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ボランティア活動、介護と医療 (4)

 海野は、アメリカに留学して、アメリカでは、お金を儲ける活動とボランティア活動が明確に切り離されていると感じた。お金を儲ける活動では、ひたすらに利益を追求するが、ボランティア活動では、見返りを求めず、文字通り身を捧げて仕える。日本では、働く事がそのまま奉仕活動でもあり、会社に自分の時間と忠誠を惜しまず捧げる事に対して一定の対価が払われているようだ。時代は変わっても、日本人の価値観では、年功序列により定年退職するまで一つの会社に勤め、残業代を請求することなく朝早くから夜遅くまで、さらには休日も不平を言わずに働く事が美徳とされているようだ。

 逆に言えば、アメリカでは、働いた対価としての十分な報酬が交渉によって得られるため、見返りを求めないボランティア活動が成り立つのではないか。海野はそんなふうに考えていた。そして、利益を追求する活動の対極にある利益を求めない活動、ボランティア活動に関心を持った。

 そうは言っても、海野にとっては仕事が趣味であり遊びになっていたため、ボランティア活動をする時間は別としても、心の余裕はほとんどなかった。そんな中で、日本を大震災が襲い、大津波が多くの人の命と地域を飲み込んだ。海野にとっても、とてもショッキングな出来事だった。家族や身近な知り合いが震災の犠牲になることはなかったが、海野は初めて心から自分に何か出来る事があればしたいと思った。そして被災地でボランティア募集があることを知って居ても立ってもいられないくなった。海野は、バスで被災地を訪れ、現地の災害ボランティアセンターを通してガレキかきの仕事をした。ガレキかきは、単調な仕事だった。土をかく同じ動作を決められた時間になるまで繰り返した。それでも、不思議と充実していた。命を落とした人々、大切な人々を失って傷ついている人々のことを思い浮かべながら、ひたすら同じ動作を繰り返した。それは、海野にとって、それまで経験したことのないような経験だった。自分の中にある痛みや悲しみを細かく刻んで土に埋め戻していくような作業だった。そんな活動で生計を立てられるのであれば、そんな生き方も良いのではないか。海野は、そう感じた。

 日本では少子高齢化が進み、人口減少が始まっている。日本を含む先進国の多くでは今後人口の減少が見込まれる。一方で、医療技術の進歩や生活環境の改善によって平均寿命はのびている。戦後のベビーブームに生まれた、いわゆる団塊の世代がすべて75歳以上になる2025年には介護人材が数十万人不足するという。海野の両親は病院で働いていたので、海野は、医療や、漠然とではあるが、出身や家柄に関係なく健康で、文化的な生活が保障される福祉の仕事にも関心を持っていた。利益追求の典型とも言える投資や金融の仕事に関わってきた反動もあって、海野の関心は福祉の仕事に向かいやすかったのかも知れない。

 心身の健康を損ねた高齢者などに対する介護、生活支援。子どもや仕事を求めている若い世代から中高年世代の生活を支援する仕事などは、海野の感性に直接訴えるものだった。仕事の意義ややりがいを感じた。

 介護サービスに対するニーズは高い。質よりもサービスの量が十分に供給されていないのが実状のようだった。それは海野にとって両親や祖父母の世代を相手にする仕事だった。まだ若い海野には高齢者が具体的に何を必要としているのかは良く分からなかった。海野は父母両方の祖父母を、まだ海野が幼少の頃に病気で亡くしている。海野には祖父母が病床についていた時の記憶が残っている。まだ祖父母が元気な頃に、可愛がってもらった記憶もある。それでも、寝たきりになってしまった祖父母に対して自分が大人になった時に病気を治してあげたいというような問題意識を持たなかった。海野の祖父母は、50代、60代で比較的若くして亡くなった。遺伝による体質などはあるにしても、病気はその人の生活習慣が招くものであって、医療や科学技術で克服すべきものという感覚はあまりなかった。海野には、そういう技能がなかったのかも知れない。

 海野が子どもの頃、父親が病気で入院して手術を受けた時でさえ、もし父親が病気で死んでしまったとしても、それは自分の運命であって仕方がないものという醒めた感覚が海野の中にあったのかも知れない。海野は、勉強が嫌いではなかった。勉強をすればテストで同級生よりも良い点を取ることが出来た。努力すれば、医者になることも出来たかも知れない。それでも海野には、医者になりたいという意欲が決定的に欠けていた。


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