見出し画像

覚えておいてほしい瞑想 72

 こちらは以前、冥想の基本のきの字としてまとめたものです。
良かったら参考にお読みください。

今回は、最近目にすることで気になった「冥想」について書いてみようと思います。

冥想とは、それぞれの教えの中でいろいろな伝え方があるし手法もあります。どれがいいとか悪いではなくて、根本的に自分がしっかり体験を繰り返していくことが大切だと感じています。
YOGAにしても、禅にしても、なんでもそうですが、
資格ですら安易にとれるものが世の中にあふれだしました。
コロナのおかげ?!で、オンライン化も進み、自宅にいて取得できる資格があふれんばかりになりました。もちろん否定はしません。
それによってありがたい恩恵を受けていることも事実です。

ただ、利便や安易になったことで、そのものの根底をしっかりと理解し学ぼうとしている人が減ってきている危機感を感じています。
以前であれば、田舎に住んでいるわたしたちは、
ほとんどの資格取得などは都会に出ていかなくてはならなかったので、
宿泊に交通費、そして家を空けるのであれば、子どものことや家庭のこと、そして仕事のやりくりが必須となり、簡単には何かを受講することができませんでした。
都会に住む人の倍はかかってしまう資格取得。
必死にならざる負えません。
そんな中で取得してきた学びですから、正直その辺の薄っぺらいものよりは深い学びを伝える自信はありますが、一般的に受講生は安くて簡単で優し先生が大好きです。

そんな人たちにこの「冥想」を伝えていくことは、とても難題です。
もちろん、30年以上座り続けている自分ですら、まだまだ足りない学びに日々奮闘しています。

そして最近、SNSの中でも無料の瞑想会が多くみられるようになってきました。
もちろんわたしもオンラインでやっていますが、
その参加者の感想が
・とっても気持ちよかったです
・カラダがあったかくなりました
・一緒に学べるお友だちに出会えてうれしかったです
・誘導してもらって楽にできました
などなど。
いいんですよ、もちろん初心者ですから。

これを読んでくださっている方は、
多分「冥想」に少しでも興味があってお読みいただいていることだともいます。
だからこそ、大切なことを少し言わせてくださいね。

あなたの「冥想」の目的は何ですか?

簡単に答えられないかもしれません。
でも、是非何かを学ぼうとするときにこの問いは是非自問自答してほしいのです。学びながらこの答えが出てくることが大切だと思っているからです。

「冥想」とは、何かに行きつくことのない想像もつかない遠いものにたいし行い体験をし積み上げていくこと。それが自分の力となり宝となり、イノチを輝かせてくれるのだと思っています。
さて、本題です。

一般的に言われる「瞑想」とは、ほとんどが「行うことの瞑想」だと思っています。
つまり、瞑想には「行うことの瞑想」と「あることの瞑想」があるのです。
どちらがあっているとか間違っているということでなく、ここを理解して瞑想しないと、大変な間違いがおこります。
まずはこの2つがあることを、認識してください。

「あることの瞑想」

は、「イマココ」のあらゆる思考と感情に気づくことです。

「行うことの瞑想」

の目的は、瞑想をすることで、集中力をつけたり、仕事の効率をあげたり、ココロを整えたりすることです。
その方法として
・身体を動かす瞑想
・身体を動かさない瞑想
が大きく分けてあり、手法はたくさんあります。

それらどの手法も、何かに集中することを求められ、
瞑想することで何かを得ようとしたり何かに到達しようとします。

一般的に「瞑想」と聞くと、悟りや覚醒というものを努力して手に入れ、
無我の境地を目指して思考を止めようとしたり鎮めようとしたりします。
しかしマインドは、常に何かの欠点を探して理想を追うためにいつも思考してなかなか止まることをしません。

努力して集中している状態は「行うことの瞑想」。
瞑想によってある特定の意識状態を得ると思っている人も多くいるでしょうけれど、結果や成功を求めるのは「行うことの瞑想」であり、悟りや覚醒ではありません。
思考を止めようとすること自体が思考なので、結果を期待して努力することはマインドの世界をぐるぐるしているだけなのです。

「イマココ」からはなれて結果や成功を求めるのは「行うことの瞑想」ということです。

「行うことの瞑想」は、マインドの機能が低下するのでぼーっとしたり眠くなります。夢を見て気持ちが良くなる麻酔のような鎮痛効果があるそうです。ただし麻酔は切れるとまた痛くなるから厄介です。

つまりこの瞑想をつづけていると、思考が絡まりその思考が自我だということに気づけず抜け出せなくなることがあります。
瞑想で大切な「気づき」をして観察したものですらが、思考であるということがおきてしまうのです。

「行うことの瞑想」を繰り返し行うことによって、このような思考になりYOGAや瞑想をしているうちに、自我が強くなっていくことがあります。
これがカルト化した○○団体になったりしてしまうのです。

本来の目的

思考が静まっているときに「気づき」に気づきます。
「瞑想の目的」が、思考が静かになることを示しているのは「気づき」が何であるかを知るためにあります。
心が静かになるのが目的ではありません。

その「気づき」に気づいたときに、
探求者が良い先生に出会えるか、
または自分で思考の罠に気づくことができるかどうかにかかっています。

思考が静まった状態を経験していく中で、「気づき」が何であるか腑に落ちればいいのです。

日だまりであそぶ子供達を見ている時、
森を散歩して鳥の声を聞いてる時、
水面に映る月を眺めている時
暗闇の中で赤々と燃える炎を見ている時、
恋人の瞳を黙って見つめあっている時、
風の温度を感じている時、
思考は観察することをやめ
ただ見守っている「気づき」だけが
そこにあります。

そこには
沈黙が
愛が
光が
永遠なるものが在ります。

そもそもの始まりが終りであって
出発点が到達点なのです。
それが「冥想」なのかもしれません。

瞑想の手法に走る必要はありません。
もちろん、初心者の方は師について手法を学ばれることをお勧めします。
そして学んだ手法をとおし、
自分らしい自分の瞑想のやり方を作り上げていくのです。
正解も不正解もありません。

ただ、ここで述べた間違いだけには陥らないよう、
躓いたらここに戻って、
整理してみてください。
「行うことの瞑想」には
本来の冥想の目的に出発も到達もしないのだということを…

「気づき」は脳の破壊と再生です。
何かをしようとすることよりも、
この強烈なエネルギーのある
「気づき」をしっかりとできるように瞑想していきたいですね。

人生は「感じること」です。
それができたら満点だとわたしは思っています。

ステキな瞑想ライフをお送りくださいね。


イノチの樹では下記の「オンライン寺子屋體」講座があります。
毎月新しい講座の配信にあわせ、ZOOMレッスンが月数回ついてます。
近くのスポーツジムに通うように、自分の都合に合わせて體と心を学ぶことを、一緒にしてみませんか?
今なら初月1000円で入れます。
近く、こちら値上げの予定です。この機会に是非体験ください。
いつでも解約は自由にできます。
是非一度覗いてみてください。
皆さまとお会いできることを楽しみにしています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?