映画『わたしの見ている世界が全て』

イライラする映画だ。
批判ではない。
いや、白状すると、映画『わたしの見ている世界が全て』(佐近圭太郎監督、2023年。以下、本作)を観ている間、批判の意味でイライラしていたのは事実だ。
しかし、ラストシーンの主人公のモノローグを聞いて、ストーリー自体がストンと腑に落ちた。
だからと言ってイライラが解消することはないのだが、そのモノローグによって、私の気持ちは批判から肯定へと変化した。

公式サイトに掲載されている「あらすじ」はこうだ(役名と演者名は引用者が追記)。

熊野遥風(森田こころ)は、家族と価値観が合わず、大学進学を機に実家を飛び出し、ベンチャー企業で活躍していた。しかし、目標達成のためには手段を選ばない性格が災いし、パワハラを理由に退職に追い込まれる。復讐心に燃える遥風は、自ら事業を立ち上げて見返そうとするが、資金の工面に苦戦。母の訃報をきっかけに実家に戻った遥風は、3兄弟に実家を売って現金化することを提案する。興味のない姉・実和子(中村映里子)と、断固反対する兄・啓介(熊野善啓)と弟・拓示(中崎敏)。野望に燃える遥風は、家族を実家から追い出すため、「家族自立化計画」を始める―。

まず、遥風のキャラクターにイライラする。
彼女は、世の中には「使う者」「使われる者」「使えない者」の3種類の人間しかおらず、それが(社会的)勝者・敗者の区別だけでなく、人間性の優劣、正義・常識の正当性にまで及ぶと信じている。
加えてイライラするのが、兄・啓介と弟・拓示、さらに実和子の恋人・司(松浦裕也)を含め、男たちが揃いも揃って「優柔不断で思慮の浅いダメ男(=「使えない者」)」として描かれていることだ(だからこそ、遥風が「家族自立化計画」なんてことを容赦なく実行に移せるわけだが……ちなみに、この計画名は劇中には出てこない)。

20世紀であれば、こういった所謂「強者」が「敗者」を非人間扱いする(さらに、自分で自分の人生を選択しづらい社会を生きる女性を服従させる)物語の主人公は大抵、男だった(女性の場合は、その裏に「男性社会への復讐」といった別の意味が付与される)。
21世紀に描かれた本作は、しかし、単に男性と女性の立場を入れ替えただけの物語ではない。

実家の農家の跡を継ぐ、啓介の恋人・明日香(堀春菜)に「あなたにとって幸せって何?」と聞かれた遥風は、「人に認められること」と答える。
それに対し明日香は「誰かに認められないと幸せじゃないんだ」と返す。

20世紀の物語には、はっきりと「認められるもの」があった。
金、出世、名誉、女……

21世紀には男性と女性を入れ替えなくてもー男性が主人公でもー、はっきりと「認められるもの」がない。
もしかしたら、それを露呈してしまったことこそが、最大のイライラポイントなのかもしれない。

と言いつつ、本作が終始イライラするのは、本作タイトルどおり『わたしの見ている世界が全て』だからだ。
物語は一貫して『わたし=遥風』の主観で描かれており、従って、他の(観客が共感する愛すべき)登場人物たちへのエクスキューズやフォローが一切なされない。
だから、観客の『見ている世界』からは、物語の登場人物は誰一人として救われない(もちろん遥風も)。
それは、観客の『見ている世界』の物語において、観客が期待するような、登場人物ー特に遥風におけるーの変化や改心が一切描かれていないことに通じる。

これは、驚くべきことだ。
作り手としては観客に対する配慮から、どうしても、遥風に虐げられる兄弟や部下を少しでも救おうとしたり、或いは遥風に少しでも共感してもらえるように弱さを見せたり、『家族と価値観が合わず、大学進学を機に実家を飛び出し』たエピソードを描いたり、明日香の畑を手伝ったことによって遥風を改心させたり、逆に音信不通になった部下の状況を描いて遥風を完全な悪役にするとか、してしまいがちだ。
だが、本作は実家の店を閉めるということ以外、その店がこの先どうなるのか、(ラストシーンに登場すらしない)兄姉弟がどうしたのか、部下がどうなったのか…どころか、遥風自身がどうするのかも一切描かれない。
何故なら、遥風を含めた登場人物各々は『わたしの見ている世界』を生きているだけであり、『見ている世界』が変わったから身の振りを変える、ただそれだけで、物語的な「救い」「成長」「結末」とは全く無関係だからだ。

約80分の物語は、しかし、観客が知りたいそれらを全て放り出して終わりかけた寸前、ラストシーンにおいて「誰かに認められないと幸せじゃないんだ」に対してかすかな答えを提示し、ラストの遥風のモノローグにささやかな希望を託す。

たしかに21世紀の世の中、誰かに認められなければ幸せではないのかもしれない。とはいえ、その誰かは『わたしの見ている世界』で確かな存在、或いは数字やコメントとして現出しなければならないのか。

『わたしの見ている世界が全て』なのは、一つの真理ではある。
しかし、誰かが『わたしの見ていない世界』で、わたしに対して「よろしく言っといて」と言ってくれたことは、とても大切なことではないか。
それは21世紀の世の中に対する反論であり、そんな世の中に生きる我々にとって、ささやかな希望となり得る。

それに気づいた私は、たった今『わたしの見てい』た映画を肯定することにした。

メモ

映画『わたしの見ている世界が全て』
2023年4月12日。@UPLINK吉祥寺

サービスデーの水曜日で、さらに公開終了前日ということもあったのか、29席のミニシアターは満席だった。

本文に書いたとおり、私はラストシーンギリギリまでイライラしながら本作を観ていた。
イライラしていたが、不思議と嫌な気分にならなかったのは、たぶん本作のセリフ(佐近監督と末木はるみ氏の共同脚本)のセンスが良かったからだ。
最初に気づいたのは、「家族まるごとサプライズ」というセリフで、それ以降、ずっとセリフのセンスと無駄のなさに感心していた(運転初心者の拓示が車をヨロヨロと数メートル走らせたところで、兄の啓介が「上手くなったな」と励ますセリフでは、観客の誰かが吹き出していた)。
もちろんラストの遥風のモノローグは物凄く素敵(その言葉で、私は物語全てが腑に落ちた)だが、中でも秀逸なのが、離婚して元夫に引き取られた実和子の娘・真実(新谷ゆづみ)が店に現れてその帰り際、実和子が(きっともう会うことがないだろう)真実にかけた「いってらっしゃい」というセリフだ。
この言葉のチョイスに感動してしまった。

そういえば、本作の前に映画館で観た映画が、『ミューズは溺れない』(淺尾あさお望監督、2023年)で、本作主演の森田想さんと、明日香の父役の川瀬陽太さんが、それに出演していたというのは、何かの縁なのかもしれない。
「観る映画に軒並み同じ俳優が出ている」という現象はたまにあって、たとえば去年(2022年)上半期だと、本作に出演している新谷ゆづみさんが、映画『麻希のいる世界』(塩田明彦監督)、『やがて海へと届く』(中川龍太郎監督。ちなみに、本作の原案は中川龍太郎氏である)、『マイスモールランド』(川和田恵真監督)に出演されていて、さらには、これから観に行こうと思っている『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』(金子由里奈監督)にも出演されているという。


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