社交性という仮面を被って生きていくことは悪なのか。『いちばんすきな花』3話で思ったこと
「本当の自分」を曝け出して、理解し合える気の合う人と出会えることは尊い。昨日、そういうnoteを書いた。
だが一方ではこうも思っている。
それって、「本当の自分」を他人が受容できるように、良い感じに伝えられる社交性があるからできることだよね。
僕はかつて付き合っていた恋人に、僕のことをわかってよ!と碇シンジくんばりに、自分がいかに陰キャ人生を歩んできたか、いかに弱い人間かを曝け出したことがある。
当時の自分は全く客観視できていないが、おそらくあまりにも卑屈で、コンプレックスに満ちた言い方だったのだろう。恋人に嫉妬するようなもの言いもしてしまっていた気がする。この告白は恋人にとって負担になり、受け入れ難いものとなり、結局別れることになってしまった。
今にして思えば非常に幼稚で、マザコン的で、気持ちの悪い告白だったな、と今思い出しても後悔している。
「本当の自分」を曝け出し、それを理解してもらい、気の合う友人や恋人をつくるには、「気持ち悪さ」を良い感じにコーティングして見栄え良く見せる社交性がなくてはダメだ。
ドラマ『いちばんすきな花』3話を観ると、このことを実感する。
『いちばんすきな花』の4人の「本当の自分」は気持ち悪くない
劇中で松下洸平が、元恋人の臼田あさ美に対して、何でも肯定する「良い人」の仮面を剥ぎ取り、おしゃべりで変なことばかり喋ってしまう「本当の自分」になって、隠していた本音をぶつける。それによって2人はある意味で憑き物が取れたようにすっきりした形で別れていく。
そして、気の合う友達同士となった3人のもとに戻り、同じ仲間同士であることを確認するかのように会話をする。
このシーンを観て思ったのは、松下洸平の「本当の自分」が気持ち悪くないということだ。端的にいえば明らかにコミュ力が高い。本音をぶつけられた臼田あさ美は面食らっただろうが、むしろ本当の彼の姿が見れてよかったとすら思っているように見える。そこには気持ち悪いという感覚はないように思える。
そもそも松下洸平は臼田あさ美のようなタイプの違う人と付き合っていただけの社交性がある。だから当然、気持ち悪さを他人にとって受容できるレベルにコーティングして見せる技術を身に着けている。
4人が「気の合う友人同士」になることができたのも、4人それぞれが社交性がそれなりにあり、仮面を被る技術を身に着けているからにほかならないだろう。
このことを批判したいわけではない。そもそも『いちばんすきな花』は嫌われないように生きてきたけど、本当の自分は隠してきたせいで2人組になれないでいた孤独を描いたドラマなのだから、4人とも社交性があって当然だ。
だがどうしても僕は、気持ち悪さをコーティングする社交性すらない人間のことを思い浮かべてしまうのだ。かつての僕のように。
そもそもいまの僕は、気持ち悪さを本当に隠せているのだろうか。他人に受け入れられるようにコーティングする社交性という仮面は、うまく身に着けられているのだろうか。
『いちばんすきな花』では本当の自分を隠し、周りに合わせる仮面を被って生きていくことを「よくない状態」として描いている。だが、本当はどんなに気の合う人の前でも、社交性という仮面を被り、気持ち悪さを隠さなければ他人と関係性を築くことなどできない。
社交性という仮面を被ることは悪ではない。むしろなければ生きていけない。
『いちばんすきな花』ではこの先、この4人の関係性にどのような変化があるのだろうか。ただ居心地の良い関係がいつまでも続く、だけではおそらくない気がしている。
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