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冥想一緒にやりませんか? 61

冥想
瞑想

マインドフルネス
こんな言葉に触れたことはだれしも一度はあるでしょう。

わたしがこの世界を学ぶことになったきっかけは
アスリート時代「比叡山」へ合宿に行った時のことでした。
ひたすら坐るという業をさせられ、
足がしびれ腰が痛くなったことを覚えています。
最初はただこの何もせず坐る時間が辛く嫌いでした。
それでも、精神の学びとしてカリキュラムに入っていたため、
何度も何度も坐禅をさせられました。

比叡山や寺での禅の前後にはそれぞれの和尚様からお言葉をいただきます。それが仏教の学びでした。
その学びを聴くたびに、
自分の中のあまりに未熟なものにガッカリしたものです。
何度も何度も聞いているうちに、
少しづつお話のちょっと奥をも垣間見ることができた気がしていました。
それが、この冥想や禅の世界に興味を持ち学びだしたスタートでした。

アスリートというのは、
リアルな「今」しかない世界。
勝つか負けるか、
全て勝敗というもので決着がつく世界。
だからこそ見えるもの、結果のみがクローズアップされています。
そのために若い頃の自分は、
白黒はっきりさせたい正義感たっぷりの嫌な女でした。

そんな中でも瞑想や禅を通して気づいたことは、
今を生きているアスリートでさえ、
見えないものに支えられ見えないものの世界にたくさん触れていることだったのです。

たとえば、シンクロニシティ。
わたしはバドミントンをしていました。
体育大というある意味、過酷な世界でのバドミントン。
毎日毎日、目の前に与えられたTrainingや課題に取り組む。
ただそれだけを毎日こなし、体力限界まで動きそして寝る。

そんな生活の中、
時々夢に見るのです。
自分が試合をしている姿を。
いつもの会場で試合をしている自分。
もちろん対戦相手もライバルです。
ライバルに勝つために、自分の弱点を練習し、
その練習の成果を活かした動きの中でシャトルを回している自分。
昨日の練習で
「ここがうまくいかなかったからこうやればよかったんだよな。」
なんて、夢の中でも勝つことに必死な自分。

そんな夢から目が覚めて、いざ本番の試合会場へ。
「あれ?このシャトルの動き見たことある。あっ、これ昨日の夢に見た試合だ。じゃあ、きっと次はここへ来る。・・・ほらね。」
なんて不思議な体験をすることがあったのです。

ちょっとまって!
わたし天才になったのですか?
って思ったくらいビックリ。
こんなそんなの体験を一度ばかりではなく、何度か見るようになりました。
その他、
対戦票を試合前に作るのですが、
何故か相手の対戦票が頭の中に見ているように浮かぶんですよ。
それに合わせて勝つためのこちらの対戦票を書き上げて提出。
もちろん、ビンゴ。
こうして三冠(団体・シングルス・ダブルス)を取れたことは、今でも自分の中で深い思い出となっています。

まぁ、全部が全部ではありませんけどね。
でも、これって不思議じゃありませんか?
夢の世界と現実が交差する世界。
どちらが本当の世界かわからなくなる錯覚。
その時に、
「祈りの力」
というものにもであいました。
遠くにいる何かに対しただ祈る。
不思議とその祈りが遠くの何かに届くという事実。
これが量子学や脳科学として、現代ではエビデンスとして証明されてきていますね。

ここで、
脳科学のこと
量子学のこと
祈りのこと
今を生きること
など、興味がどんどん出てきました。
それから現役を引退しても、
師について
坐禅や冥想を今もなお学び続けています。

30年以上も学び続けてきて言えるのは
冥想はすばらしい!
ということです。

ここでは、基礎中の基礎
「冥想」と「禅」についてまとめようと思います。

今学んでいる方
これから冥想をやってみたい方
何だか興味あるな?
って方に是非とも読んでいただきたいです。
できる限り初心者の方にもわかりやすいように、書きあげますので是非最後まで読み進めてくださいね。

それでは本題です!


円相

みなさんはこのような「円相」といわれるものを見たことがあるでしょうか?きっと禅宗の入り口などには掲げられていると思います。

これは禅における書学のひとつで、
悟りや真理・仏性・宇宙全体などを円形で象徴的に表現したものです。
解釈に仕方は人によってちがってよいらしいですが…
わたしは、
文字では表現できない真理
つまり見る人のあるがままの心を表す鏡だと感じています。

わたしが学んだ中で心に残っている言葉があります。
それは

生活の一つ一つの事柄に幅広く深く感じ考え行い
あらゆることに尊いご縁を感じること
目に見えないご縁
おかげさま
罪な幅広く深い立場で見ることが大切
水平思考と垂直思考とを一つにして把握する
無念無想、無私、無我、無条件など
一切のものから解放された状態
完全なる自由の状態に入る修行をすること
それが瞑想

何度も何度もこの言葉をかみ砕きながら生きてきました。
本当に奥深く、未だきっとまだまだ理解に及びません。
たぶんきっと、死ぬまでわからぬまま過ぎていくのかもしれません。
それが良きるということなんだと、今は感じています。

瞑想や坐禅はただひたすら坐ると誤解されがちですが、
動いていてももちろん瞑想になります。
坐ることが目的ではない、
そう、
自分に還る時間なんだと思うのです。

●言葉のまとめ
【冥想】
目を閉じて黙想する。
【瞑想】
メディタティオmeditatioにあたり,それを訳して黙想や観想ともいう。
心を静めて神に祈ったり心を一つに集中すること。
【マインドフルネス】
今この瞬間の自分の精神状態に深く意識を向けること。そのために行われる瞑想。
2010年代半ば頃からストレス軽減や集中力の向上に役立つツールと見なされ欧米を中心に社員研修などに採り入れる動きがある
【坐禅】
仏教の伝来によって支那で誕生し日本で継承されてきた、仏教の一派である禅宗の行う瞑想法あるいはその思想全体。
【YOGA】
古代インドから継承され様々に発展してきた宗教的修練法の一つ。

コトババンクより

冥想とは

「冥」のつく言葉には
「冥福」「冥王星」「冥土」「冥利」「冥加」がなどがあります。

「冥」の意味を調べると
1,光がない。くらい。くらがり。やみ。
2,道理にくらい。無知。
とあります。

つまり、
冥想とは目的であり本質的なこと

冥想を行うことにより
・幅広くより深い自分になる
・自分の見方を知る(いかにちっぽけかに気づく)
・人として生きる真理を知る
・単純に因果関係を決めつけないこと
・自分のやり方の冥想を作り出す
 ※人には個性があるから自分流がとても大切

★大切なのは冥想には意識の作り方がとてもたいせつだということ!
 冥想とは人智を超えたものであり、自分の内観すること。

生きていくうえで内観(自分の内を観る)するということは、
唯一無二の自分という存在を大切にする尊い行いだと思っています。

人のために良いことをしなさい。
人に迷惑をかけてはいけません。
とよく言われますが、もちろんとてもたいせつなこと。
でもそれには、
まずその自分が一番豊かで幸せであること。
その人が人のために…と心がけることが重要だからです。

全てのものはシャンパンタワーの法則なのです。
シャンパンタワーは、一番上のグラスの中がいっぱいになることによって下にあるグラスにあふれたシャンパンが流れ込んでいきます。
これと同じで、一番上のグラスが自分。
その自分が心からシアワセに満ち溢れているからこそ、
そこからあふれ出たものがほかに流れたときにシアワセなのです。

もしも一番上のグラスの中が、
怒りや悲しみだったとしたら、そのものがあふれ出しそのシャンパンタワー全体が怒りや悲しみに包まれるでしょう。
だからこそ、まずは自分の内側と向き合うこと。
そしてその自分と常に一緒に生活ができていることが重要なのです。
そのために人は瞑想や禅を使っているのです。

アメリカンインディアンの言葉
 「石ころ、葉っぱの中の神の教えを知ることができる自分になれるよう
  知恵を与えてください。」
 「7代先は豊かに暮らせるように生きなさい。」

この言葉はわたしが大切にしている言葉です。
その言葉の教えが守れるように、冥想や禅に魅力を感じているといっても過言ではありません。
ある師はわたしに言いました。
「自分の智慧が出るために冥想をつかいなさい。」と。

瞑想と禅の違い

「瞑」とは
眼はつぶる・ただ在るとする・心の概念の幕を一枚づつはがす
「禅」とは
半眼・ただ事実に徹する・心の概念に強制的に穴をあける

冥想行法の誓い
 人間の一番正しい状態、それは自然であること。
 自然であるとは調和のとれていること。
 調和の取れているときには、安定して平静を保っている。
 わたしたち人間の一番陥りやすい状態、それは偏ることと囚われること。
 だから意識的に逆の状態の訓練をして、バランス維持の働きを高める。
 ただ今より、囚われない心身を作る修行の冥想行法を行います。
 心身の統一と法花の訓練を通じ、自己を無にすることを誓います!

行法をおこなう前の誓い

冥想的に生きていくと、すべてのこと・ものには、存在理由があることに気づきます。一切の現象には、依ってくる所以があることにも気づきます。
一切は自然の法則の現れであることを自覚します。
一切の事物と現象を真理を学ぶための教えとして受け取り、生活のすべてを求道の対象として学んでいきましょう。

行法をすること抜きの教えは、無きに等しいものであることを知りました。
行法を伴わない知識は、死んでいる知識であることにも気づきました。
真実を把握する道は、知行合一であることを自覚しました。
今からのわたしは、すべてのことを意識的に行じしていきます。
良き教えは数多く教えられています。
実行してこそ教えが生き、自分の身にもつくことを知りました。

上の二つの誓いも、大切にしています。
言うこと、やっていること、思っていること
この三位が一体していないものに真理はないと思っています。
冥想や禅をとおし、どんな自分になっていくのかなんとなく想像がついたでしょうか?
こんなことを根底に、わたしは伝えています。
教えるというものではなく、ともに学び続けていくものだと思うからです。

東洋的身体観

一般的に自分は「肉体と心」からできていると学んでいます。
心=脳と考え、脳の命令で身体を動かし、その身体は脳の道具であると。
実はこの考え方は、ここ百年ほどの間に人が考えた物質科学的世界観です。
つまり最近できた一つの世界観なのです。

東洋の伝統的な世界観の概念は、自己の本質を目に見える肉体と見ないで、肉体を動かしている目に見えない何か(氣・エネルギー・魂など)としている点。
例えば
肉体という器に息をすること=天の氣
食の行為=地の氣
で本質的なエネルギーが入ってくるのです。
そのエネルギーは氣や血となって全身をめぐり様々な臓腑を動かして生命を支えています。
そしてある期間を経て自分の本体(魂・エネルギー)は、天へ還ります。
肉体(魂)は大地へ還えるのです。

呼吸は、空気を出し入れすることと物質的に理解しています。
でも、呼吸法の技術は全く知られていないのです。
古代の人々は、息が止まったら死ぬということは「宇宙・天から入ってくる氣・大地からくる氣が自分を活かしている本体であると想像したのです。
また、死は自己の消滅ではなく、古くなったボロボロの衣を脱ぎ捨てるものという死生観を理解せずに、医療のみの技術を使っても十分な効果は上げられません。

また、身体や宇宙と相似的につくられている、として自分の外に見ることができる様々な宇宙・自然の法則は、身体のないぶにもみることができる見方も東洋の伝統的世界観の特徴。
与えられた自分という存在を冥想することで、宇宙の真理がわかるという意味では身体は教材でもあります。
こうした世界観を理解しないと、東洋の伝統的な医療はヨガなどを現代生活に正しく活用できないのだと思います。

日本や中国の伝統では、おおまかに人間存在を
肉体と霊・魂
にわけ、その間の働きに「氣」の動きを置いています。
中国の伝統哲医学でいう「経絡」が流れる身体、インドで言うナディーの流れやチャクラは、いわゆる肉体にあるなにかではなく「氣のからだ」にあるとしているのです。

東洋の伝統の中に共通してることは
「目に見えない世界=より本質的な世界」=より原因の世界
 → 「目に見える世界・現象・結果」へあらわれる
という考え方です。

アートマンの解説図

「アートマン図」

梵、すなわち「ブラフマン」と我、すなわち「アートマン」が同一であることを知ることにより永遠の至福に到達しようとする。
これが梵我一如の思想です。

ブラフマンは、宇宙を支配する原理。
ブラフマンは、もともとはヴェーダの「ことば」を意味する語で、呪力に満ちた「賛歌」「呪句」を表します。やがて、それらに内在する「神秘力」の意味で用いられるようになり、さらにこの力が宇宙を支配すると理解されて「宇宙を支配する原理」とされています。

アートマンは、わたしという一個人の中にある個体原理でわたしを生かしている「霊魂」であり、「自我」または「人格」です。
元は、ドイツ語のAtem「息、呼吸」と同じ語源から生まれた語で「息」を意味しました。
ここから「生気」「霊魂」「身体」「自己自身」「自我」という意味が派生し、ついには「個体を支配する原理」とみなされるに至ったのです。
この語はさらに「ものの本質・本体」という意味でも用いられています。

「車体=肉体」に「アートマン=主」が乗り、「御者=理性」が「馬=五感」を通して「手綱=思考」が決定をして「道路=諸知覚器官の対象」を歩いているのが人生である。という図です。

わたしたちは日々、一生懸命生きて自分一人で生きている気になっていますが、こうしてたくさんのものに触れ・感じ・影響を受け・守られながら生きています。
こうしたことを学ぶことが、冥想や禅の世界なのです。

説明のできない見えない世界を知ろうとすることは、自分を内観することにとっても大切だと感じています。
まさに冥想とは、こうした目に見えない世界をしっかりと理解しようとすることなのかもしれません。

生活の一つ一つの事柄に狭い方由った見方ではなく幅広く深く感じ考え行い、あらゆることに尊いご縁を感じること。目に見えないご縁、おかげ、罪などを幅広く深い立場で見ることが大切。
いわば水平思考と垂直思考とを一つに、無私、無我、無条件など一切のものから解放された状態、完全なる自由の状態に入る修行をすることを冥想行法といいます。

沖正弘著「真智聖愛」より

瞑想をすると、脳波にアルファー波があらわれます。
このα波やθ波に脳の状態がなるという脳波生理学からの解説や、エンドルフィンなどの脳内化学物質の分泌や血流の変化からも解説される分野の瞑想もあります。
興味のある方はこちらも調べてみてくださいね。

YOGA

YOGAの根本的な意味は「神と結ぶ・神と結ばれた状態」を指す語で、冥想の状態を意味します。
この「神」とは特定の神ではなく、自然法則・宇宙法則・生命法則・真実の意味。
そして結ばれた状態になるために、10のステップに分けて行います。
1,禁戒と観戒(マヤ/ニヤマ)
2,動禅行法(アサナ)
3,生氣活用行法(プラナヤマ)
4,制感自律訓練業法(プラティヤハラ)
5,統一行法(ダラナ)
6,禅定行法(ディヤナ)
7,信仰・祈り行法(バクティ)
8,三昧行法(サマディ)
9,仏性啓発行法(ブッディ)
10、歓喜法悦行法(プラサダ)

YOGAも冥想も禅も
心が鎮まることで、思いや考えの見方がまともになってくるのです。
そして、
呼吸を意識することで、落ち着き、感謝する心が芽生え、ありのままが見えるようになり、自分の心が整うのです。決して呼吸も人生もコントロールするものではないのです。

精神世界で大切なことは、「何が縁で因か気づくこと」なのです。
原因は外にはないからです。
そして、主観をできるだけ客観視することです。
この客観は、誰から見ても同じ客観はないのです。
外に振り回される必要性のなさはここにあります。

想像してください。
あなたは今、湖畔のほとりにいます。
明るい月あかりが湖に移りだされます。
その湖に移る月をあなたは見ています。
「きれいだなぁ」
そう感じたその月は本物ですか?
月と思っているそれは、本物ではないのです。
湖に移りだす月は水面が揺れているとありのままに映し出されません。
そう、水の揺れとはあなたの心の揺れなのです。
冥想をするとは、
心を静めて、月のありのままが映し出されるまで待つのです。
だから心を静めることが最重要となるのです。

現代社会はとても時間に追われています。
人々は何かに追われ、「忙しい忙しい」と口に出し、こんなにも美しい世界を観ようともせずにせっせと動いています。
もう一度、静の時間を取ってみませんか?

そしてもう一つ。
コップに泥水を入れたと想像してください。
もちろんその泥水は濁っていますよね。
濁って不透明で中身の存在は不明です。
冥想の時間を持ち時間が経つにつれ、
粒子の重いもの・荒いものは下に沈み、軽いもの細かいものは上に、更に透明なものは一番上へと分解が始まります。
最終的には一番上から
・透明
・細かい粒子
・荒い粒子
・荒く重い粒子
・一番荒く重たい粒子
このように分かれたコップの中身ができあがるでしょう。
これは人間の存在に例えることができます。
オーラで例えるならば上から
・コーザル体
・メンタル体(魂体)
・アストラル体(霊体)
・エーテル体(幽体)
・肉体
内観をすることによって、自分をより細分化し不明な部分が明らかになっていきます。

もう一つ例を出すとしたら「エンドウ豆」
エンドウ豆は
・さや
・つるっとした皮
・豆
に分かれます。
さやと皮は「ボディー」。これは食べたものと呼吸でできあがります。
そして豆は「魂」。
このようにみていくと面白くありませんか?

簡単に冥想と禅について基本のきの字をまとめました。

最期に、冥想のための瞑想方法をあげておきます。
・坐禅
・黒点冥想
・ロウソク冥想
・数息観
・随意観
・マントラ冥想
・阿字観法
・止観
・イメージ使った瞑想
・祈念瞑想
・鎮魂行
・静功
・滝行
・火渡り
・修験道  など。

こちらの実践は、「禅の心」講座にて修行を行っています。
年に6回。ご興味のある方はぜひ一緒に学んでみませんか?

https://inochinoki.world/news/2023zennokokoro/


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