鎮魂の物語~舞台『最高の家出』を観て思った取り留めのないこと…(感想に非ず)

舞台『最高の家出』(三浦直之作・演出。以下、本作)を観た。
53歳の私は主演の高城れにが所属する「ももいろクローバーZ(通称・ももクロ)」のことをよく知らないし、作・演出を務めた三浦が主宰する劇団「ロロ」もよく知らない。だから、それらのファンの人たちなら当然わかることが(たぶん)わからない。
そこでわからないなりに、観ながら思った取り留めのないことをツラツラと書いていく。

その前に一応、本作パンフレットに掲載された「STORY」を紹介しておく。

結婚生活に疑問を感じ、家出をした|立花箒たちばなほうき》(高城れに)。
道中、無一文になり途方に暮れていたところ、出会った藤沢港ふじさわみなと(東島京)に「住み込みの働き手を探している劇場がある」と聞き、劇場を訪れる。そこで与えられたのは、舞台上に作られた“模造街”で、ある役を演じる仕事だった。
この劇場ではたった1人の観客のために、一つの物語を上演しているのだが、港が家出したせいで、箒は代役を務めるハメになる。
舞台の主演、蒔時まきときアハハ(祷キララ)は「相手役が変わるならやらない」とゴネるが、物語の幕は上がり、箒とアハハはチグハグな関係のまま芝居を続ける。
演劇と現実の区別がつかなくなった男・背中(板橋駿谷)、眠りを忘れて働き続ける裏方・夏太郎(亀島一徳)、金銭にこだわる女・テレカ(島田桃子)、台本の台詞しかしゃべらない俳優・足鳥(重岡漠)。その弟・身軽(篠崎大悟)。箒は奇妙で愉快な面々に振り回されながら、次第に劇場での暮らしに心地よさを覚え、アハハとの友情を深めていく。
そんなある日、劇場に箒の夫・|向田淡路むこうだあわじ》(尾上寛之)が現れ、さらに港も戻ってきて、“模造街”の秩序が崩れはじめる……。


1984年に刊行されて話題となった、「ニューアカ」の旗手(当時)・浅田彰が著した『逃走論 スキゾ・キッズの冒険』が39年の時を経た2023年、突如ちくま文庫から復刊された。
冒頭を飾るエッセイ「逃走する文明」の書き出しはこうだ。

男たちが逃げ出した。家庭から、あるいは女から。どっちにしたってステキじゃないか。女たちや子どもたちも、ヘタなひきとめ工作なんかしてる暇があったら、とり残されるより先に逃げたほうがいい。行先なんて知ったことか。とにかく、逃げろや逃げろ、どこまでも、だ。

本作が『女たちが逃げ出した。家庭から、あるいは男から』なのが、40年の時の隔たりを感じさせる。
この中で浅田は、人間を「パラノ(パラノイア=偏執)型」と「スキゾ(スキゾフレニー=分裂)型」に分け、「スキゾ型になろう」と提唱する。
彼は、「パラノ型」の例として「定住・<内>の思考・愛の泥沼」などを挙げ、それに対して「スキゾ型」は「逃走・<外>の思考・砂漠の愛」とする。
つまり、これはそのまま、アハハ(パラノ)と箒(スキゾ)に当て嵌まる。

浅田は2022年2月9日付の朝日新聞のインタビューで『逃走論』を、こう振り返っている。

異なる人々と接触し、自分も変わっていくような生き方の方がいい。好き勝手な方向に逃げて、性的マイノリティーの人々や人種的マイノリティーの人々など様々な「他者」とかかわり、新しい自分に出会おうと提唱しました。旧来のアイデンティティーのくびきから逃れ、別の何者かになる可能性に賭ける行為を、逃走と呼んだのです。

さらに言えば、「逃走する文明」の中で浅田は「<クラインの壺>からさらなる未来へ」と短いコラムを書いている。

土台から積上げたり、頂点から吊り支えたりできるのならいい。けれども、頂点まであがったら、いつのまにか土台に戻っていたというような世界、外が内であり、終わりが始まりであるような世界にいるのだとしたらどうだろう。

本作パンフレットで作・演出の三浦はこう書いている。

2020年に日本でコロナが蔓延して以降、ずっと家出をしているような気持で過ごしてきました。行くアテもなくウロウロと彷徨い続け、宙吊りになっているような感覚。(略)ぼくは緊急事態宣言で、みんなが外出を控えている最中、家のなかに家出しているような、そんな感覚がずっと消えませんでした。コロナが落ち着きをみせはじめ、久しぶりに友人と食事を楽しんだときも。やっぱり「帰ってきた!」という感覚がありました。
家の中へと家出して、外の世界へ帰っていく。逃げたはずが迎えにいって、帰り道はいつのまにか新たな旅路へなっていく。そんなアベコベな、行きて還りし物語。『最高の家出』は、そんな想像から始まりました。

物語の途中、アハハが劇場の外を知らない、と仄めかされる。劇場の外には何もないのだと、彼女は言う。
これを聞いたとき、私の頭の中に「電子の森」という言葉が浮かんだ。もっと具体的に言えば、1992年(NHKドラマ『ネットワーク・ベイビー』は1990年に放送されたのだけれど)初頭、今で云うところの「メタバース」のような電子空間にある森にいる『ホスト・コンピューターがつくりだしたキャラクター……っていうか、人工知能があるの。それが、<お化け>』。
開発会社でのテストが終わり、一般公開のために全てのテストデータが消去されたはずなのに、テスト時に覚えた「くん・ぽん・わん」を一人電子の森で遊び続ける「ナミ」と、劇場(森)の外のことを知らず、日々たった一人の観客のために主役の珠子を演じ続けるアハハ……

或いは、『逃げたはずが迎えにいって』という三浦の言葉から、大人計画主宰・松尾スズキが生み出した傑作『キレイ 神様と待ち合わせした女』(2000年初演)を思い出す。
幼い頃から監禁されていた地下から外へ出たミソギが(幼きままの)自分自身(=ケガレ)を地下に置いてきたことに気づき助けに行く(ミソギとケガレが力を合わせて扉を開く場面は号泣必至)という関係性が、もしかしたら、アハハと箒に当て嵌まり、つまり箒は置いてきた自分自身(=アハハ)を救いに来たのではないか(監禁の関係性としては、「マジシャン」=夏太郎、「神様」=珠子、になろうか)。

と考えた物語は、本当に商店街がなかったと、ある意味意外な展開となる。
そこで私は、「珠子が一週間の「家出」から戻ったとき、あったはずの商店街、その一角にあったはずの(自分と夫が経営していた)花屋もなかった」と語られたことを思い出す。

本作は「未来」はおろか「過去」のドアさえも閉ざされた劇場の中で、人々が(半)永久的に同じ時間を繰り返す、という構造になっているが、最終盤に「商店街(と花屋)はなかったのではなく、かつてはあった」、しかもそこが「現在は海岸になっている」と明かされるに至り、ついに「過去のドア」が開く。
そのドアはどこへつながっているのか?

ヒントとなるのは、本作が夏の話なのに上演されているのは2月~3月にかけてで、しかも、劇中で箒の夫・淡路が「夏なのに冬服を売る店」を経営していた、ことではなかろうか。

ということで、ここに至って私は、2011年8月に上演された舞台『現代能楽集Ⅵ 奇ッ怪 其ノ弐』(前川知大作・演出)を思い出した。
ある夏の日、誰も住まなくなった廃村にある荒れ果てた神社に、かつての神主の息子が帰ってくる。誰もいないはずの神社には、一人の男が住み着いていた。
息子と男が会話をするうちに、そこにかつての神社が立ち上がってくる。
そこでは神主を中心に、村の者たちが集って夏祭りの準備をしていた。
そのとき東京で暮らしていた息子はその場にいなかったが、男との会話を通して(まるで幽霊のように)そこにいてその光景を幻視していた。
……と、突然「このあとすぐ、この村を"アレ"が襲ったんだよ」と男が言い、物語と、さっきまでいたはずの人たちの人生が、唐突に終わる。
私はこの芝居を観て「鎮魂だ」と静かに涙を流した。

本作のラストシーンも、まさに「鎮魂」だったのではないだろうか。

メモ

舞台『最高の家出』
2024年2月8日 ソワレ。@紀伊國屋ホール

どうでもいいことだが、箒が色々な鍵をいとも簡単に開けてしまえるのは、やはり彼女が「怪盗少女」だからだろうか?

それはさておき、少し真面目な話に戻すと、本当に「鎮魂」だったとしたら、『最高の家出』をしたのは他ならぬ珠子ではなかったか。
ラストシーンは「(疑似)珠子が(疑似)静男に迎え入れられる」とでも云えるもので、この(疑似)が(魂)と変換可能だとすると、珠子は静男に許されることによりゆるされることになる。
それによって、母が背負うべき罪を代理で引き受けさせられていたアハハが救われ、閉じていた「未来への扉」が開かれる、というのは考え過ぎだろうか?

補足として書いておくと、本作は映画『サマーフィルムにのって』(松本壮史監督・三浦直之脚本、2021年)の一種の「スピンオフ」とも、こじつけられる(かもしれない)。
ブルーハワイ(祷キララ)とダディボーイ(板橋駿谷)の邂逅かいこうという意味で。
或いは、最終盤のクライマックスで、ハダシ(伊藤万理華)と凛太郎(金子大地)が「箒」で対決する、という意味で。


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