映画『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』

いつか、この子に名前をつけてあげたい

映画『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』(金子由里奈監督、2023年。以下、本作)の最終盤、抱いたぬいぐるみを見ながら麦戸ちゃん(駒井蓮)がそう言った時、物語冒頭からの違和感が腑に落ち、一本筋が通ったような気がした。

冒頭のシーンに覚えた違和感は、主人公の七森(細田佳央太)が高校時代に青川(宮崎優)という女子生徒に告白されて「"好き"がよくわからない」と、結果的に青川を傷つけたことではない。
むしろ青川が、それが当然のように「好き」という言葉を臆面もなく使い、「七森くんは私のことどう思う?」と"無知"故の傲慢さで問うことに違和感を覚えたのだ。
七森に共感したのではない。
青川がその言葉を深く考えたこともなく、とても軽く扱っていることに違和感を覚えた、いや、正直に言えば腹が立ったのだ。

さらに、七森がそこで拾った(もらった)ぬいぐるみと共に京都の大学に進学し、麦戸ちゃんと出会い、「ぬいぐるみサークル(通称・ぬいサー)」に入るまでの導入に手間取ったと感じ、そこから白城ゆい(新谷ゆづみ)と付き合い・別れ……といったストーリーが何の説明もなく、おまけに時系列もバラバラという展開に戸惑った。
そんな中で迎えた最終盤、私は麦戸ちゃんのセリフに出合った。

そう、最初に覚えた違和感は、青川が使った「好き」という言葉が、彼女以外の誰かがつけた「名前」だったことにあった。
「誰かがつけた名前」とは、すなわち、誰もが(とりあえず)理解/識別できる「既製品」と言っていい。

本来、「誰かがつけた名前」以前に、「ただ"ぬいぐるみ"という存在」と同じように、「名前がつけられていない(既製品じゃない・誰にでも通じるわけではない)ただ"言葉"」というものがあるはずだ(その、ただ"言葉"を誰もが使うようになって「誰かがつけた名前」として(お店で売られている、キャラクター名を持った”ぬいぐるみ"のように)既製品化する)。
私は以前、ぬいサーのメンバーである西村を演じた若杉こがらしが出演した映画『ミューズは溺れない』(淺尾あさお望監督、2023年)についての拙稿にこう書いた。

みんなに伝わるためには「既にある言葉」を使わなければならないが、自分や世界は、「ありきたりな既製品」を使って表現できるほど、単純でわかり易くできているのだろうか?

ぬいサーが、何も知らない人たちから気味悪がられるのは、ぬいぐるみとしゃべっているからではない。
ぬいぐるみとしゃべる彼女ら/彼らの言葉が、自らの内から出た正直な-名前のついていない、既製品じゃない-言葉だから、他人には伝わらない、理解できない、そのことが気味悪いのである。

その気味悪さは、誰にでもわかる既製品的な物語運びとならない本作にも通じるのだが、それが監督の意図したものであることが、冒頭に挙げた麦戸ちゃんのセリフで明らかになり、だから私は腑に落ちたのだ。

名前のついていない、既製品じゃない言葉だからこそ、その言葉は誰かを傷つけるかもしれないし、それで自分が傷つくかもしれない(カワイイと思って手作りしたぬいぐるみが、意図に反して誰かを怖がらせてしまったり…)。
だから七森はそれを使うのが怖い。
それは、七森だけでなく、麦戸ちゃんも、他のぬいサーのメンバーたちも、そしてもちろん白城だって、同じだ。

そう考えると、本作が白城のモノローグで終わる、というのは実は意味深いのではないか、とも思えてくる。

麦戸ちゃんは「いつか、この子(自分の言葉)に名前をつけてあげたい」と言った。
それは「既製品化」といった大仰なことではなく、ただ、自分以外の他者に、辛うじてでも構わないから想いを伝えたい、という意志の表れだ。

七森はラストシーンにおいて新入生に想いを届けるために言葉を使い、他のぬいサーメンバーもそれに同調し、頷く。
ただ一人、白城を除いて。
白城はラストのモノローグで、こう宣言する。
『私はぬいぐるみとしゃべらない』

きっと彼女は、自分の言葉に「名前」をつけたくないのだ。
それが原因で他者とわかり合えなくても、恋人と長続きしなくても。
彼女は、ぬいサーの居心地の良さに甘える七森に言う。
『落ち着くところばっかりにいたら打たれ弱くなるから』
彼女は、七森や我々観客が思っているより、ずっとずっと強い想いを貫こうとしているのではないだろうか。

メモ

映画『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』
2023年4月19日。@新宿武蔵野館

水曜日のサービスデー。19時上映回は満席。
19時というのが、学校や会社帰りに慌てたり、逆にどこかで時間つぶしする必要がない、ちょうど良い時間なのかもしれない(21時終映だと、同伴者と映画の感想を語りながらディナーをしたり、私のように帰宅してゆっくりと感想が書けたりするし)。

「既製品ではない、ただ"言葉"」とは、たとえば、本作でいえば、屋上で洗ったウサギ(名前を失念)の着ぐるみを干すシーン。
「重い」「よく乾くね」……
各々の口をついて出てくる言葉は断片でしかない。だけどきっと、本作の中で唯一、メンバーの気持ちが通じ合った。貴重な場面だったように思う。
そのシーンを観ながら、何だか良くわからない感情が溢れ、たまらなく泣きたい気持ちになってしまった。

ラストシーンにもう少しだけ言及しておくと、一度しか観ていないので確かなことは言えないが、本作ではっきりとモノローグが使用されたのは、あのシーンだけだったのではないか。
それまでは、たとえぬいぐるみが相手であっても、いや、ぬいぐるみという相手がいるからこそ、ぬいサーのメンバーたちは単なる独白ではなくダイアローグ(対話)を意識していたはずだ(物語全体としてダイアローグが意識されているからこそ、所謂「説明ゼリフ」がない-本文で書いたように『誰にでもわかる既製品的な物語運びとならない』-ある意味で不親切な映画になっているのではないか)。
つまり、ダイアローグを拒否する白城こそが、一見周囲に馴染んでいるようで、誰よりも生き辛い人生を送っている(そして、自身の人生はそういうものだという諦念を抱えている)のではないか。
彼女は、七森や麦戸を「ぬいぐるみ」として仮託し、ダイアローグを紡ぐのではないか。

私は大前栗生著の原作小説を読んでいないが、ラストの白城については原作のとおりのようで、金子監督は本作パンフレットでの大前氏を交えたインタビューで、こう語っている。

白城のシーンも最後までこだわりました。小説を読んだ時に感じた、ラストの白城の言葉の強さと温かさ。最後の一行で視点がグルンと変わる読後感は、絶対映画でもやりたいって思っていたんです。そのために私がとった方法は「モノローグ」という舞台をぬいぐるみとしゃべらない白城にしか与えない、ということでした。白城が最後の最後に見せる"本当のこと"を、映画だからできる演出や技術でやろうと。

思えば、人は誰でも、何かと「疑似ダイアローグ」を繰り返し、自分だけの「言葉」や「思想」を獲得していくのかもしれない。
ダイアローグの相手ははぬいぐるみだったり、或いは他のものだったりするかもしれないが、そこには「自分自身」も含まれる。

金子監督は2018年公開のオムニバス映画『21世紀の女の子』(山戸結希企画・プロデュース)の一篇「projection」(伊藤沙莉主演)を撮っている。
監督は、そのパンフレットにこうコメントを寄せている。

18歳の夏休み、写真家北田瑞絵さんにヌード写真を撮ってもらった。(略)裸になることはものすごく怖かった。(略)モニターに映された私の写真を見る。そこには知らない私がいた。私は人生で初めて私を美しいと思った。

「ぬいぐるみとしゃべる」、そしてその姿を他者に見せるのは、ある意味で「ヌード写真を撮(られ)る」ことに通じるのかもしれない。
ぬいぐるみとしゃべることを通して、『知らない私』と出会う。
白城は、『知らない私』と出会えるのだろうか?


私は本作を観ながら、みんな言葉で伝えられなくて苦悩していたことを思い出した。

麦戸を演じた駒井蓮さんは、映画『いとみち』(横浜聡子監督、2021年)では、きつい訛りがコンプレックスで、人と話ができない「相馬いと」を演じていた(麦戸ちゃんを見て、一瞬、「あれ、いとって(原作では)京都じゃなくて、仙台の大学に進学したはずだけど……」と思ってしまった)。

白城を演じた新谷ゆづみさんを観て、かつて映画『さよならくちびる』(塩田明彦監督、2019年)で「ハルレオ」についてインタビューを受けた女子高校生役で、言葉にならず、(ハルレオの曲である)「さよならくちびる」を友人と口ずさんで共に泣くというシーンを思い出した(その友人役であり、後に塩田監督の映画『麻希のいる世界』(2022年)でW主演を果たした日髙麻鈴さんが、本作にコメントを寄せていて、それも良かった)。

本作冒頭に腹が立ったのは、青川が「好き」という想い(言葉)をあまりにも軽く扱い過ぎていたからだが、思えば、ぬいサーのメンバー・藤尾を演じた上大迫祐希さんだって、映画『神田川のふたり』(いまおかしんじ監督、2022年)の中で智樹(平井亜門)に「好き」という想いを伝えるために、あれだけ自転車を漕ぎ、切ない嘘をつかなければならなかったではないか。

本作で鱈山を演じた細川岳さんを見ると、どうしても映画『佐々木、イン、マイマイン』(内山拓也監督、2020年)を思い出す。
もう言葉なんかなくったって、佐々木が愛おし過ぎて、思い出すだけで号泣してしまう……


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