祈りの山旅

皆様こんにちは。
noteには初めての投稿になります。
私は「祈りの山旅」という屋号で霊山や神社仏閣、聖地の案内人として活動をつづけております。
また、関西にて修験道の行者、山伏もしております。
Twitter やアメーバブログで以前から様々なことを発信してきましたが、こちらのnoteにてもっと踏み込んだお話をしてみようと思いました。
まずはご挨拶がわりに、奇しくも今日は山の日ということで、私が敬意を込めて「御山」と呼んでいる山のことについて、想いを記します。

今、山は登るもの、楽しむもの、制覇するものという風に多くの人々がとらえている様に感じます。
その陰で山は汚され、踏み荒らされ、果てには金儲けの為に切り崩されもしています。
杉の植林地放置もあります。
そんな人間本位な向き合い方を続けていいとは思えません。

ちゃんとした方は御山を汚さない様にされていますので良いのですが、レジャー登山者などのゴミやマナーの悪さ、意識の低さは時に酷い。
「自分が楽しかったら、楽だったらいい」という考えは自分の部屋だけにして欲しいと思います。

また、ご利益目的で霊山に登る方も然り。
目的達成に夢中になり、「こうすればラッキーになれる」と思い込み行動する。
以前、とある山頂のお社の屋根や鳥居に登山者が石を投げてるのを見かけました。
屋根や鳥居に石が乗ると願いが叶うと聞いたそうですが、そんな事はまずありません。
人々がこういう思いで御山に入り質を落としている。

人間の意志は往々にして不浄、不自然極まりない。
自然は神そのものの働きで成り立って存在している場所。
生命の聖なる家。

人間の低次元な願望が自然や御山、世界の様々なものを破壊しているのが「当たり前」という大雑把な認識で見逃されています。

土や鉱物→植物→動物→人間の順に我が物顔で動き回れる自由度が増しますが、その力(知恵や技術)は他を制す為だけに使われてはいけない。

生命は他の生命を犠牲にして生きていくしかないのだけれど、その問題に向き合う為に人間にはその力が託されていると思います。

今の人間界はおもちゃを与えられた子どもが分別なく暴れているだけの様にしか見えません。
ただの暴君でしかない。

犠牲になっているものがあまりにも多い。
自然や御山がその顕著な例だと思います。

御山に入る時、私達は「六根清浄」と唱えます。
眼耳鼻舌身の五感と意識の六つの感覚器官は世界を知覚する物ですが、過ぎた欲「煩悩」の根にもなる。
それらが清らかである様に、過去の行いを懺悔し、決意を身体に染み込ませる。

身体の中の熱意と、身体を構成しるモノを感じつつ、自己を見つめ知覚し、神の意志そのものの場である自然の中で不自然をなくしていく、という感覚で昔から行者は入峰していると思います。
(行者の中にも碌でもない者も多数おりますが。)

そうして自然と一つとなった時、人間としての生き方も見えてくると思います。

別に行者になる必要もお経や作法を知る必要もありません。

心の在り方を見つめて御山に入るということで多くの気づきを得て、生き方が変わり、世界がより良くなっていく。
目先の得よりも大きなご利益があると思います。

人間のしでかしていること、遊びや金儲けの為に害されている自然や御山について考え直し、大切にしていくきっかけとしての「山の日」になればと思います。

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