映画『ミューズは溺れない』

「映画の世界観」とか「物語の世界観」という言葉がある。
映画『ミューズは溺れない』(淺尾あさお望監督、2023年。以下、本作)は、驚いたことに、「世界観」ではなく、映画自体がそのまま「主人公の世界」だった。

「共感」や「理解」ではない。
私は、高校生の主人公・木崎朔子さくこ(上原実矩みく)を「経験」したのである。
だから本作には「物語」がなかった。
いや違う。本作は明確な「成長物語」だった。
しかし、主人公を「経験」した私は、その「物語」を言葉で言い表すことができない。
何故なら、朔子は「言葉にできない」ことに苦しんでいたのだから。
もっと正確に言うと、朔子は「言葉にしなければいけない」という「圧力」に苦しんでいた。
「言葉にしなければいけない」という「圧力」とはつまり、「相手・周囲にわかる」或いは「わかり合える」ことの「強要」だ。

この「言葉にできない」朔子を「経験する」本作は、だから、冒頭からとても「しんどい」。
朔子が所属する美術部の顧問(新海ひろ子)が、「見たまま、みんながわかる絵」と強要する。
親友の大谷栄美えみ(森田こころ)が、「何を考えているかわからない。優柔不断」と責める。
再婚した妻(広澤そう)が臨月であることばかりに気を取られている父親(川瀬陽太)には、美大に行きたいことがうまく伝えられない。
臨月の継母とは、まだちゃんと打ち解けられていない。
そんな状況なのに、再開発のために立ち退きになる家から、別の場所への引っ越しをしなければならない。
何より、同じ美術部に所属する西原さいばら光(若杉こがらし)は、自分より絵が上手くて、それを鼻にかけてか、誰ともつるまず孤高であり続ける存在であることが、(憧れの裏返しとして)疎ましい。
西原の存在が、美大に行きたい気持ちにブレーキをかける。
これらに対して、何も考えていないわけじゃないのに、それを言葉にできない朔子を「経験」する、というのは、かなり「しんどい」。

物語は、「言葉にしなければいけないのに、できない」と悩む朔子と、「言葉にしても、どうせわかり合えない」と諦めている(だから孤高のように振る舞う)西原と、「いかにもフツー」な栄美の関係で進む。

栄美の「いかにもフツー」は、そのまま「善良(無神経)な世間一般」と言い換えてもいい。
栄美にとっての「高校生活」とは、「何でも話せる親友」「青春」「恋」だと、何の疑いもなく信じている(故に、「朔子の世界」そのものの本作においては、栄美は悪役に映る。しかしそれは、朔子が栄美のことを親友だと思っていないということを意味しない)。
だから、栄美は「思い(想い)は言葉にしないと伝わらない」と信じているし、故にそれらは「言葉にできる」と思っている。

しかし、本当に「言葉にできる」のだろうか?
みんなに伝わるためには「既にある言葉」を使わなければならないが、自分や世界は、「ありきたりな既製品」を使って表現できるほど、単純でわかり易くできているのだろうか?

「しんどい」と繰り返しているが、本稿冒頭に書いたとおり、本作は「朔子の明確な成長物語」である(だから、私は朔子を「経験」しながら、一緒に成長できた)。

彼女が「成長する」(=私が「成長した」)のは、大きくは4箇所。

朔子は、「見たままを描け」と指導されて描くのをやめた船のスケッチを、『描けないなら作ってみよう』と思い立つ。『とにかく目の前にあるものをつなげてみようって』。
朔子は、引っ越しで不要になった鳩時計や電化製品(みんな「既製品」だ)などを分解して取り出したパーツを、ボディに見立てた木製のゆりかごにくっつけていく。それでは満足せず、のこぎりで木材を切り、フライヤーで金属を研磨し、誰も見たことがない「船」を徹夜で製作する。
「言葉」という「抽象」から「(抽象的)実体」を産み出したことと継母の出産をオーバーラップして、物語的に朔子は生まれ変わりの涙を流す。
これが1つ目。

2つ目は、嵐の夜の美術教室での朔子・西原・栄美のやり取り。
「何でも言葉にできる」と思っている栄美は、朔子のことが好きな西原に対して「レズビアンなの?」と無神経(ということも自覚していないとは思うが)に聞く。
さらに、無神経(ということも自覚していないとは思うが)を重ねて、朔子に対しても「西原のことをどう思うか」と聞くのである。
それに対して朔子は『人を好きになったことがない。「好き」がわからない』と答える。
この朔子の答えは、今で云えば「アセクシャル」とカテゴライズされてもおかしくないが、本作においては、二人の(性的)嗜好について明確な回答の提出はなく、保留される。
それこそが、「何でも既成の言葉で表現出来ない」というメッセージでもあるし、何より本作が「朔子の世界」である以上、彼女に明確な回答(言葉)は提出できない(もとより、「好き」という気持ちが言葉によって明確に定義できない以上、朔子や西原どころか栄美にだって、自分の中の「好き」がどこにカテゴライズされるかなんて、わからないだろう。憧れや尊敬、親密さでも「好き」という感情は芽生えるし、それが恋愛や性的嗜好に直結するほど、人間の感情は単純ではない、とも思う)。

栄美だって、たまたま今は男の子を「好き」なだけかもしれないし、或いは、「男の子を好きになるのがフツー」だと思いこんでいるだけかもしれないが、いずれにせよそれは『ありきたりな恋』と言っても良く、このシーンのやり取りを通して栄美が、『自分自身もありきたりな女子高生なのではなく、特別な個人なのだという実感を獲得していく』というのは、本作パンフレットで映画監督・美術家・文筆家である鈴木ふみ氏が指摘しているとおりだ。
つまり、「わからないから伝わらない」と思い込んでいた三人が、「わからなくても伝わる」ことを知って「成長」するのである。

3つ目の「成長」箇所が朔子だけでなく西原にとっても、そして「朔子を経験」している私にとっても大きな転換点となる。
「わからなくても伝わる」ことを朔子とともに知った西原は、朔子が製作した「言葉の(抽象的)実体化」を目の当たりにする。
そして、二人が「言葉の実体化」に歩み寄った時、彼女たちの世界は、狭い部屋から大きな海が広がる海岸へと一気に広がる。
この「魂の開放」ともいえるシーンによって、「朔子の世界」を経験していた私も、大きな解放感と感動を得ることができたのである(瞬間、鳥肌が立った)。

そして、最後の「成長」は、もちろん、ラストシーンだ。
家が(無機質な重機によって無慈悲に)取り壊されるのを黙って見つめる朔子(=私)にとって、それは「振り返る過去を無くす」ことの象徴として現出し、そのある種の(言葉にできない)不条理を受け入れることによって「新たな自分」として未来を生きる覚悟となる。

彼女(と西原は)、もう過去を振り返る必要がない。
二人の「船」は本当に、言葉なく静かに海に浮かび、これから大海原を目指して溺れないで泳いでゆく(だって、この「船」には「水かき」がある)のだから。

メモ

映画『ミューズは溺れない』
2023年3月22日。@ポレポレ東中野(アフタートークあり)

「既成の言葉」によって、あらゆるものをわかり易くカテゴライズする風潮は、どんどん加速しているのではないか。
と思ったのは、上映後に行われた淺尾監督と主演の上原実矩さん、上述の鈴木史さんによるアフタートークで、淺尾監督が「本作は2019年に撮影していたものでコロナ禍等もあって4年越しの公開となったが、2023年に公開してみると栄美の『レズビアンなの?』というセリフが暴力的ではないか、と観客から指摘された」と発言したからだ。
「アセクシャル」を含め、特に性的嗜好については「用語によるカテゴライズ化」が進み、そこからさらに「配慮されるべきモノ」というカテゴライズに深化し(てしまっ)たのではないだろうか。

加えて興味深いのは、美術部員でありSF研の部員も兼ねる男女生徒(桐島コルグ・渚まな美)が、新聞記者の取材に上手く応対できない西原を小馬鹿にしたように見るシーンで、つまり二人は西原をある意味「コミュ障」とキャラ付けして、スクールカーストの下に置いているとも言える(現代の学校において、いくら絵の才能があっても「コミュ障」である以上、カーストの下位に位置づけられてしまうというのは、『承認をめぐる病』(ちくま文庫、2016年)において、斎藤環氏が指摘したとおりである)。
とはいえ、SF研の部員がこの二人しかいないことを考えると、彼ら自身も「SF好きというキャラ」を自らに割り振っているだけなのかもしれない(さらに言えば、男女二人ということもあって、周囲から本人たちの意図しないカーストに位置づけられていそうなのは、本作から窺える)。

ちなみに全然関係ないが、下北沢(という場所がミソ)の古本屋で購入した『別役実のコント教室 不条理な笑いへのレッスン』(白水社、2003年)を本作を観た翌日にたまたま読み始めたのだが、その冒頭で別役氏が、「絵画教室では以前は"模写"が主流だったが、現在は"写生"が主流になった」と指摘していた。

古典と近代の作品を見比べると、近代絵画っていかに小ざかしいか、ちまちまと小さいんですね、作業が。確かにオリジナリティはある。タッチも違うし、独自だし、オリジナリティはあるんだけども、造形力が非常に劣っているわけです。小さい、小粒。(略)
どういうことかというと、おそらく、自分の思いどおり、ありのままに描くのが非常にいいように見えて、写生教育の場合、その人個人の知恵しか作品の中に出てこない。

確かに朔子の「船」はオリジナリティはある。だけど、それだけでは動力がないと進めなかった。
それは朔子『個人の知恵』であり、つまり、彼女はその時点ではまだ消極的だったと言える。
しかし、西原のアイデアによって「船」は「水かき」を得、自分の足(水かき)で進めるようになったのだ。

ちなみに、別役氏は先の指摘の後、『演劇でも模写がかなり重要だと(略)。(元ネタの)パロディーとまではいわないまでも、二の替わり、三の替わりというふうに、どんどん変えながら(新たな作品が)生み出されてきたわけです』と続けるのである。


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