好きな映画作品だ、とういう人も少なくない。

(…しかし最近は本当に価値が多様化しているのと(良いこと)、自分が30代の半ばに差し掛かろうとしていることによって、自分の普通がかなりマイノリティだと思っておかないと、認知のギャップが多発することに気付いてきた…話を戻します。)

この作品、僕はとっても好きで、はじめに見たのは多分中学生のときだろうか、近所のレンタルビデオショップで借りたのだろう。兄が好きだと言っていた気がしてる。その後、この映画を繰り返し見ることになるほど好きになるが、その事自体、つい最近まで忘れていた。

当時の感動体験は、正直一切覚えていない。覚えているのは刑務所長役の俳優(ボブ・カントン)を嫌うレベルでトラウマ的憎しみを感じたこと。それと、この作品を好きだと言った兄の誕生日に『ショーシャンク…』のVHSをプレゼントしたこと。今思うと、なんとも小気味悪い、いや背伸びした中学生だな、と思うが、きっとまっすぐな気持ちだったんだろう。「この映画、最高だったよ」と伝えるためだったと思うし、何度でもこの映画を観るために兄弟の所有物として購入した、という意味合いもあるだろう、けれどとても感動した、ことに変わりはない。し、なかなかいい兄弟関係だ、とも我ながら思う。


それだけ好きだった映画作品だけど、なぜか頭からスッと抜け落ちていた。ともいえるけど、本質的には、血肉となって僕自身を自然と支えていた、ような気がしてならない。ということに劇場でこの映画を観て気付いたのだった。



映画の内容を話さずに説明するのは難しいので、wikiを引用する。

刑務所内の人間関係を通して、冤罪によって投獄された有能な銀行員が、腐敗した刑務所の中でも希望を捨てず生き抜いていくヒューマン・ドラマ。

そう、この主人公アンディの希望を失わない様子、確かに尊敬するのだが、僕はどちらかというとアンディの周りの囚人同様、戸惑いながら見守っていた。
あの絶望の連続の中、そんなに希望、持ち続けられるん?普通は無理っしょ。と思ってしまう。それはやはりアンディのすごさだし、ファンタジーだし、ということになってしまうが、僕が何よりも心を奪われたのは、アンディが希望を持ち続けること、それを可能たらしめていた「精神の自由」の大切さだった。

アンディは「精神の自由」を心底信じ、諦めなかった。例え肉体的には自由がなく、あらゆる暴力にさらされながらも、「精神の自由」を守り抜いていた。
その象徴的なシーン、あのレコードのシーン、僕は一番好きです。ラストよりも好きかも。

彼は音楽や、本や、彫刻や、あらゆる文化・芸術が「精神の自由」を守る砦になると信じていたに違いない。例え囚人であれ、「精神の自由」は誰にも侵されてはならない。彼はそれを守り切ることで自我を保っていたようにも思う。


なんとなくその様子を20年後に久しぶりに観て、なるほど、良い作品に出会ったなあ、と感じたのでした。これからも「精神の自由」を守りぬきたいし、その砦である、あらゆる文化活動に感謝し、出来る限りの助力をしていきたい、と思ったのです。映画館はいいね、。という話。

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